ドーマンセーマン──System・authority──

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ドーマンセーマン──System・authority──

 するするのぼれ、夜の蜘蛛(くも)。  するするのぼれ、淀みなく。  その昔、天皇を戴きし京のみやこ。そのビルの谷間へ人の手により植えられた、か細い桜の樹の枝の、その先へ。夜露の玉を宝石の如く飾りし汝が巣へと───    尻を据えた公園のベンチ。見えやすい位置で奮闘する節足動物に、ついそんなエールを送ってしまっていた。 「『蜘蛛の糸』かよ──バカらしい」  ひとりごちた極低音の声は、草木の葉擦れすらしない闇夜に思いのほか響いた。  もみあげが深く顎髭と繋がっている、トレンチコートの襟を立てた巨躯の男。吐息もしゃりしゃりと凍結したそうな寒空の下、うつろな瞳で独りベンチに座る彼の横顔はしかし柔らかく解けており、同時にどこか寂しげに見えた。  葉を落とした桜の枝の間にダイヤモンド型の巣を架けていた蜘蛛。今の彼の心境的に、落ちてしまった巣へ戻るべく孤軍奮闘する小さな彼女へ応援の一つもしてやりたい気分である。  ふと夜風が吹いた。  せっかく自分の巣にもう少しのところまで登ってきていた蜘蛛がやくざな強風に哀れに翻弄され───糸がちぎれて樹の幹に、繊細な胴体を叩きつけられそうになる。  男は、()と手を出していた。なぜそうしたのかは自分でも判らない。勿論、座ったままの姿勢の男から届く距離ではない。しかし。  男の指は印を結んでいた。片手でも組める略式の印形。その手の遥か先で、蜘蛛は不可視の力に支えられ重力に逆らいフワリと空中を踊り、巣の上へ軟着陸を果たす。 「これも生きとし生ける衆生への善行になるのかね」  男は己を皮肉る。この力、そして父祖やそのさらに前の代から家訓として受け継いできた義務を、蔑ろにしてきた身でなにを今更…という自嘲である。 「俺は、そんな優しい人間じゃなかった筈なんだがな」  そうひとりごちる彼、葛切(くずきり)真菰(まこも)はこの日本の象徴でもある古都に根を下ろしてきた陰陽師の一族。かつ名門、しかし末端の分家の最後の一人だった。他の親戚縁者との連絡は絶えて久しい。彼が自分の代で家業を終わらせようとも、それを惜しむ声は何処からも上がらない。 (するする登れ、夜の蜘蛛。するする登れ、淀みなく。そうして巣を張り、時機を待ち、獲物がかかる瞬間(とき)を待て───)  頭の中でリフレインしていた言葉を流しやり、彼は甲にまで剛毛の生えた手首に巻いたスマートウォッチを無意識にこすった。  かつて高校・大学と重量挙げの選手時代に鍛え上げた逆三角形の肉体美だが三十路を過ぎてからは腹回りに贅肉がついている。それでもなお保たれた胸と腕の筋肉は(ヒグマ)のように膨れ上がり、防寒具代わりにトレンチコートを巻きつけてなお男らしい広さと厚みを描いている。顔の方は中学生の頃から成人と見紛う老け方をしており、現在では渋みに加えて凄みまでも醸し出している。おまけにここ最近の半断食に近い生活のゆえに頬が削げ、目の下にできた隈も相まって完全にヤクザ者のそれである。  あと数日もせず十二月も終わる深夜の公園に真菰が一人でいるのは、ただぼんやりするためではない。スマートウォッチの時刻を切り刻むように幾度も確認しているのは、盛んに吐息を出して緊張を抜いているのは、システムを無事に起動させるタイミングを待つためだ。太古の昔から陰陽師が司ってきた巧妙精密な霊的機構を完全に運用しなければ。滞りなく達成できたあかつきには、この先端技術の塊である電子機器が、彼の行いの結果を知らせてくれる。  結果───それはつまり、持ち主である真菰の呪詛の成否と、最愛の恋人の無事の報せ。  真菰の自宅のあるマンションから見下ろせるこの公園は、普段は近所の工業高校の生徒達が通学路のショートカットの為に使ったり、昼休憩のサラリーマンがベンチに横になっていたり、放課後の児童達がサッカーや鬼ごっこをしたりしているそこそこの広さの火除け地(オープンスペース)でもある。  昼間であれば、の話だが。  時計そのものの役割よりも、むしろ体調とカロリー管理におもに使用しているスマートウォッチは午前二時前を示す。言わずと知れた深夜だ。古風な言い方をすれば───丑三(うしみ)(どき)。この街の、京都の神秘の力が最も高まる時間帯。  真菰は左手を心臓の上に、右手を丹田に置く。深く大きく呼吸を整える。  十五分ほどもそうしていたろうか。陰陽師としての人生の中でも初めての試みに、心は揺れて中々鎮まらなかった。 (俺は今、生まれて初めて『人』を呪い殺そうとしている。それも何万kmも離れた異国の相手を。しかも、自分のために…)  ようやく目を薄く閉じて空を見上げ、タバコの煙を吐くように細く長く吐息を伸ばす。透明な糸を吐く、人間とは別の生き物のように。…いや真実、そうなのだ。  陰陽師は人外の化生(けしょう)である。指先の印形一つで超常の現象を引き起こし、視線一つで邪魅(じゃみ)(はら)い、唱える言葉で敵を滅ぼすのだから。そしてそれは、己を利するためではなく弱者やなべて衆生への助力とならなければならない。物心ついてからずっと、術の指導にあたってきた祖父から叩き込まれてきた信条だ。  しかし。  これからする行いは、少なくとも真菰自身の利己的な欲望のためのものである。それにより顔も知らぬ異国の民に僅かながらの助けを及ぼすだろうが、そこに義務などもとより存在していない。何処からも依頼を受けていないのだから。  あえて義務というならば、これは真菰自身と恋人のためのための行いなのだ。 「───オン…バサラ……ニ…ウン…」  誰かがそばに居たとしても聞き取れない、極小音の言葉の連なり。真菰の吐息に、その折れんばかりの細い気流の柱の中に、呟いている内容がうっすらと紅く浮かび上がる。それは梵字で──気の利いた卒塔婆などに記してある、古代インドのアルファベットだ──一つの呪詛を表して。  風の影響も受けずに狼煙のように空へと真っ直ぐ昇ってゆく。梵字の意味するところは。  奴を(・・)殺せ(・・)。  (かたち)なき精霊よ。(いにしえ)の王都に巣食う執念よ。天地万物に宿りしあらゆる(ちから)よ、我に従え。  ()く、遅滞なく、奴に紡がれし天命を、他ならぬ奴自身が為してきた悪行の重みで断ち切るのだ。  長い長い詠唱が止む。  真菰は肩を落とし、全身の毛穴からどっと汗が噴き出すのを感じた。───冬だというのに。  甚大な疲労と虚脱に額を押さえ、ベンチに蹲る。  これで良い。準備は万端に整えた。結果はすぐに現れる。真菰が家系から受け継ぎこの体に備えていた隠し芸というか余禄(おまけ)というか(これまでありがたいとも思わなかったが)…とにかくそれが役に立ったはず。  もう一度スマートウォッチを確認する。午前二時四十分。  あちらは、ルワンダは夕方過ぎぐらいだろうか。  真菰が真言を唱え始めたのは恐らく、かの地ではたそかれどき…逢魔時(おうまがとき)だ。まじないをかけるには良い符丁。  張りつめていた眉根がフッとゆるんだ。システムというものは、それを知り使いこなしてはじめて比類なき武器と化す。  これは、戦いだ。真菰なりの、彼にしかできないやり方の───  あとは、待つのみ。  システムは完璧だ。  まじないとは、人間が生み出したこの世に存在するあらゆるシステムの中で最古にして最強のものなのだから。   「葛切、ルワンダからウチ預かりで来る今度のインターン生、京都駅に着いたぞ」  真菰が個人の作業スペースとして割り当てられたパテーション区切りのブースの中で、頭頂の一房以外は綺麗に禿げ上がった企画開発部の部長が、ポンと適当に白衣の肩に置いた掌の重み。それを感じるか感じないかという一瞬で、かつて相撲部だったという巨体はその鈍重な見た目を裏切る素早さで企画開発部のフロアから地下駐車場へと直行しているエレベーターに吸い込まれていった。  真菰は睨み付けていたモニタからうっそりと顔を上げて首を傾げた。オフィスの壁にかけられた時計は夕方の五時過ぎを示している。大仰にしょっぱい顔を作ったところで、追いかけるにはもう遅い。京都までギリギリ通勤圏内の三宮に一戸建てを建てた部長は、まさに翼の生えたサンダルを履いた気分で念願のマイホームへ向かっている。 「ハー…良いサウンドが降りてこねぇってのに…クソが」  真菰は聞こえよがしなつもりもなく凶悪さが滲んだため息を漏らすとPCを切り、白衣をデスク脇のスピーカーに無造作に投げかけて席を立つ。下に着ている開襟シャツは漆黒の地に白筆描きの昇竜。膝丈のサファリズボン。胸元にも手首にも数珠玉のアクセサリー。オールバックに撫でつけた癖っ毛に四角く厳しい顔つきは、ゲーム制作会社の社員というよりも頭文字に「ヤ」の付く職業に見える。  ブースエリアの出入口で駄弁っていた後輩社員達が、真菰の歩いてくる姿を見るや口をつぐんで道を開けた。 「用もねえのに長居するな。仲良し倶楽部やってんじゃねえんだぞ」  通り過ぎざまの真菰の低音に、彼ら彼女らが縮み上がる。羆のような背中に向けられた表情は、ホラージャンルゲーム開発の若き俊英として名を馳せた先輩に対する畏怖に近いもの。  