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8.蓮:波立たぬリング
『お前のパパは、殺してやるからな』
ロープにもたれながら、視線をそらしていても、家族の風景は目に入ってきてしまう。
視界の隅に、ガキの笑顔をとらえながら、軽くシャドウする。
トレーナーがかけてくれる声が、はっきりと聞こえる。
「落ち着いていけよ、焦るな。相手はベテランだ、カウンターを狙ってきている。打ち終わりに気をつけろ」
こんなに静かな気持ちでリングに上がったのははじめてだ。
いつも勝たなきゃいけない、全力を出さなきゃいけないと、相手のグローブしか見ていなかったような気がする。
まばゆい深海の中で、早く試合が終われとがむしゃらに拳を振っていた。
けれど、あの家族の前を通り過ぎた瞬間、どんな音でも聞こえるようだ。
坊ちゃん、きっとパパが勝つと信じているんだろうな。
きっと勝った後の光り輝く食卓を想像しているんだろうな。
リングの中央で向かい合い、グローブを合わせる。
いつも嫌な瞬間だったが、この時はしっかりと見ることが出来た。
アゴ髭を生やした、30代前半。落ち着いているけど、喧嘩慣れしているような、据わった目をしている。
けれどそんなことはどうでもよく、風景の一つのように見えた。
ゴングが鳴った。
サウスポーの相手は探るように右ジャブを出してくるが、後に届くはずもない左ボディを振ってくる。
ブラフのつもりなんだろうな。
いつもは先手を取ろうと焦って間合いに入ってしまうが、今日は落ち着いてよく見える。
互いに見ながら当たらないジャブ、ステップだけを踏む時間が過ぎた。
「ファイッ」とレフリーが催促する。
相手の両肩が少し、上がったような気がした。
誰かの声援でも聞こえたのかな…。。
その瞬間、前脚を大きく踏み込んで、強めの左ボディジャブを入れる。
そのまま詰めて左フックでボディ、さらに返しで右ボディ。
こちらのボディ攻撃に、相手は若干ガードを下げつつ、パンチを返そうとしてくるが、スウェーで避けては、ジャブを当て、さらにボディ。
相手は嫌がったか、いったん右にステップ。
子どもの声が聞こえた気がした。
リングはこんなにはっきりよく見えたんだな、何の声援も聞こえない。
左を振るフェイントを入れると、相手がさらに右にステップする。
得意の右フックでカウンターを入れ…ずにこれもフェイント。
カウンター返しを狙っていたであろう相手が踏み込み、ジャブを出した。
その打ち終わりに…インステップし左アッパー!
グローブに当たった感覚が、いつもより柔らかいように思えた。
相手はそのまま糸が切れるように崩れて、そのまま立ち上がることはなかった。
なんでもないことのように、そのままコーナーに戻る。
レフリーが両手を振っているのが、なぜか背中越しにも見えるようだった。
相手の様子を見に行くのが礼儀とわかってはいるが、振り返りたくはなかった。
見たくなかった、子どもや奥さんがどんな顔をしてリング下に駆け寄っているのか。
それでも俺は礼をして、左手を上げてもらい勝ち名乗りを受けた。
1R、47秒というコールが聞こえた。
どうなったのか相手は知らない。
見たくない。
子どもが泣いても知らない。
相手が死んでしまっても、何とも思わない。
下腹が熱くなってきて、涙が出そうになってきたので、必死に会場の遠くを向いていた。
海が大喜びした様子で叫んでいるのがわかる。
トレーナーが俺の肩を叩いてくる。
これは何でもないことなんだ。
ようやく相手を見て、礼をしに行こうとすると、スタッフや白衣の人がぴくりとも動かない男の頭を静かに支え、担架がロープをくぐって来るのが見えた。
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