アカノキサキの最期

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アカノキサキの最期

 呪いと呪いのぶつかり合いは、言うまでもなく人の目に見えるものではない。  ましてや、激しい可視光やおどろおどろしい効果音があるわけもなく、どちらかといえばそれらは魔法に分類されるものに近い。  要するに、現実で起こる呪いは想像以上に恐ろしいものだが、その分ごくごく地味なのだ。  紅后は狙いを据えた強い気配が移動したことを察知した。本能のままに動く呪霊は、より強い力に引き寄せられる。  新たな身体に乗り換えられたら、しばらくは惨めで窮屈な気分に害されずに済む。  思う存分世を渡り歩き、行く先々で自らが呪霊として“生きていく”為に必要な魂を貪ることができる。  欲望のままに、衝動のままに、本能のままに。  いつの世も、どの生き物も——既に死んでいたとしても、意思の最奥から湧き上がる情念に従うことこそ、生を実感する最も効果的な手段なのだ。  あの身体を手に入れる絶好の機会が再び巡ってきた。次こそは逃さない。  鬱蒼とした茂みを素早く掻き分ける。ここはもう吉原の外。品のある、まどろっこしいあの歩き方をする必要もない。  気配が動かなくなった。移動をやめたらしい。暗がりの木陰で息を潜めたとて、執念の眼を誤魔化すことは叶わない。  そして紅后は、ついに獲物を捕らえた。  しかしその姿は似ても似つかない、ただの紙切れ。  はて。何故自分はこんなものを追っていたのか。その理由も皆目見当がつかない。分からないのに、ただ憎しみだけが込み上げてくる。限りなく固形に等しいほどに粘性の高い、粘土のような暗い塊を吐き出しそうだった。  こんな姿になることはできない。許せない。  暗澹たる塊を形代にぶつけようとして力を一点に込めた、まさにその瞬間。何者かに隙を突かれた。  『ほう。この力、骨董の市松など取るに足らんな。こればかりはうぬに感謝せざるを得まい』  輝きを放つ、黒。白。赤。そこには紅后が求める全てがあった。  枯渇しかけた肢体へと徐々に忌々しい呪力が注がれてゆく。元よりガタが来ていた身体の自由が更に奪われ、希薄だった意識も混濁する。裏腹に、忘れ果てて久しい恐怖は著しく膨れ上がった。嗚咽と慟哭が止まない。黒くねばついた塊は吐き出すどころか、激痛を伴って身体中を駆け巡る。視界はぼやけ、今や梢も聞き取れない。感覚などとうの昔にどこかで落としてきたのに、何をどうしても不快な痛みを拭うことができない。蠱毒ができあがる前のすり鉢の中に、放り込ま、れたような、皮膚、を何かが這い回る。もう皮膚は、ない。目も耳、も、死し、た魂も、ニ百年、を越えた、イのちノ証も。  全てが、無へと落ちる。  「上手くいった。紅后の本体はこっちの藁人形に、元の市松人形には封印を施してある。こいつにはもう戻れないだろう」  「お疲れ様です。紅后の藁人形はこちらで預かります。力や出自など、調べたいことがありますので」  「んう……確かに持っていたくはないからあんたがそう言うなら渡すけど、そもそもあんたは何者なんだよ」  「専門家だと言ったでしょう。それに見たところ……あなたもあまり詮索されたくない職業なのでは? お互い打草驚蛇でしょう」  「ははは……それもそうか。じゃあ任せる。これぞまさしく厄介払いってな」  「では……その市松人形は僕の方で供養します」  『おいうぬら、まずは我を労うべきではないのか』  今際に見えた微かな一縷。  汚泥に飲まれた憎しみと偏執は、最期の可能性を逃さなかった。  大河のペンデュラムは三度(みたび)激しく揺れた。先端は亜梨須でも藁人形でもなく、作業場の隅を指している。彼がそれを見逃すはずがなかった。  「訂正します。藪蛇だろうと関係ありません。あなた、他にも何か隠し持っていますね。今すぐ出してください」  大河の表情は険しく、相当な迫力を伴っている。  その矛先の当人は何のことやらさっぱり分からないと言わんばかりに眉を顰める。  