嫌だ

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嫌だ

「おまえ、ばか? 」 ぼそり、淡々と久紫さんが言った。 怒るかなって思ったし、思いもよらない言葉に内心(えっ?)って、久紫さんを少し丸くした目で見てしまう。 「俺のこと “ ばか ” って言うの、久紫くらいだぜ、ばかなわけないじゃん、ほら、U大だぜ」 はぁーーっと、大きくため息を吐くと、 「行こう」 と、また僕の背に手を当て歩き始めた。 「久紫さん…… 」 不安がいっぱいのまま、久紫さんの顔を見つめていたと思う。 目が合うと、二、三歩歩いた足を止めて、由汰加さんに振り向いた。 「この前、ちゃんと話しをしただろう? 俺とおまえはもう何の関係ないんだから、話しかけないでくれ」 「それはそれ、これはこれだよ」 眉を上げ、片方の唇をクイっと上げて由汰加さんがそう言った。 「は? 」 「別れ話はちゃんとした、はいはい、分かりました、俺と久紫はもう恋人同士じゃありません。でも編入試験のことは別じゃん、人生がかかってるんだから真剣に考えろよ」 「…… おまえに言われる筋合いはない」 今度は僕の肩を抱いて歩き始める久紫さん。 「いつでも来いよー」 呑気で明るい声が背中に聞こえる。 「………… いいの? 」 かなり遠慮がちな僕の声。僕が遠慮することは何もないのだけれど、あっけらかんとしている由汰加さんに気負けしてしまう。 「いいも何も、あいつには関係ない」 「…… まだ、話したりとかしてるの? 」 久紫さんからはないにしても、由汰加さんから話しかけてきたりしているんじゃないかと思ったりした。 「してないよ。ちゃんと話しをしたあとから、今日初めて声をかけられた…… すごい不愉快」 それは本当なんだろうと思えたけど、これからも久紫さんにまとわりついてくるんじゃないかって不安。 「…… そう、なんだ…… 」 「あいつの考えてること分かんない。イライラする」 久紫さんにしては珍しくイラついた声に、少しハラハラした。 「…… はな…… 話さないでね、由汰加さんと…… いや、だから」 ギュッと、久紫さんの少し厚手のブルゾンの袖を掴んだ。 「当たり前だろう? 不安にさせてごめん」 そう言って、袖を掴んでいる僕の手をそっと握ってくれた。 「…… 編入試験、受けるんでしょう? 」 いい機会、気になっていたけれど切り出せずにいたから。 「んー、考えてはいるけど、まだはっきりとは決めてない」 久紫さんが違う大学へ行ってしまうのは、とても寂しいし切ないけれど、久紫さんのことを考えたら、その方がいいに決まっている。 この先、公認会計士として働くにも『○○大卒』って、かなり関係あると思うもの。 だとしたら、やっぱり由汰加さんと同じU大なのかな、って思うとひどく切なかった。 「自分の中では、受けない方向が固まりつつあるけど」 僕の不安そうな様子を心配したのか、ポツッと言った久紫さんの言葉、もしかしたら卒業までずっと一緒にいられるかもって嬉しかったけど、でも、それじゃあ勿体ない。 「この大学じゃ、お仕事、あまりもらえないんじゃない? 」 余計なお世話だったと思う。 「お父さんとお母さんは、何も言わないの? 」 大学受験だって、この大学だけ受験したって言ってた。あんな難関高に通ってたのに。由汰加さんを追って。 「三年次に編入するからって、そう言ってお父さんとお母さんに話したんじゃないの? 」 久紫さんが何も言わないから、僕が質問攻めにしてしまう。 だって、とても気になるし、考え込んでいるような久紫さんの顔がとても不安なんだ。 「依杜、編入試験、すすめてるの? 」 僕の顔を見て、いつものようにボソッと訊く。 「え? だって…… 久紫さん頭がいいし、勿体ないじゃない」 「行くとしたらU大なんだ。それ以外なら、俺にはどこも一緒。それでもいいの? 」 え? やだ。 由汰加さんと同じ大学に編入なんて嫌だ、でも、僕が嫌だって言えないよね。久紫さんの人生がかかってるんだもん。あ、これ、さっき由汰加さんが言ってたことだ、ちぇっ、なんか悔しい。 でも、そうだよ、久紫さんの人生を大きく左右することだと思うから、僕が嫌でも、そうは言っちゃだめだ。 「嫌だ」 あ、なんてこと。 心に思っていたことがそのまま出ちゃったよ、だめだよ、急に焦って汗だくになった。 「な、なぁんてね、ふふふっ、う、嘘だよ」 慌てて言い直した僕を、久紫さんがじっと見ている。 「嘘? 」 あ、怖い顔。 「う、うん、真面目な話ししてたのにごめんなさい」 久紫さんの方を向き、軽く頭を下げて謝った。 「…… 嘘なの? 」 え? そんなに怒らせてしまったか。どうしよう。 「本当にごめんなさい」 今度は深々と頭を下げて謝った。 「俺と離れるのが嫌なんだと思って、嬉しかったのに」 残念に思ったような言い方に、胸がきゅんとなる。 嫌だよ、離れるなんて嫌だよ。 でも、僕がそれを言ったら久紫さんが困るでしょう? 困らせたくないもの。 それに久紫さんの将来がかかっている。 というか、僕の本当の気持ちはどうなんだろう、分からなくて俯いた。
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