そんなことには頓着せず、真菰は地下駐車場でマイカーの黒のインプレッサに乗り込んだ。京都駅に行くならば会社の正面玄関から歩いて十分の地下鉄を使っても良いのだが、真菰にはそれを避けたい理由がある。  季節は初夏。日没が遅いとはいっても既に天蓋には茜色と群青がバイカラーの瑪瑙のようなグラデーションを描いている。この場合、西洋式にというよりも、和式に言いならわすが問題なのだ。  信号待ちをしている間、下校途中の学生服やセーラー服姿の子供達が渡る横断歩道。  その群れに混じって、灰色っぽい不透明なモノ(・・)達も去来している。  この世ならざるモノ(・・)───見鬼(けんき)の才や修行の経験がない者には、見えず聞こえず触れられない魑魅魍魎である。  人の移動に合わせて大人しく通り過ぎてくれればよし。なかには横断歩道のど真ん中に居座ってしまうモノもいる。そのまま車道側の信号が青になる前に、真菰は車の外にまで聞こえそうなくらい大きな舌打ちをし、片手で九字を切った。わだかまる灰色の異形は、たちまちのうちに喘ぎ悶えながら地面に吸い込まれていく。  そのまま最前列の車は自分が魑魅魍魎に突っ込んでしまうのを避けられたことも知らずに進みだす。───こういったことが地下を通る電車の中でもホームでも、数メートル進むごとに起こるので、単純に面倒くさくて真菰はマイカー通勤をしているのだ。  初夏の京都といえば、修学旅行も少ない貴重なアイドリング期間。人いきれは途切れぬものの、それを好む魑魅魍魎も減る分だけ真菰のような人間でも多少なりとも楽に移動できる。 (空港は確か関空じゃなくて成田だったよな)  東京・品川方面からの新幹線改札まで上がる。それらしい待ち人もいないので土産物や売店を覗いてぶらりとフロアを一周し、もしやと駅の中央口と八条口とを往復した。訪日観光の外国人もアフリカ系もどっさりいるが、さて目的の相手はいそうにない。  真菰は上背を活かして左右に索敵レーダー宜しく首を回転させながらめげずに相手を探す。アフリカはルワンダから、経済産業振興という使命を背負ってやって来るインターン生。それについては年の初めから聞いていた。こんなに時季がずれ込んだのは、受け入れ側(ホスト)ではなく送り出す側(ゲスト)の方の内情が関係しているらしいということも。  国際情勢には疎い真菰ですら、ルワンダでかつて実際に行われた大量虐殺の歴史は知っている。昨今は政治体制が落ち着いてきていたものの、他国に難民として脱出していたグループから反政府組織の火種が新たに生まれたのだ…と、ネットには書かれていた。  現在ではICT産業分野との相性が良かったこともあり、日本をはじめとする世界各国と相互協力プログラムによる交換留学・人材育成にも積極的な姿勢を見せているようだ。 (えーと…アフリカ系で、スラッとして彫りが深くて知的な雰囲気で…二十代の男…たく、写真くらい事前に送れないのかよ!)  これもネットの知識だが、日本人のブログや動画に紹介されるルワンダの人間は、男女共にスレンダーなタイプが多い。ハリウッドの様々な血脈がミックスした俳優達のようなタイプではなく「これぞアフリカ!」と言いたくなるような、漆黒やダークチョコレートの肌に黒曜石の瞳、余分な肉のないボディとキリンのように長い手足。  ようするに真菰の好みとは真逆だったが。それもまた、気乗りしない理由の一つ。  スマートウォッチの通話を起動して会社に連絡を入れると、もう既に改札から出て八条口の方にいるとのこと。またしても周囲の人波が割れるくらい盛大に不穏な舌打ちをし、真菰はそちらに向かった。  とっぷりと日が暮れて、人いきれに酒の匂いが微かに混じる。足早に急ぐ真菰の動きが、唐突に止まり。  前方から物凄い気の塊が向かってくる。人間の念…それも色情や金欲の煮凝(にこご)りのような強烈なもの。その辺のトイレに流される内容と反吐と膿をほどよく混ぜたようなもの、といえば近いだろうか。  噴出した吐き気。口元を手で塞いで押し戻しながら、真菰はテナントの隙間に身を潜めた。  狩人に狙われた鹿の気分で半分だけ顔を出す。ぼこぼこと煮え立つ悪念の集合体の中にいる人物が見えた。頭髪も顔も脂ぎった中年の男。取り巻きを数名連れて歩いている。その顔も声も聞き覚えがあった。確か、そう、野党の大物政治家───  半径10メートルのところまで接近してきた。真菰は悪念の影響で身動きが取れなくなり、顔面蒼白のまま隙間にしゃがみ込む。吐き気どころか頭痛と胸痛まで起こり、生きた心地がしない。ああいう職種は握手によって他人から執念や邪欲を吸い上げやすい。おまけに政治家に近づこうという者にはタチの悪い性格の人間が多い。スポンジのように吸収された負のエネルギーはやがて本人も気付かないまま体の内側で堆積し、熟成されてしまうのだ。  そういった悪い気の塊は、霊能者にとっていわば南海の魚が持つシガテラ毒。陰陽道の技を持っていても、真菰のように殊更に敏感であれば存在自体が害だ。 (クソっ…だから人混みは嫌なんだ…そもそも入社七年の俺じゃなくてぺーぺーの新人にでもやらせりゃいい役目じゃねえか!)  肚の中で思い切り上司に罵声を叩きつけながら、頭の芯が腐っていくような気分にさらに身を屈めていると。  ふわり。どこからともなく懐かしい匂いがした。遠い昔から知っている、けれど嗅ぐ事の絶えて久しい、温かな匂い─── 「あの、そこのアナタ、どこか苦しいですか?何か病気?」  若干震え声の、イントネーションのおかしな標準語が聞こえた。それから背中をさする、体温を感じさせない小さな硬い手。その掌による摩擦が、面積の狭さに反してやけにホワホワと真菰をぬくめてくれる。 「───あれ?」  真菰の悪心も頭痛も何もかも、紫陽花の葉の上に溜まった雨垂れのように流れ落ちた。まるで嘘だったように。清らかな空気に包まれ、呼吸が楽になる。 「もう立てマスカ?それともダイジョバナイデスカ?」  少し高いテノール…いや、低めのソプラノか。真菰の絶対音感では問いかけのほとんどがミドルGの和音を奏でていた。 「大丈夫だ、もう。ありがとう、貴方はさぞ名のある術師で───」  礼を述べながら立ち上がる真菰の眼前には、しかし誰もいない。広い通路を右へ左へと行き交う人波があるだけだ。 「て、もう居ねえのか。素早いな」 「あのー…」 「おっといけね、こうしちゃいられん、ルワンダのお客さん捕まえてこなくちゃな」 「ちょっと!」  くい。ズボンの尻を引っ張る力。振り返るとそこにやたらと遠慮がちな洋装の恵比寿様の置物があった。  否、それは人。まごうかたなき人間ながら、真菰が思わず取り違えるのも無理はない造形をした人間だった。  たっぷりした紺の長ズボンにサスペンダー、白の長袖シャツ。靴は革靴で多分値の張る代物。伊達なパナマハットを目深に被っている。夏目前の京都、本日の気温は三十六度だというのに白手袋まではめていて、顔と手首ぐらいしか服の外に出ていない。そしてその、出ている部分は白桜の色。 「貴方は大きいデスネ。顔も強そうだし、美女と野獣に出てくる野獣のようだと僕は言いマス」  小学校高学年ほどの背丈の相手は顔を上げた。中学生…いや、小学生と言われても納得しそうなベビーフェイス。丸く愛嬌のある獅子鼻、平たい額、盛り上がる頬、幅広の唇。よく肥えた猫、それも育ちの良い白猫のような少年が、さっきまで真菰のズボンを掴んでいた右手を軽く曲げて立っている。  名状し難いのはその瞳の色。タンザナイトのような照りのある紺青をしているのだ。 「そういうお前は招き猫みたいだな」  思わず口をついて出た我が言葉に舌打ちひとつ。先に言うべき言葉があるだろうに。 「オーッハッハッハ!招き猫デスカ!イイネそれは凄くイイ!僕はそう言うデス」  返ってきたのは真菰が胸に隠した罪悪感ごと打ち砕く向日葵の笑顔。丸くて可愛らしい顔が、真菰のしかめっ面に対し悪戯好きな腕白小僧がよくする笑みをたたえている。 「さっきルワンダと言いましたね、アナタ?もしかしてゲーム会社の人デスカ?」 「そうだが…」 「良かった。見つけられた。僕がジェルミ=ンキンジンガ。ルワンダから来ました。宜しくお願いします言いマス」  帽子頭を深々と下げ、反対に大きな尻がぷりっと持ち上がった。何かのマスコットか被り物のようにユーモラスな動きに、真菰は肩から脱力してまたしてもしゃがみ込んでしまった。    せっかく車で出迎えたので、社で借り上げの東山区のマンションにスーツケース(ジェルミの背丈とほぼ同じ)を置いてすぐに真菰はジェルミを社屋に連れて行った。 「おおー!これがあの、世界に冠たるニッポンのゲーム業界の勇なのデスネ!僕は感動していると言っても過言ではないデス!」  はじめは強烈なインプレッションを覚えたジェルミの外見にも、真菰はすぐに慣れた。社屋に着くまでにはジェルミが所謂アルビノイドである事と、それにまつわる幾つかの注意点も教わった。  肌の色が薄いからといって皮膚ガンになりやすいわけではない。免疫力も、ジェルミは他の人間と変わらない。特に夜目が利くわけではない。それらは漫画やアニメで強調されてきたアルビノに対する迷信だ。  必要なのは過度の日焼けを防止するクリームと眩しすぎる光を調節するためのサングラス。室内では照明は少し落として、文字はなるべく大きく書く事。  