act.9

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act.9

柾冬のマンションの最寄り駅で待ち合わせをして、ロータリーに大惺の黒いスポーツワゴンが現れた瞬間から綾はもう泣きそうになっていた。 助手席のドアを開け、車に乗り込む時も綾は俯いていた。 大惺は黙ったまま運転席から腕を伸ばし、綾を抱き寄せた。 綾は大惺の胸に顔を埋め、肩を震わせた。 「どうする?学校行くか?」 その問いに綾が黙ったまま逡巡していると、大惺は静かに車を発進させた。 車は通勤時間の渋滞から逸れてゆったりとしたスピードで走り、湾岸の駐車場で停まった。 大惺が自販機で熱い缶コーヒーを買って戻ると、車外に出ていた綾が走り寄り、胸に飛び込んできた。 大惺は缶コーヒーを上着のポケットに入れると綾を抱きしめた。 「……大惺……たいせ……」 大惺の背中に回した手に力を込めて綾は声を殺して泣いた。 大きな手が優しく綾の髪を撫でる。 「……辛かったな」 大惺は逞しい腕で綾を包み込み、耳元に優しく囁いて髪に口づける。 あの時、手首を縛られて動けなくなった自分にのしかかってきた桂木の、体の重みに恐怖を感じた。 綾は女ではないし、別に殺されるわけではないと思ったが、両手を拘束されることがあんなに怖いとは思わなかった。 特定の恋人というものがなく、なんとなくの行きずりで誰かと抱き合っていた頃なら、最悪すべてを受け入れることもできたのかもしれない。 ただあの時、綾は絶対に最後まではされたくないと思ったのだ。 柾冬以外に抱かれたくなかった。 脳裏にあの優しい微笑みが浮かんだ瞬間、それだけは嫌だと思った。 そんなことになったらあの人が悲しむ。 自分どうこうより、綾は柾冬を悲しませるのだけは嫌だった。 そして……。 「大惺が人殺しになっちゃうのは嫌だから」
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