「シラを切っても無駄だ。俺に力はないが、俺の道具は嘘をつかない。ここで一番強力な代物を出せ」  「いや、そんなこと言われても本当に分からないんだ。ここにはその……人には出せないものばかりで」  有無を言わさず、誰かの言葉が遮った。  『ふふっ、ひと時はどうなることかと。塩次郎さん、この賜り物、有難くいただいていきなんす』  廓詞が特徴的な声。  わざわざ口には出さずとも、その声の主が何であるかを、居合わせた全員が察した。  動き出したのは、亜梨須と同じ姿形をした真っ赤な人形。  「嘘だろ、あれは亜梨須のスペア……! 何であいつが!」  「ああ。あれを指してたのか。藁人形にはもう何も?」  「はい、感じません。まんまと逃げ果せたみたいです。……ちょっとヤバいかもしれません」  紅后は蘇った。  逆巻く呪力は渦となり、光という光が鳴りを潜める。泥濘の底から這い上がるどす黒い闇が辺りを包み込む。  『身体がもう一つあるのなら、そう言っておくれなんし。わっちの惨憺が徒になる寸前でありんした』  「あいつの言う通りです。俺らの苦労も泡になるところでした。あなた、人形職人なんですか? その割には余計なものがあれこれと」  「話すと長くなる。まぁ、金稼ぎ——ビジネスの一環とだけ」  「それで人死にが出たらどうするつもりなんですか。俺にはさっぱりだ。理解に苦しむ」  「僕も、大河さんと同意見です……」  『はぁ、内輪揉めでござりんすか? なればわっちはこれにて。おさらばえ』  折を逃さず、殺意の塊はこの場からの脱出を試みる。が、作業場には結界が敷かれている為、容易には出られない。  未だ薄らぼんやりとした感覚に阻まれていた紅后の知覚は、それを認識するのに一拍遅れた。  亜梨須もまた、その機を逃さない。  『そうは問屋が卸さん』  亜梨須の物を操る呪力が、まだ定着しきれていない同じ姿を見えない力で縛り上げる。直接人に害を為すことができない制限がある以上、亜梨須は対無機物において大きく有利を取れる。  はたして、魂は有機物なのか無機物なのか。そもそも物ですらないが、少なからず紅后を足止めすることには成功した。  『あらら。野暮さん喰らうのは好かねえけれど、そうすればわっちは逃げられんしょう。それとも……殺すべきは、オマエか?』  『たわけ共、早うどうにかせんか』  「どうにかって何だよっ」  桑原が亜梨須に八つ当たりをすると、大河がそれに反応して冷静に考える。  「ところで、何であいつの声は俺にも聞こえるんですかね。そっちの人形の声は全く聞こえないのに」  そう、本来なら呪霊の声など彼の耳には届かない。どれだけ強い力があろうと、受け止められるだけの器がなければ、その力はどこにも行き着くことはない。  にも関わらず、何故か紅后の声だけは聞き取ることができる。これが意味するものとは何か。  大河は何度も経験した命のやり取りの中で、確かな沈着さをゼロから作り出すことができた。  導き出した答えは単純明快。  「多分だが、あいつの声はスピーカーから出てる。霊感がなくても聞こえるのは、物理的に音が鳴ってるからだろう」  「やっぱり。詳しく聞かせてくれますか」  「あの試作二号はちょっと厄介かもしれん。呪力を増幅して、動力源に変換できるとかいう機器を取り付けてあるんだ。あくまで試作だったんだが……。とにかく、装置が動作してるなら、それをどうにかできない限りやつの力はさっきまでとは比べ物にならなくなる」  「なるほど、機器ね」  「ああ……。これも怪しいやつから買ったんで詳細までは知らないが、かなり精密な機械みたいでな。俺はそこまでデジタルには明るくないから——」  身構えていた大河は肩の力を抜くと、徐に紅后が憑依した亜梨須の二号に近付く。  そして二体目の亜梨須を、手に取った。  大河が壊した、四十九台目の機械だった。
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