日本語が非常に堪能であることは「勉強してきましたから」で済む話だった。 「つっても機能を集約してるだけでな。もともと九州や関東にも立派な支部があったんだが、一代前の阿呆な社長のせいですべからく潰しちまったんだ。お前もよくこんな落ち目の会社、選んだな」 「ソウデスカ?ここはエンタメ史に残るレジェンド、世界のゲームに関わる人間達には夢の城と僕は言いマス!」  運転席の隣で、修学旅行で来ては記念写真を撮ろうと社の敷地の外をうろつく小中学生よろしく、持参のカメラを連写しているジェルミ。観光気分なら、と真菰はナビをつついた。 「会社の奴らには明日紹介するだろうから、マンションに戻る前にどっかに寄ってやってもいいぜ。何処がいい?」  ジェルミは短い腕をこまぬいてウンウン唸り、やおら白手袋の人差し指を立てる。 「八坂神社!行きたいデス‼︎」  物怖じしないジェルミの眼差しとは反対に真菰はぎょっとたじろいだ。 「…そこはちょっとな…」 「何デスカネそれは?もったいぶり?自分で言っておいてそれはない、と、僕は言いたいデス!」  頬を鬼灯の如く膨らまし、絶対に見ておきたいから、と続ける。先程の出来事が気になっていたので、真菰はジェルミの希望を叶えてやることにした。  そして、実際に夜の八坂神社は何ということもなく二人を迎えてくれた。  あちこちでシャッターを押しながら、ジェルミは真菰が質問していなくとも自分からここがお気に入りの日本アニメの舞台の一つなのだと語り、はしゃぎ、夜泣石の前でポーズを取った。  おどけた格好でバランスをとるジェルミにカメラを向けてやりながら、真菰は確信した。  そしてその事を、肉は食べられないからというジェルミのために入った精進料理屋の二階で尋ねるのだった。 「なぁンキンジンガ。お前、何かの呪術(マジック)ができるのか?」 「ジェルミほ呼んへふははいヘフ」  湯葉のチーズ巻きと厚揚げの生姜乗せを頬張りながら、ジェルミは微笑んだ。こうして向かい合っているとむしろ、真菰の方が色が黒い。 「ん。じゃあジェルミ。今日お前に遭ってから、俺のその…困り事が起こらないんだ。お前、何かしてるのか?それとも何か特別な品物でも持ってるのか?」 「僕は何もしていませんデス。特別…な、ものも、何もないデスヨ」 「そんな筈があるか。俺に悪念が憑きかけたのを祓い、さっきだってあんな霊的に乱れた場でも護ってくれただろう」  八坂神社は京都に住む者にとっては親しいスポットだが、真菰にとってはランドセルを背負う頃から異界の入り口を曲がって一丁目といった塩梅だった。足を踏み入れれば肩が重くなり、参詣すれば異形のモノ達とすれ違い、帰りには亡者に絡まれる場所。それがこんなにも何もなかった(・・・・・・)のは、生まれてこのかた初めてだ。  相違点があるとすれば、このルワンダからのインターン生を置いて他にない。 「───言ってるイミがよく分からないと僕は言うのデスケレド」  ず。汁椀を恭しく持ち上げてすりおろした胡桃(くるみ)と山芋の落とし汁を啜り、ぷはっと卓袱台に置いて。 「葛切さんの役に立てたなら、嬉しいと僕は言いマス。僕は貴方を護れたんデスネ!」  ジェルミの福々しい顔が笑うと、本当に太陽の如く店内が明るくなった。    翌日。ジェルミを迎えての全部署合同朝礼の後、真菰がいる企画開発部に彼が連れてこられたのは社内規定の昼休憩前(フレックス出勤なのでいつ行ってもよい)。部長の声のボリュームも艶も、禿頭が分泌する皮脂もいつもより多い。 「ンキンジンガ君はインターン生としてこの企画開発部でみんなのサポートについてもらいながら、ゲーム作りを基礎から勉強する予定だ。受入期間の三年の間に一本のタイトルを商品化してもらう。勿論、そこには君達全員の協力が必要となるぞ。惜しまずに彼に知恵と経験を貸してあげるように」 「ご紹介に預かりましたジェルミ=ンキンジンガです。ジェルミとお呼び下さい。皆さんのように錚々たるメンバーと仕事ができる事を誇りに思います。宜しく御指導、ご鞭撻(べんたつ)のほどをお願い申し上げます」  その慎ましくも丁寧な日本語に、部の全員から拍手が上がる。  アルビノイドであるジェルミの容姿への質問、日本語が上手だね的なありきたりな褒め言葉、何が趣味で何が苦手か尋ねる社交辞令。それら全てにふんわりと隠された、まさに日本式の異国人への興味と媚態と若干のみくびり。  十重二十重の人垣に囲まれているジェルミはまるで、子供達にたかられている店頭の砂糖人形のよう。彼を遠目に見やり、真菰は早々と自分のブースに戻った。楽曲制作の納期の迫った案件が三つあり、うち二つは他のプロジェクトからのもので、残り一つは彼にプロデュースを任されたものだ。  三面あるモニタを点け、それぞれにアンプやシーケンサーその他諸々のDTMソフトを展開。胸の前から半円状になるよう置いた二つのレインボー型キーボードを叩き、機械的で無駄がない操作でサウンドを構築していく。  他プロジェクトからの内注は最新アクションゲームとレトロRPGのホラーステージのBGM及びSE。真菰の得意分野だ。開始から昼休憩をずらして午後にはあらかたのクリエイトが終わってしまった。軽く伸びをして肩の凝りをほぐしに社内のマッサージルームへ行き、ついでにラウンジにも寄って消化に良さそうなうどんを腹に仕込んで戻る。  視線。「じ〜…」という疑問さえ付いてきそうな、幼稚なほどあからさまな視線を真菰は背後から感じた。加えてブース正面の高い位置に掛けたホワイトボード型のマルチディスプレイを夜の海の映像にしてあるのだが、そこには入口に堂々と立って前に手を組んでいるジェルミの姿が反射している。本人は隠れているつもりなのだろうが丸分かりである。真菰は忘年会のビンゴで当選したベイマックスの置き物を思い出した。  追い払おうとしたが、真菰の作業見学が今日の最終タスクなのだと言われ仕方なくブースに招き入れる。余分な椅子がないのでキャスター付きのサイドチェストに乗っかるジェルミ。職場に子供が闖入したような図。 「葛切さんは元々サウンドデザイナーなんデスよね?」  作業途中に声を掛けられると、真菰はブースの壁を殴りつけるくらい怒りだす。しかしジェルミに対してはなぜかそれができず、出し抜けの質問に溜息をつきながら振り返った。 「今でもそうだよ。仕事中に話しかけてくるな。必要ならこっちから話す」  薄桃色の丸い顔の中のアーモンド型の目が真円に近くなる。が、 「アー…分かりマシタ、それでは葛切さんの仕事の内容と方針、それにまつわる理由とタスクの流れの概要の説明などについて僕が質問することを許可し、なおかつ回答する事を求めると僕は言いマス。これはこの会社が僕というインターンに与えると約束したものであり、葛切さんは社員として責任を全うする義務がありマス。僕は断言するノデス」  真菰はぐっと喉を詰まらせた。渋面の彼とは反対に、ジェルミは泰平安な茫洋とした微笑である。 「いい度胸じゃねえか小僧」  わざと頭に被っていたヘッドフォンを外して、ブース内に三基立っているスピーカーに外部出力を切り替える。 「この俺のサウンド理論とワーキングトークについてこられた奴は日本人にだって一人も居ねえんだ。理解できなくても補足説明はしねえぞ。いいな?」  光そのものを凝縮したような淡い金髪の丸刈り頭が、興奮と感謝に元気よく上下した。 「よし。じゃあまずゲーム制作におけるサウンドクリエイトの意義だが───」    途中で音をあげると予想していた真菰を鮮やかに裏切って、ジェルミの理解力と知識は毎年やってくるインターン生にも負けていなかった。むしろこれまで迎えてきた癖も強いが才気溢れた日本人の誰よりも、ゲームに対して清らかに貪欲で正しく情熱的だった。他人の欠点弱点を衝くことの得意な真菰にとってさえ、有望株と感じさせるほどに。  サウンドクリエイトの分野以外では、である。  決定的だったのは才能の欠如だった。  じゃあ試しにと、キーボードを引っ張り出して触らせてみたのだが、ドとファどころかドレミの区別さえなかなかつかず、作曲方面で活路なしと判断せざるを得ない結果が出た。  それは残念としか言いようがなかったが、当の本人はサウンド方面に適性なしという真菰が押し付けた残酷な烙印にもめげず倦まず、これからの三年間は引き続いてその方面のことも教示を願うと気合を入れる。  そんな根性もまた真菰には好ましく、適性がないながらもジェルミのためにゲーム制作には必須であるサウンドクリエイトの業務としての進行を…と、より細部に踏み込んだ説明をしようとしたところ、横から強く袖を引かれた。 「今夜8時から、北大路駅で待ち合わせて僕の歓迎会を企画してる、部長さん言いマシタ。もうそろそろ出かけマショウ」  真菰は顔だけを出すつもりでジェルミに牽引されてエレベーターに乗り、またしても車で二人、くだんの駅へ到着した。  会場は三階が天井ぶち抜きのビアガーデンになっている居酒屋だった。プロジェクトが山場で参加できない者もいたが、それでも総勢百五十近い人数にジェルミは揉みくちゃになり、真菰と離れるとあっという間に他部署に巻き込まれて見えなくなる。  真菰はいつもの如くどこの集団にも混ざらず、己の部署の仲間すら避けて屋上の片隅、完全に暗がりになっているテーブルに陣取ってスマートフォンを取り出す。