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よかったね
僕は講義室の一番後ろの席に座っていて、あの人は真ん中くらいに座っている。
一人だ。
席を移動して、少し…… 近づこうかな…… 。
そう考えただけで胸がどくどくとしてきて、緊張が高まってしまう。机に広げたノートや教科書をまとめる手が少し震えた。
やっぱり…… 勇気が出ない。
だめだよ、あれだけ後悔したじゃないか、今度はもっと後悔することになるよ、と脳内トークが繰り広げ始めた。
よしっ!
決心して立ち上がると、教授が来てしまい出鼻を思い切り挫かれてしまう。
授業のあいだ中、ずっとあの人の背中を見ていた。
少しカールのかかった柔らかい髪をかきあげる手が、遠目で見ても綺麗だと分かる。長い指がしなやかに動き、シャープペンシルを持つと、頬を何度もさしている…… 本当にずっと見てしまって、頬を赤らめた。
変、だよね、僕。
でも、授業が終わったら絶対にお礼を言うんだ、絶対に。
そう思ったらドキドキして、授業どころじゃなかった。
食堂の時のようにいつの間にかいなくなってしまったら大変だから、授業が終わる結構前からリュックに教材をしまい込んで、机の上が綺麗さっぱりになってしまう。
まずいかな…… ちょっと思って、教科書だけまた出した。
「はい、ではこれで授業を終わります」
教授の声に、バラバラと学生たちが立ち上がって講義室から出ていく中、リュックを急いで肩にかけ、出した教科書はしまう余裕がなくて手に持ったまま、あの人に近づいて行った。
あと少し、というところで足が震えてしまう、だめだ、勇気を出すんだ、あの日あんなに助かったじゃないか。
大きなトートバックに教科書やノート、筆箱をしまっているあの人が目の前になると、思わず唾を大きく飲み込んでしまった。
「あ、あの…… 」
…… あれ? 聞こえなかったのかな?
全く反応がなくて、バッグに入れ終わるとスッと席を立ち上がる。
「あ、あのっ!…… 」
さっきより少し大きな声を出してみると、ゆっくりと僕に振り向いた。
なんて…… なんて綺麗な顔をしているんだ。
まず、それにびっくりしてしまって次の言葉が出なくなってしまう。
エレベーターの中では胸元しか見えなかったし、あとは後ろ姿ばかりで、まじまじと顔を見たことがなかったことに気付く。
背も高くてスタイルも良くて…… さらに緊張が高まり紅潮した自分が変に思われないか不安になる。
顔だけをこちらに向け、黙ってなにも言わずにじっと僕を見ている。
僕が呼び止めたんだから、なにか言わないと、だよね。なにか、じゃないよ、お礼だよ、頭の中がパニックになり、本題を忘れてしまっていた。
「あの…… 先日は、その…… えっと…… 」
しどろもどろになって話していても、全く動じず無表情で僕を見ているから余計に緊張して声が裏返ってしまう。
「あのっ」
僕の裏返った声に、ほんの少し眉が動いたのが分かった。
あ…… 。
なんだろう、それだけで嬉しかった。
「せ、先日は…… あの…… エレベーターで…… エレベーターがブーって鳴ったときに、その…… 」
エレベータがブーって鳴ったとき、とか、子どもみたいな言い方しちゃったじゃん、恥ずかしいっ。ますます顔が赤くなってしまう。
「…… ああ、あのときの」
ぼそっと言葉を発してくれた。
「そ、そうですっ!覚えてくれてましたか!? あの…… 本当に助かりました!おかげで講義に間に合って、本当にありがとうございます!」
一気にまくし立て、大満足で鼻息も荒くなる。
「よかったね」
それだけを言い、講義室を出て行こうとする彼の背中を見送った。
あ…… なんだろう、このザワザワモヤモヤ…… 言わないほうがよかったかもしれない感。
ううん、言わなかったらきっと、もっとザワザワモヤモヤ…… それにグズグズも加わったよ。肩に掛けただけのリュックを背に背負いなおし、しまえなかった教科書を手に持ったまま、僕も講義室を出た。
── よかったね
全く感情がこもってなかったけど、ちょっと嬉しかった。
嫌な感じではなかった。
ザワザワモヤモヤ…… が時間が経つにつれトクトクとしてきた。
無表情で綺麗な顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
あのときの香りが微かにした、ネックレスのチェーンも見えた。
授業がない次の時間、構内のベンチに座ってぼーっと、あの人のことを思い出していた。
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