作業に必要になりそうな音集めをしているのだが、こうしてイヤフォンをつけて携帯をいじくっていれば要らぬちょっかいをかけられることもない。仕事に関係しないコミュニケーションを取ることを最大の無駄だと考える彼にとって、遠くアフリカからやってきたインターン生を歓迎するためだけのこの集まりも、なんてことはない旧態依然な企業における「ダサイクル」としか感じられないのだ。 (無駄な馴れ合いも、馬鹿な褒め合いもまっぴらだ。俺は十年後の自分を見据えて爪を研ぐだけさ…)  烏龍茶のジョッキを空にして、小一時間も経った頃。YouTubeを彷徨っていた真菰の袖を、覚えのある感じで誰かが引っ張る。  ジェルミだった。片手の指にセブンアップの瓶を二本挟んで、真菰の反対側の空き椅子に飛び乗るように腰掛けた。 「おい、主人公のお前が場を外してどうするんだよ」 「不安になることはないと僕は言いマス。もう皆サン、ぐでんぐでんデス。酔っ払いデスネ。それより葛切さんこそ、こんなところに一人デスカ?ご飯、食べマシタカ?」 「そりゃこっちの科白だっつーの。俺は昼飯遅かったからな。ジェルミこそちゃんと食ったか?ここの居酒屋は本格京料理が売りだからな、肉魚系以外も結構カネかかってんぞ」 「そうデスネ…確かに素晴らしい高級な、手の込んだ料理は凄かったと僕は言いマス」  テーブルに立てられた瓶から、ちゃぽん、と寂しげな音がする。 「ケレド、あんまり贅沢な食べ物は、僕は胸が苦しくて食べられマセン…故郷の皆に申し訳ないのデス。ブッチャケマシテ」  力弱く笑いながら、ジェルミは真菰のジョッキになみなみとセブンアップを注ぎ、自分は瓶から直接ラッパ飲み。  しかしそれなら自分とした初日の食事はどうだったんだ、と言い掛けた真菰の耳にキンキンと甲高い声が飛び込む。 「あらららら、なんなのどしたのジェルミん、葛切っちゃんと二人きりで〜」  真菰の舌打ち。相手は赤寄りの茶髪をワックスで立たせた真菰の同期の男だった。半分ほどにまで減ったビールジョッキを掲げて上気した面付きも含めて、小洒落た服装をしている腐れかけの人参といったところ。べちゃっとした態度で屁理屈を捏ねるので、彼は普段から毛嫌いしている。 「ね〜ジェルミん、ジェルミんはマンションで一人の時はどうしてんの?何してんの?郷里(むこう)に彼女とかいるの?そもそも女の子と付き合ったこととかあるの?」  テーブルに置かれたジェルミの手袋をしたままの手に掌を乗せ、顎を馴れ馴れしくジェルミのつむじに載せる。かなり強い酒をあおっているらしく、目つきも喋り方も色めいている。 「ぼ、僕は、その、婚約者いる、ですよ?女の人とデートした事は、ないのですけど。モテませんし」 「え〜そ〜?なんかもったいなーい〜。マスコットみたいで可愛いからさ〜、ショタ好きお姉さまにはめっちゃモテそうなのに〜。明日は休みなんだし、いっそ俺と遊んじゃう〜?」 「え、ショ?ショタ?遊ぶ?ゲームで?」  ジェルミの頬が笑顔になれずに暗く引き攣っている。真菰の中で何かが弾けた。 「そのへんにしてやれよ。飲み過ぎだぞ」 「は?俺はジェルミんに訊いてんの。葛切っちゃんはお呼びでないでしょ〜」  真菰の言葉に挑むような視線で切りつけてくる。この相手にはもう一つ、彼が嫌う理由がある。  真菰と同じく、彼もまた同性を愛する男なのだ。  真菰は上半身は皮一枚動かさなかった。  心底戸惑っているジェルミの肩に後ろから顎を乗せ、いまにもしなだれかかりそうな同期に向かい、真菰はテーブルの下で印を結ぶ。  ばちゃり、と人参男のジョッキからビールが噴き上げた。狙いすましたかのように顔から胸へとぐっしょり濡らした相手に、今度は素早く九字を切ってひとこと。 「(ウン)」  人参男の顔から力が抜けた。あれ俺いつ薬を飲んだかな、何時だろう?もう帰らなきゃ…などと、とりとめもないことを呟いてクラゲのように頼りなく店内を遠ざかっていった。 「あんなのが日本人の代表なんかじゃないからな。あれぐらい品もねえゲイはあいつだけだ」  ジェルミの夜空と同じ紫紺の瞳がつやつやと輝いている。さっき泣いた子がもう笑った、と真菰はひとりごちた。 「葛切さん、何をしたのかと僕は言いマス」 「なんでもないさ。やっこさんのビールの量をちょいと増やしてやって、おまけに背中の守護神と相性の悪い明王の真言をぶつけたまでだ」 「ミャーオー?シンゴン?それ日本語なんですか?聞きたいデス知りたいデス」 「じゃあ俺のマンションに来るか?俺はここじゃあ飲酒運転になっちまうからソフトドリンクしかダメだし、コンビニに寄って買物して、それから飲み直しでもどうだ」  真菰は入社以来、絶対に他人をマンションに上げない事でも有名だった。周囲からはそれは変態な趣味でもあるのだろうとか、既に誰かと同棲しているからだなどと噂話の種を提供してきたのだ。 (俺にしては変なテンションだな。これが雰囲気酔いってやつか?)  問題は場所(ここ)ではなく相手(ジェルミ)にあるという事実から真菰は敢えて目を逸らす。  忘れて欲しいと手を振って誤魔化す真菰の苦笑の前に、ジェルミは真剣な顔を突き出して真菰の手を取った。 「それなら是非僕のマンション(アパルトマン)に来てデス。僕は知りたい、聞きたい、葛切さんの秘密を要求すると言いマス」 「いや、でもな…」 「お願いすると僕は言いマス。それに明日は…休みデスヨ?」  大きな鈴がささやくようなジェルミの声に、真菰は逆らえなかった。   「散らかっているのが恥ずかしいけどデス、どうぞ遠慮なく上がって欲しいと僕は言うのデス」  と聞いた割に、ジェルミのマンションはかっちりと整頓されていた。真菰が気になるのは狭いトイレにもキッチンにも置いてあるスツールで、尋ねると「高いところに物を出し入れする時とても便利なのデス」ということだった。  ジェルミは手袋を丁寧に壁掛けに吊るすと一脚しかない高めの椅子に真菰を座らせ、冷蔵庫からチーズとミックスナッツを出してきて、真四角のテーブルに冷えたワインとともに並べた。  ようやく肩の力が抜けると言ってジェルミは真菰と乾杯をする。良いワイン。京都で見つけたルワンダ産で、チーズは入国の際こっそり持ってきた物だと言った。 「危ねえ橋渡るなあ」 「面白いデスネ。生きていること、危険の連続じゃないですかと僕は言いマス」  どうやらジェルミは真菰と居る時は真実にリラックスしているらしく、それは彼の口調の変化に如実に現れていた。 「会社の他の人の前デスト、こう、ちゃんとしなきゃって思うデス。日本語も完璧でありたいデス。けど葛切さんとは初めて遭った時から飾らない僕でいられると言いマス」 「そいつは光栄の極み。で、お前はなんで俺を誘ったんだ?」 「葛切さんに興味があるからだと言いマス」 「それは俺の特異な才能(・・)についてか?」  わざと外国人が洋画でするようにいい加減な印形もどきをしてみせる真菰にジェルミはオッハハと苦笑する。 「それもありマスケド、えーと、それだけじゃ物足りないと言いたいデス」  アルコールが浸透したジェルミの肌は、白鳥の羽の色からフラミンゴのそれへと徐々に変わってきている。グラスを掴んでいる反対の側の、テーブルの上に所在なく伸ばした手。ふっくらとオムレツ型の手の甲に、真菰はなんとなく己の掌を重ねてみた。 「あ」  二人分の声が、互いの咽喉から溢れた。ジェルミの方の手が短く震える。  真菰はジェルミから跳ね除けられるかと思った。自分でもなぜそうしたのかわからない。突発的で衝動的で、それでいて真菰にとってはごく自然な行為だった。  しかしジェルミはそれ以上動かなかった。息が詰まりそうな、本当のところずっと息を止めていた数十秒間、真菰から見て俯いている金の頭髪が一本一本意外と繊細に巻かれており、彼は仏像の螺髪(らはつ)のようだなどと感じていた。  そうしていなければ、真菰自身が沈黙と凝固に耐えられなかったに違いない。聡明で客観的な彼の理性が通常運行されていれば、今自分自身がしていることこそ歓迎会での人参男の醜態と変わりないと思考していたはずだから。  あの、というジェルミの発語に真菰の樵のような背筋が跳ね上がった。 「僕、嘘を吐くの苦手なんデスと言いマス。けれど、さっき、一つだけ嘘をつきマシタ」  ジェルミのグラスを持つ方の手が離れ、彼のもう片方の手の上に乗せられた真菰の毛むくじゃの手の甲にふわりと被さった。  今度は真菰が絶句し、代わりにジェルミが喋る。 「僕、本当は婚約者なんか、いませんと言いマス」  ジェルミの顔が一ミリずつ、ゆっくりと上がってくる。真菰の喉仏が唾を飲み込んで大きく上下する。 「貴方が、もし違った(・・・)なら、スミマセンと言いたいデス…」  まるで旅の僧の為に焚火(たきび)に飛び込む兎のような、恐れと覚悟に潤んだジェルミの紫紺の瞳。  それを迎える真菰の眼は、驚きと安堵に見開かれた。  二人の視線ははじめは硬く、しだいにほどけて絡まり合う。後に残ったのは理解と合意だけ。  それ以上の言葉は不要だった。  程なくして、ジェルミのベッドは普段より大柄な人間一人分だけ余計になった重量を受け止め、幾度も繰り返される上下運動による負荷で悲鳴を上げはじめた。  刹那の熱にうかされながら、果てしない銀河を二人きりで漂流するかのような抱擁。全体的には真菰がジェルミの小柄な身体をいたわり限界点を探るような情交。そのさなか、ジェルミは優しい微笑みと真菰を奮い立たせる小鳥の歌のような声を上げ続ける。  それなりに経験のあった真菰と違い、ジェルミが初心者であることは明らかだった。  そして真菰はジェルミに感じたえもいわれぬ懐かしき匂いの正体が、彼の素肌から香る畳の匂い───乾されたイグサそのものの体臭であることを知る。  明け方。大柄な真菰とジェルミの体重をどうにか一晩中耐え切ったベッドの上、ぐったりと動けなくなったジェルミを背中から抱きしめるように真菰も眠りにつき。  そして翌朝。  ジェルミの部屋の直下の学生が、様々なリズムで震え乱れたベッドの騒音を言いつけにインターホンを鳴らした。  部屋の中で全裸のまま微睡(まどろみ)の中にいるジェルミに代わり、のっそりとドアを開けたパンツ一丁の真菰。  サングラスをかける怪しいが至極大人しい白人(ジェルミは目元を隠せば北欧系と言っても疑われない外見だ)が出てくると思っていた階下の学生は、冬眠から目覚めたばかりの空きっ腹の熊のような真菰から剣呑な吐息を吐きかけられ、苦情も早々に切り上げて這々の体で退散した。  尤も真菰は昨晩の心地よい疲労と満たされた開放感で、学生の話などろくに聞いてはいなかった。彼が欠伸を噛み殺しながら廊下で叱られて戻ってくると、薄目を開けたジェルミが可愛らしく縮こまってタオルケットの塊の中に隠れていた。  かすれた声で小さくする朝の挨拶ですらも、赤面しているのが判る。真菰は鷹揚に笑い、やわらかくタオルケットを剥ぎ取ると、膝を抱えて恥じ入っている白まんじゅうのような恋人を優しく抱きしめた。 「初めて駅で見た時から、お前のことが気になってた。ジェルミ、お前は俺の理想のタイプそのものだ」  ルワンダからやってくるインターンはスラリと細身の、賑やかで強気な人間だとばかり思っていた。それが意表を突かれた。 「ぼ、僕なんか小さくて、肥ってて、気が弱いし、真菰さんに相応しくないかも、しれないと言いマス」  真菰の鬼瓦のような眉根が(ゆる)む。 「おいおい、今更そんなこと言うなと俺はお前に言うぞ。俺の目を馬鹿にするな。控えめで謙虚。純粋だが馬鹿じゃない。陽気でいて可愛らしい…これ以上褒めさせるつもりか?」  何事か呟くようなジェルミの台詞に、真菰は聞き返す。 「───あの…、おかわり、しマスカ?」  その意味をとり、真菰は彼には珍しく微笑んで。もう一度ベッドに上がり込んだ。  それからの二人のセッションは苦情の種にはならなかった。なぜなら、階下の学生は午前中から授業に出なければならなかったので。  こうして真菰とジェルミはパートナーとなった。    真菰が男同士の関係に目覚めたのは高校生の後半だった。それまでは女の子の同級生と付き合ったこともあるのだが、無意識に素っ気なく付き合っていたために、相手は真菰と別れてからは彼の悪口を言いふらしていた。おかげで同窓会などというかったるいものとも縁が切れ、社会人になってからは適当に男遊びの美味しいところだけをつまんできた。真菰の外見も性格もマッチョイズムなせいかよくモテたので、適当に遊んではタバコの吸殻のように捨ててきた。  ジェルミは反対に、物心ついた時から同性に興味があったものの、実際に関係を結んだのは真菰が初めてだった。 「成長期には色々な誘惑もありますけど、僕は誰でもいいのは嫌デシタカラ。本当に好きな人を、ずうっと探していましたデスヨ」  運命の指し示したのは、真菰。日本に来なければ巡り合えなかったゲームデザイナー。 「まさか言葉も宗教も人種も違う恋人だなんて思ってもみませんでしたと僕は言いマス」  笑うジェルミを真菰は本物の天使だと思っている。そしてジェルミの方から才能(・・)について話を振ってきたのは、彼のマンションでキッチンに並び夕食を作っている夜だった。 「僕には生き物の『声』が聞こえるんデス…うーん、生き物の『出す音』の方が正確デスネ」  真菰が悪念に遭遇して苦しんでいたときもそうだったらしい。丁寧に裏ごしをした南瓜のポタージュ鍋を掻き回しながら、ジェルミは肩の力の抜けた日本語で説明する。 「植物や虫にも音はあるんですケド、音が小さいからあまり気にはなりませんデス。けれど大きな生き物となると…牛や羊や鳥達のは耳に残って…お陰様で肉が食べられなくなりましたデス」  ジェルミのベジタリアンぶりが宗教的な理由からではないと知って、真菰はなんとなく納得がいった。 「俺の方はもっとシンプルでかったるいもんだ。陰陽師っていってな、この国の奈良時代から」 「エ─────ッ⁉︎陰陽師⁉︎真菰さんが、あの、野村萬斎さんトカ羽生結弦さんトカと同じ、陰陽師マギ⁉︎オハーッハッハッハ!滾りますデス──ッ‼︎」  オタマを振り回すジェルミの両頬を、とりあえず強めに挟んで「アッチョンブリケ」(©️手塚治虫)にして落ち着かせ、隣で真菰はサヤインゲンの皮を剥く作業を続ける。  陰陽師とは役職であり、霊能者ではない。絶大な力など必要としない。いやむしろ足りない霊能を補う為の知識と経験と修行を積むことを課せられているだけの職能集団であること。 「おもに要請を受けて祓えをしたり方角を見たり、占術にあとは呪術の行使って感じだな。そもそも古くから付き合いのあるところからしか依頼は受け付けてないし、そういった意味では京都の悪名高い『一見さんお断り』と変わらねえよ」 「おほー、ほほー、ほほほほほー!」  他人に、陰陽師としての家業とは無関係な相手にこの話をするのは初めてで、真菰はジェルミの拵えた熱々の南瓜のポタージュを啜りながら続けた。 「さっき話に出た感じだと、映画とかアニメとかそれなりに観てるんだろうが、ああいう派手なエフェクトは期待外れだぞ。実際には神饌とか写経頼りで護摩壇なんか滅多に焚かねえし、式神を用いてバトルするなんてまともな陰陽師はやらねえさ」 「じゃああの、何のために陰陽師はいるんデスカ?」  存在意義(レゾンデートル)を問われて真菰は考え込んだ。完全なる不意打ち。あまりに当然にそこに在るものの是非は、生まれて初めて鏡の前に立つことと同じ衝撃だった。  真菰は南瓜のポタージュの皿をスプーンで混ぜながら長考する。  霊的なものの調伏なら僧侶や神主でもできる。未来を占うこともある程度修行すれば誰でも可能だ。ただ、これだけはといえるほど突出した特技となると… 「───ドーマンセーマン」 「エ?」  皿から引き抜いたスプーンで、真菰は空間に五芒の星を描いた。それは青い狐火となって長く空間にとどまる。 「晴明紋(ドーマンセーマン)だ。陰陽師(おれたち)を一言で表すとしたら、始まりも終わりもこれに尽きる」 「興味深いデスネ。その五芒星(ペンタグラム)を、そう呼ぶのデスカ」  ジェルミもアイスコーヒーのグラスの(しずく)でテーブルに五芒星を描いてみせた。歪みも線のブレもなく、正確無比である。 「そうさ。晴明紋は木火土金水であり、陰陽消長の表出であり、霊力の源泉であり、神魔の封印であり、正邪合一の象徴(シンボル)なんだ。陰陽師(おれたち)はこの印ひとつで人を呪殺できるし、災難から守護もできる。まじないそのものというわけだ」 「呪い(カース)デスカ?」 「違う違う。それじゃあ意味が邪悪にすぎる」 「えー?とすると、祝福(ギヴ・ブレス)?」 「それも少しベクトルが違うな。…うん、改めて考えるとファンタジーゲーム系の単語は厳密には適当じゃない。ことほぎも(のろ)いもその一部に過ぎんからな。───敢えていうならまじないとはシステムそのものだ。結果に辿り着く最短ルートを、この紋を使って構築するわけだ」 「…なるほどデス…」  ジェルミはフォークを持つ右手を無意識に左手で握りしめていた。よく分からない点もあるが、大体のところは納得したと言う。 「真菰さんは、そのペンタグラム(ドーマンセーマン)があれば、特に供儀(サクリファイス)は必要ないのかと僕は尋ねマス」 「おかしなことを聞くな。まぁ、儀式の神饌なら米とか魚で充分だろ。神殺しならいざ知らず、並みの呪いや祓いならそんなもんだ」  ジェルミは安堵と落胆の入り混じる複雑な表情で口を閉ざした。  この頃には真菰もジェルミの体の事を隅々まで把握しており、それについて深く質問したいとも思っていた。しかし興味本位である自覚はあり、恋人としては相手から話し出すのを待つのが正解であると我慢していた。同時にそれは、これまで真菰が関係を持ってきた誰との間にも存在しなかったもの。気遣い、思い遣る気持ちそのもの。彼はそんな自分を不思議に感じるのであった。  翌日は二人して大阪出張。日本名物の鉄道の満員電車に巻き込まれ、真菰は決して離すまいと思っていたジェルミの手をあっさり人波に分断されてしまった。  しかし。 「アッ!真菰さん⁉︎」  ただならぬジェルミの叫び声。真菰も負けじと叫び返す。 「ど、どうしたジェルミ!」 「足が浮いていると僕は言いマス!ほら!わーすごい!魔法みたいと言わざるを得マセン!僕ピーターパン‼︎」  これには電車内のそちこちから笑いが起こった。真菰は赤面し、金髪の頭しか見えないジェルミを降車するなり叱り付けてやろうと決意した。───が。  気づけば他の乗員に紛れ、彼もまた笑ってしまっていた。  移りゆく季節の中で二人は想い出を重ねていく。  秋から冬、雪の舞い散る嵯峨野で二人。貸切露店のある温泉宿へ車で向かう途中、真菰は風の精を召喚し雪景色の中に巨大な竜の姿を描いてみせた。興奮したジェルミが車窓から伸ばした手先に空気の渦と風花で立体化した竜がゆっくりと近づき、鼻先に触れられるやハラリと散っていった。  クリスマスには真菰は「他の節操のないカップルと変わらんな」とぼやきながら高級レストランを予約してジェルミにプレゼントを渡し、ジェルミもまた贈り物を彼に渡した。  真菰のプレゼントは純金の指輪で、表面にくっきりと晴明紋が刻まれていた。子供のようにはしゃぎながら頬を染めて薬指に嵌めるジェルミを眺めつつ、自分にもこんなささやかな幸せに浸る感受性があったのかと彼は感動した。ジェルミの方はお揃いの手袋。ちょうど指輪が隠れるということもあり、二人は冬の間ずっと家の外では手袋をつけて過ごした。  春になると嵯峨野に桜を見に出かけた。観光客も多くジェルミとはぐれそうになったので、真菰は印形を結んで真言を唱える。たちまち周辺の山野から無数の烏が飛来して人々の頭の上で騒ぎ、二人は静かな見晴らしの良い高台で花見ができた。ジェルミ曰く「この素敵な景色を二人じめデスネ。いつか懺悔しなければならないかもと僕は言いマス」とのことだった。  夏が来て、五山送り火がやって来る前には街中にも郊外にも魑魅魍魎が数限りなく湧いてきた。真菰が一番苦手な季節。しかし今はジェルミが居る。彼は今度は自分が頑張る番だと鼻息を荒げ、社内で噂が立つのも辞さず真菰とできるだけ共に出社と退勤をした。  やがてジェルミが来日して丁度丸一年の期日に、彼は晴れて真菰の部署に正式配属された。  ジェルミには作曲(サウンドメイキング)の才はからっきしだった。が、SE(効果音全般)と音響デザイン、そしてモーションクリエイティングの適性はずば抜けて高かった。 「視力が弱いのでキャラクターの外見に関わったりする事はできませんが、モーションのデザインとか音の再現は得意なのデス」  鼻の下を擦りながら、いかにも嬉しげに肩を丸めたジェルミ。企画開発部の面々はそれを囲んで拍手し、賑やかに打ち解けた雰囲気の中で部長が手ずから真っ新の白衣を手渡す。  同じ部署にいる間だけはせめてもと、他人行儀に素っ気なく背中を向ける真菰。しかしその心情たるや幸福の絶頂だった。  折しも真菰は部長から「これからチミ(・・)には愉快な冒険初心者(ブレイバリースキッパー)になってもらいます」と含みの多い微笑で肩を叩かれ、これまで手をつけてこなかった「夢と希望と冒険ファンタジー」をテーマにした王道VRアクションゲームのメインプロデューサーに抜擢されていた。  大きな出世。棚ボタのチャンス。  他の企業ならば、そういえるものだろう。  しかしことゲームクリエイトの観点からすれば、自分の指向や性質と異なるタイプのジャンルを任されたということは、生まれてから一度も泳いだことのない人間が大海原に飛び込むことにも等しい。  案の定、真菰は出だしから躓いた。これまでヒットを飛ばしてきたクリエイターとはいえ、そのどれもがホラーの系統に連なるシミュレーションゲーム。ドロドロとした因果や陰惨な運命や暗澹たる物語を得意とはしていたものの、お日様の匂いと少年少女の笑顔が弾ける炭酸水のような甘く爽やかなゲームなどついぞ開発に携わってこなかった。  内心頭を抱えていたのだが、ここで思わぬ助け舟が入ってきた。他ならぬジェルミ、真菰の恋人である。  少年のように無邪気で、人並みに怖がることを知りながらも勇敢で、何事につけおおらかで朗らか、それでいて繊細。ジェルミの中にはこのゲームのキャラクターの基礎になる部分がたくさん詰まっている。そしてまた、ジェルミのような人間をこそ楽しませることを念頭におくことで、真菰の舵取りは格段に良くなった。 「今度は僕が、真菰さんを助けるべき時なのだと言うのデス。義を見てせざるは勇無きなり、いざ鎌倉なのデス!」  今や同棲の場に等しくなった自室のベッドにうつ伏せになった真菰の背中を素足で踏むマッサージをしながら、アクションゲームの配管工のポーズで気炎を上げるジェルミ。実際、業務の面でも生活の面でもマネージャーでありパートナーとなった。スケジュール管理やSE(サウンドエフェクト)やモーションクリエイトのみならず、社内の各部署を渡り歩いた経験を頼りに様々な社員を巻き込んで意見を集めたり評価をつけたりと縦横無尽の働きぶりだった。  そして真菰を、彼自身すら気付かぬうちに変えていた。  後輩の意識の低い言動を叱責し、同輩の迂闊な失敗を断罪する。そんな真菰を社内では後輩も同輩も(一部の上司ですら)恐れ、畏れるのは当たり前のこと。真菰がドシンと尻を据えている間は彼のブースに近づかないよう遠回りで移動することが企画開発部の慣習となっていた。  寄らば魂魄(こんぱく)(けず)れ、触れれば血飛沫(ちしぶき)舞い散る抜き身の刃。妖刀村正とも陰口されていた真菰。それがいまではきちんとケースに収まった包丁までに丸く軟らかくなった。彼のブースを避けて通る社員はもはやいない。それどころかジェルミと真菰が賑やかに議論し談笑するのにつられ、特に用事がなくとも他の社員達が顔を出すまでになった。  そう、能力の高さと自己研鑽の点で既に真菰は尊敬を集めていたのである。これまではなりを潜めていた美徳がそういう形で表出したのもひとえにジェルミのおかげである。 「まったくジェルミ君はうちの部署の祟り神の封印…いや社とって思わぬ爆弾だったなあ」  部長の下手なユーモアも聞き流せるほど余裕のある真菰である。  ジェルミの明るさに背中を押される形でゲーム開発は着々と進み、夢や希望にあふれた主人公と、恐怖と混沌を纏う敵との魅力的な物語が構築されていく。子供にとっつきやすく大人には深みを感じさせる世界観。いってみれば真菰の陰の部分と、陽の要素の塊のようなジェルミが最高の化学反応を示したのである。  ゲームテスターによる試遊、デバッグも遅滞なく進み、さらに次の年の七月のこと。部長がボーナスをはたいて部署の全員を有馬の温泉に浸かりに連れて行った。真菰は恋人の裸を余人の目に晒すことを最後まで渋ったが、「温泉は日本文化の極みデス!恋人と一緒に入らないで何の意味があるかと僕は言いマス‼︎」というジェルミにほだされ同行する。  下ネタ満載の新人達の余興芸、カラオケ大会にビンゴゲームと進行し、そろそろお開きという隙間の時間。  何を思ったのか、酔いどれの部長が突然ジェルミにルワンダの歴史的事件についての話を振ってきた。    答えたジェルミの話の内容。概要としては、ネットで拾ってきたような知識ばかりの部長よりも真菰は知っていた。何を置いても恋人の故郷なのである。  しかし実際のところ。闇は尚も深く、印象的な惨劇は無尽に広がっていた。  悪夢。ルワンダの国民全員が見せられた激しい悪夢の記憶。  ───人間が、人間に対して行ったありとあらゆる罪を。  10分にも満たないジェルミの語りのあと、宴の面々はすっかり酔いが覚めてしまっていた。誰もがあらぬかたを眺めたり、肘や肩を掻いたりしている。  ジェルミと、真菰の他には。 「あはは、なんか暗くなってしまったなぁ。まぁ、僕ら日本人はそんな悲劇的な事件やら経験しとらんから許してくれな」  部長の脳天気極まる言葉。これにはさすがに真菰は黙ってはいられなかった。 「何寝惚けてるんだ?アンタ。うちの爺さんは満洲引き上げの時に露兵がやった虐殺とか強姦とか山ほど見聞きしてるぞ。会社だろうと一般家庭だろうと銃剣突きつけて押し入って「マダム・イッソ?(女はいるか?)」で、嫌がる娘や女房を髪ごと引きずって行ったとか…もっとひでぇ話もあるんだ」 「───それは、どんな?聞いても、いいデスカ?」  正座になったまま話の続きをせがむジェルミの紫紺の瞳には、常にはない昏い輝きがあった。 「小学校の校庭にな、まず穴を掘るんだ。それから集めた日本人の住民の十三歳から六十歳まで…全員女だぞ?…をな、裸にして並べるんだ。そんで露兵が全員を(おか)───手を付けまくって、最後にはそこに機銃掃射だ。後片付けは土をかけて、その先は知らんってさ」  胡座を崩して片膝を立て、片手に徳利を振りながらの真菰の話が終わる。  宴会場を最後に出たのは真菰とジェルミだった。  その深夜、ひっそりとジェルミは相部屋を抜け出して真菰の割り当てられた個室にやってきた。 「…だから俺は、お前を温泉なんかに連れてくるのは反対だったんだ。手袋を外したお前を見たから部長もきっと───」  言葉を濁す真菰の胸にすがり、ジェルミは一晩中(すす)り泣いた。  カーテンを開けた向こうに広がる純粋な暗黒の天蓋。そこにかかる大きな満月に真菰は誓った。  何があろうと自分はこの恋人を護り、手放すまい。例えばそう、陳腐極まる表現だが、世界の終わりが来ようとも。  しかし。  たった一本の電話のせいで全てが変化してしまうなどとは、このとき彼は思ってもみなかった。      真菰達が企画から開発まで一手に手掛けた新作ゲームタイトルが大々的に宣伝された。発売日が決定し世界同時ダウンロード開始のために各方面との調整が進む間、企画開発部の面々には暫しの猶予期間が与えられる。  自分達を「社内ニート」などとうそぶきながら、暇を持て余していた晩夏の午後。  真菰のブースで彼と一緒に次回作の予想を練っていたジェルミが、着信バイブに気付いてポケットからスマフォを取り出した。  はじめは何の気ない身内の会話と真菰は思った。気を利かせて席を外そうと立ち上がったところへ、白衣の裾をジェルミが捕まえる。  真菰は生まれて初めて目の前で人の表情がみるみるうちに蒼ざめていくという体験をした。 「隣国にいたルワンダの反政府勢力が首都を攻撃しました。僕の家族が危険にさらされているそうデス」  会社は優秀なインターンとしてジェルミの安全を確保するため当然ながら、日本滞在期間を延ばす方針を取る。しかし当の本人が一時帰国を熱望し、反対する部長や仲間達の言葉にも首を横に振るばかり。  そこから先は慌ただしかった。ルワンダへの日本からの直航便には渡航禁止がかけられたため、ジェルミは一路経由地であるエジプトを目指して飛び立った。現地で逃げ延びた家族や親戚達と合流するのだという。取るものもとりあえず小さなボストンバックひとつで旅立つジェルミ。彼が成田空港でゲートを潜る寸前まで、真菰は震える彼の小さな手をしっかり握りしめていた。  ジェルミの消息はそれ以降、糸を切ったようにふっつりと絶えてしまった。  二人から一人きりに戻った寂寥感に苛まれながら、真菰はゲートの前で最後に交わした言葉を反芻していた。 「絶対に僕は帰ってくると断言しマス。愛している真菰を絶対一人にはさせませんと誓うと言いマス」  真菰もそれを信じた。互いを深く知り、その誠実さと真摯さ、そして二人を繋ぐ強固な絆。即ち自分達の愛情そのものへの信頼だった。  そして三ヶ月が経つ。  クリスマスが近づいた京都の街には陽気な歌が流れ、鴨川沿いには寒風にもめげないカップルがきっちり等間隔に咲き誇る。 「まあそんなに心配する事はない。便りがないのが良い便りというじゃないか。悪い予想ばかりしないでいればその通りになって、やっこさんも意外とひょっこり帰ってくる。そういうもんさ」  部長も口調は明るいが、さすがに肩を気軽に叩いたりはしない。ブースの奥から振り返る真菰は、その男らしく角ばった精悍な顔立ちを黒々と塗り潰す絶望が猖獗を極めていたから。不安と焦燥で刻まれた目の下の隈。伸び放題の無精髭。やつれた頰肉。倒れず出社していることが不思議なほどに。  はじめこそ明らかに正義を持つルワンダ政府に肩入れをして反政府勢力の横暴さをあげつらっていた日本のマスコミも、三日もするとニュースに取り上げなくなり、近頃では年始の商戦やら特注おせちやら上野のパンダの出産などを報じる無関心さである。  真菰は独自に情報を集めるほか、自宅のパソコンのモニターを増やして二十四時間海外ニュースが流れるように環境を整えていた。  それは十二月初旬、小雪の舞う早朝。  ニュースを眺めながらまんじりともせずに夜を明かした真菰のスマフォにSNSを通じて通話が入った。  ジェシカと名乗った嗄れた声の女性は、早口で訛りのきつい英語でまずこう言った。 「あなた、真菰、さん?ですか?私はジェルミの母です。あの子を(たす)けて」  真菰はすぐさまメモを取り、こちらがいいと言うまでけして通話は切るなと前置きしてから続きを聞き出した。時折日本語が混じるのは、母子で身を寄せた先のNPO運営者が日本人だったせいらしい。ジェルミのあの流暢な日本語も元を辿ればそこに行き着くのだろう。 「私、昔隣国の難民キャンプにいた。そこで双子を産んだ。二卵性で、アルビノだった弟のジェルミを連れてルワンダへ帰った。キャンプ(あそこ)ではアルビノは目立ちすぎて生きられない、貴方なら分かるでしょう?自分を置いていった私とジェルミを、兄の方は恨んでいる。彼、いまはルワンダ反政府勢力のボス。エジプトでジェルミを捕まえたのも彼。ジェルミを人質にして、兄はアジトに隠れている。せっかく日本にジェルミを預けたのに。安全だから。信頼できるから。でもジェルミは、偽の電話で騙されて…  昨日、政府が反政府勢力に勝利した。ルワンダはもう昔のようには戻らない。けれど、兄の方はそれを認めようとしない。彼は憎んでいる。私を、ジェルミを、ルワンダを、この世界を。あれはもう悪魔にも等しい───だからジェルミを急いで救けて。捕まって裁判にかけられるのを避けるため、()の方はジェルミに何をするか分からない。分かるでしょう、真菰。貴方なら。貴方のこと、ジェルミは私に恋人だと言った。それなら、あの子のことを守って!」  勿論。それ意外にもいくつかの指示を言い含めて真菰は通話を切った。相手との連絡手段も確保してある。行動の朝だった。  まず三宮のマイホームでまだ寝ぼけ眼でいた部長を叩き起こし、会社の上層部に掛け合い何とか彼らを動かしてくれるよう頼み込む。それを新幹線の始発に乗り込むまでに済ませ、東京で外務省に駆け込み事のあらましを訴える。なりふり構わずに使えるコネを最大限に使い、陰陽師として関わったことのある人間にも頭を下げる。  やるべきことを全てやり終えるまで三日かかった。  役所の関連は動きが悪かったが、繋がりのあった政治家にも生涯一度きりであろう土下座で(助力せねば呪殺も厭わぬと匂わせて)頼み込み、なんとか準邦人的救済措置を取り付ける。  会社にはこれまで申請していなかった分の有給休暇をありったけ吐き出させ、一週間後。  週末の昼どきである。真菰の自室のモニターに流れていたABCニュースが、ルワンダ赤化解放戦線(反政府勢力の自称)のトップの声明動画を緊急速報として流した。  自室の49インチのモニターに映された人物を真菰は食い入るように観察した。それは、漆器のような肌に黒曜石の髪、墨色の瞳をした痩せた男だった。いかにも軍人らしいカーキ色の制服が馴染んでいる。ジェルミとの遺伝的な共通点は目許ぐらい。しかし意外にも静かに微笑みながら語るその視線は、恐山の岩石のように酷薄に乾燥している。  ジェルミの兄は同じことを繰り返し強調した。  自分達は不当に虐げられてきた部族の意志を代表するものである。  自分達は正義である。  自分達をルワンダ政府が認めず攻撃を繰り返すならば、当然それに反発する。部族に正当な地位が与えられ、その権利の優位性が確立するまで我々の闘争は永遠に続くであろう。最後の一人が血の海に倒れるその日まで───  実際にはもっと稚拙で独善的で我田引水極まる内容だったが、要点は以上だと締め括り動画は切れた。  あのようなカルト的集団に、ジェルミがすすんで仲間に入るわけがない。かつて国内を二つの部族に分断して血みどろの惨禍を経験した国だからこそ、二度とそんな愚行を招かない。歴史に逆行することはあってはならないのだ。ジェルミならばそう言うだろうことは真菰の想像に難くなかった。  それに何より───ジェルミはこの兄とかけ離れている。水と油だろう。  ジェルミの眼差しは太陽のように眩しく温かい。頬に無限に溢れている笑みには、砂漠の泉の優しさがあった。語る言葉の節々に相手への気遣いと尊重が見られ、ほんの少しの仕草にも内心の謙虚と清廉が薫ってきた。  しかし兄の方は。  動画の最初から最後まで、カメラの向こう側の他者に向けられていたのは、断崖の底の汚物を睥睨するかのような眼差し。  己を誇示するためだけの大儀そうな敬礼。皮肉な表情からは彼が彼の部族のみならず、ルワンダ国民の真の味方ではないことが読み取れる。  この男は、自分にしか興味がない。己にのみ誇りをいだくタイプの人間だ。つまり他人を虐げることになんら躊躇も感慨も覚えないサイコパス、この世に憎悪の種子をばらまく悪の代理人の一人。  極め付けは、彼が恐らくは他者から奪った装飾品でゴテゴテと自らを飾り立てている事だった。そして真菰はそれ(・・)を、ハッキリと画面越しに確認していた。 「愚か者め…」  その場面だけを停止にして保存しながら真菰は呟く。低く響く笑い声は、部屋の隙間から漏れ出でて、真昼の外をすら暗くするようなものだった。  敬礼をする兄の指。そこには真菰がジェルミに贈った金の指輪が嵌められ、本来の持ち主から無理やり引き離された悲鳴をするどい光と共に放っていた。  ───真菰という陰陽師が最大の呪力を込めた依代(よりしろ)が。    陰陽師の内でも真菰の流派では、誰かを呪詛する行いを「風を送る」という。古く大陸でも「風」とは悪しきものを運んでくる元凶でもあり、それは現代でも「風邪を引く」という表現に残っている。  真菰はここ暫く断食も同然の暮らしぶりをしていた。ジェルミの身を案じるあまり、まともな食事が喉を通らなかったせいである。  本来ならば一週間は五穀を絶つ儀式。しかし猶予はない。したがため、そこを丸一日の完全絶食に略式化する。白湯(さゆ)もお神酒(みき)も、唾すら飲み込まず睡眠もとらない。  明け暮れに水垢離をし、香木を焚きしめた室内に座禅を組み、ありとあらゆる雑念を払う。  そうして日付は年末に至っていた。  この日この夜、真菰はおそらく己のなし得るかぎり最高のコンディションに到達した。  今夜、最強の『風送り』を成すのだ。  ジェルミのために。  恋人をこの胸に取り戻すために。  向日葵のようなあの笑顔を守り、そして永遠に自分のものとするために。  ジェルミの指輪を奪ったあの兄は、真菰の仕込んだ必殺のまじない道具を身につけている。ジェルミ以外の人間が身につけたなら、成仏できず中有に彷徨う霊…それも邪欲と怨念にとらわれたモノ達を呼集する依代。いわば死神の鎌だ。  悪の組織のボスはそうと知らずに自分からギロチンに首を突っ込んでいるのだ。  条件は整った。あとは京都中の魑魅魍魎どもを揺さぶり起こし、国境も大陸も飛び越えて狙うべき相手へと襲いかかるよう号令をかければよい。  そして真菰は一人、丑三つ時少し前にマンション下の公園に足を運んだ。  ベンチに腰掛け、スマートウォッチで時刻を待つ。  五感は研ぎ澄まされ、離れた距離にある蜘蛛の巣も、そこから脱落しかけている巣のあるじのもがく姿もよく見渡せていた。    真菰がジェルミの兄に向けた呪詛を放って数時間後。自室に戻った真菰は、反政府勢力のボスが自らの拳銃で心臓を撃ち抜いて死んだというニュースがモニターに流れるのをぼんやりとした顔で確認し、ベッドに倒れ込むとそのまま泥のように眠りについた。次に目覚めたのは二日後の夕刻だった。  更に翌日。真菰は部長から連絡を受けた。反政府勢力の残党が降伏し、ルワンダ政府はそれを穏便な方法で受け入れたという外務省からの内密の報告だった。会社と深い関わりのあるジェルミの身柄の捜索も本腰を入れると通達された部長は、我がことのように喜んでいた。その声を聞き、彼は長らく休んでいたが出社する旨を返した。  全ては順調だった。あるべきものがあるべき場所へと帰り、国際社会から再び麻の糸のように乱れるかと懸念されていたルワンダの争乱は予想外にあっけなく収束した。  そのように真菰は思った。それは企画開発部の他の面々も同じであった。  やがて今回の事件とその顛末が公式に発表される。  ルワンダ政府は反政府組織を鎮圧し、その主要メンバーは拘束された。彼らが行った自国民への暴力的行為の報いはおいおい法廷で裁かれる。  数少ない犠牲者は、反政府組織にあって最後まで抵抗を貫いた戦闘員数名と、そのボスであったジェルミの兄。  そして。  日本に来る前から既に切り取られていた両手首。そこより先の上肢と両眼を、戦闘員のお守りとして配布されたジェルミだった。    新年である。お正月商戦に投入された真菰達の新作ゲームはあっという間に特典付きのソフト売り切れ、ダウンロード販売の実績は右肩上がり。有名声優を起用したコマーシャルは随時京都駅の大型スクリーンに映し出され、早くも今年のゲーム大賞の筆頭候補にノミネートされた。  しかし、営業企画部は通夜のように静まり返っている。  当然のこと、こういうときにこそ(カラ)元気を出そうという殊勝な意見もあった。営業企画部のほぼ全員がそれに異を唱えることはなかった。  しかしそこにはもうあの陽気で愛らしいアルビノのルワンダ人の笑顔はない。無理に明るい話題で盛り上がろうとしても、いやそうすればするほどに、虚しい空気がフロア全体を冷やしていく。  上層部からせっつかれた部長が次の企画を告知した日。真菰は辞表を手渡した。部長はすっかり禿げ上がってしまった頭皮をなぜながら、もう暫く預かるから心身を休めるようにと肩を落とした。休職扱いにすると言われたが、それに返事もせずに真菰は白衣をきちんと畳んでデスクに置いてブースを出た。  入り口近くで屯していた後輩達が、無言で道を開ける。以前と…ジェルミがやってくる前と同じルーチン。  違ったのは、真菰の方だった。 「お前ら、いつまで居てもいいぞ。腹が減ったらこれで出前でも取れ」  真菰は通り過ぎざま、ばさり、と音が鳴るほどの紙幣の束を無造作に手渡した。  真菰の去りゆく後ろ姿を、誰もが息を呑んだまま見送ったのは言うまでもない。    真菰の足は自然と京都駅に向かっていた。バレンタインを先取りしてチョコレートを販売する海外ブランドの臨時出店で、駅のコンコース内は大賑わいだ。  雑踏が大きくなるほどに、それにつれて魑魅魍魎達の姿も増えているが、真菰はもうそれほど気にならない。  もうすぐ、自分もそちら側(・・・・)に行くのだという確信が、真菰自身にも影響を与えているのだ。亡霊というより動く影といった彼の足取りは「その場所」を目指す。 「ここだ…」  真菰はポツリと呟き歩みを止める。辿り着いた場所は、真菰とジェルミが初めて邂逅した、テナントとテナントの間の隙間(スペース)。  真菰はそっと巨体を(うずく)めた。素早く九字を切り、片手に異界への門を開閉する庚申の方角神の印を、もう片手には行路守護の不動明王の印を結ぶ。  声も低く陰々と、真言を唱える。この場に異界への扉を開き、潜っていくために。愛おしい恋人と、ジェルミと再会するために。それがたとえ片道切符だとしても─── (あいつの居ないこの世に、未練は無い)  真菰の本心だった。それ以外にもう何も残されてはいない。冥道を辿りその先で再会する以外の望みなど、もう自分にはないのだと自覚している。  “人を呪わば穴二つ。ゆえに決して私利私欲のためだけに呪詛を行ってはならない”  それは陰陽師のみならず、なべて日本人なら知っている教訓だ。それに背いた報いは真菰にはあまりにも重かった。後悔も懺悔ももはや意味がない。  愚かだった。あまりにも。ジェルミがアルビノであること。真菰以外の前では決して(あの温泉旅行以外には)外さなかった手袋の中は義手だったこと。その意味。ルワンダでは、否、アフリカでは未だに呪術が盛んで、アルビノの人間の血肉は貴重な触媒としてやり取りされていること。難民キャンプからジェルミが逃げ出した理由。  …アルビノ狩りのことを知っておれば、決して故郷には行かさなかったものを。  ぞろり、ぞろり───霊能を持たぬ凡夫の耳には聞こえないそれは、通路の暗がりや雑踏から忍び出てきた魑魅魍魎達が、開きかけた異界への扉の周りに(つど)ってきた証拠。以前はあんなにも忌まわしく疎ましかったモノ達が、今では心地よいとすら感じられる。  真菰は白杖が点字ブロックを打つコツコツという音が自分のすぐ背後に聞こえるまで、その存在にさえ気づかないほど呪文に没頭していた。 「あの、そこのアナタ…どこか苦しいですか?何か病気?」  真菰の真言が止まる。同時に心臓も。呼吸も。  続けて真菰の背中に小さな手が触れた。堅く、指先に機械の駆動音が絡まったその掌はしかし、かつてこの場所で触れられたときと同じ動きで彼の広い背中を優しくさする。  かん。  透き通った音───真菰の呪文によって引き寄せられてきた種々雑多なモノ達が、真っ白な光とともに弾け飛ぶ。  一瞬にして辺りの空気が浄化された。 「───え…」  乾いた冬の空気を伝い、鼻腔に流れ込んでくるイグサの匂い。真菰の凍りついた意識が明瞭になり、今度は逆に心臓が早鐘を打つ。痛いほどに。呼吸は荒くなり、目の中に爆竹を放り込まれたように網膜がパチパチとはぜた。 「もう立てマスカ?それともダイジョバナイデスカ?…うーん、これは重症みたいだと僕は言いマス」  低めのソプラノ。ミドルGの和音。真菰が忘れようにも忘れられない声。  振り返ることも立ち上がることもできず、真菰は床に両手をついて声を揺らした。 「ダメだ。無理だ。立てない…」 「そうデスカ。じゃあ僕が手伝ってあげマスヨ。これからずっとかと僕は尋ねマス?」  真菰は無言で頷く。声が出ないのは、嗚咽のため。  よいしょ!───小さな体を懸命に突っ張り、その人物は真菰の上着を引っ張って壁に寄りかかりながらも立たせることに成功する。  踝まで覆う毛糸のズボンにかっちり糊の利かせた白シャツを押さえるサスペンダー。モコモコとしたダッフルコート。薄桜色の素肌をほとんど隠す厚着も冬のいまは相応しい。伊達なパナマハットを洒脱にずらした目許には悪戯っぽい笑みを見せ、ジェルミがそこにいた。  以前と異なるのは、瞳の色が黒くなっていることと、手袋をしていない両手───それらは明らかに義眼と義手だ───と、携えている白杖。 「ただいまデス、真菰さん」  不格好に、無様に。大の男が、自分よりもずっと小柄な相手に対して顔を覆って言葉もない。  真菰の指の隙間からボロボロと溢れる温かい涙が、振り仰ぐようにしているジェルミの上に降りそそぐ。 「早とちりしたんデスネ?オマジナイ(・・・・・)のために切り取られた僕の体だけ先に見つかったからデスネ。僕、長いこと入院してたと言いマス。連絡が遅れて悪かったと言わざるを得マセン。でも、ほら!リハビリ頑張ったデスヨ。真菰さんに会いに…」  ジェルミも少し泣きそうな顔をし、ギュッと自分の頬をつねると、やおら朗らかに笑って見せた。 「真菰さんのところに戻って来ました。まだインターン続けてもいいですかと尋ねマス!オッハハハハハ」  無限に真菰は頷く。バグを起こしたゲームのキャラクターのように。  それから二人は周りを通り過ぎてゆく人の視線を浴びるのも構わずに、ちぎれんばかりの抱擁を交わす。そこにあるのは紛れもない愛の形。  人間が生み出したこの世に存在するあらゆるシステムの中で最強の要素が何であるかと問われたら、今の真菰ならそれこそ愛であると答えるだろう。  そして、愛とは。  たとえどんな術師でも打ち勝てない、偉大なまじないなのである。
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