9.蓮:一方通行の廊下

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9.蓮:一方通行の廊下

「蓮、挨拶に行くぞ」 歓声の中でリングを降り、若干上気したトレーナーが俺の肩を叩きながら言った。 「これでいいんだ、これがお前のポテンシャルなんだ。落ち着いてやれば、世界だって目指せる!」 人が倒れるなんて、なんでもないものなんだな。 本当に手ごたえもなかった。 嬉しいという気持ちなんて無かった。 会場の裏口へ歩く間、どこか冷え切った気持ちと、後ろめたさだけがあった。 へんに明るい蛍光灯の、騒がしい廊下を通る時”もう引き返せないんだな”と思った。 倉庫のような、車の入れそうな裏口に人が固まっていた。 「僕から行きます」 おじけづきそうで、トレーナーより先に、なぜかついてきた斎藤よりもちろん先に、集団のほうへ近づいた。 「失礼します、井上です」 眉や口に力が入り、僕はひどい顔をしていたんだろうな。 集まっているやつらが一斉に振り返って、目を伏せそうになった。 子どもの顔はわかった。 奥さんらしき人と手を繋ぎ、僕に気づくとじっと真顔で見つめ続けている。 まともに見る勇気がない。 視線を振り切るように言った。 「先ほどは、ありがとうございました」 相手のジム生たちが囲んでいる中、サッと道があく。 あえて胸を張って、目を見開いて向かっていった。 さっき殴り合った相手は、床に担架のまま、毛布を掛けられ寝かされていた。 「あなた、井上さんが来てくれたの、でも動かないで」 天井を見上げたままだったが、意識はあるようだった。 横についているドクターが言う。 「救急車がもう来るので。アゴが折れていて話せません」 相手が腕だけを上げ、手招きをすると、奥さんを呼んだ。 タブレットにに、指で何か書いているようだ。 奥さんが俺に近づき、「これ…」とタブレットを見せた 画面には、のたくったような文字が書かれていた。 『すごい左だ、見えなかった。今日は素晴らしい日だ。勝ち続けてくれ。俺も絶対に戻る』 彼女は静かに大きく腰を曲げ、とても自然に俺に礼を述べた。まるで頂きものをもらった時のように。 彼の代わりに礼をしているのかもしれない、とふと思った。 「ありがとうございました!」 斜め下から、声が聞こえると、さっきまで奥さんの腕をつかんでいた手を放して、充血した目で、男の子が挨拶していた。 「…ありがとうございました!」 俺は同じくらい、いや心ではそれより更に深く、頭を垂れた。 もうこれ以上ここにいるべきではないと思った。 同じように挨拶したトレーナーが小さく「行こう」と背中を叩いた。 斎藤もおどおどしながら、お辞儀をしていたようだった。 「粉砕骨折したらしい。あの年齢で顎の手術をしたら、彼はもうボクシングは無理かもしれないな」 裏口の扉を出て廊下で、トレーナーが言ってきた。 そうなんだろうなと思った。 しかしこうするしかなかった。 俺はこれを望んでいたのだろうか。 (殺せるのか…?)(殺したいのか…?) 今はそんなことはどうでもよかった。 ただもっと、強くなりたいという欲望が湧いてきていた。 そしてそれは、俺のためだけではないような気がしていた 今日のメインである、日本スーパーフェザー級のタイトルマッチを見るため、俺はホールに戻った。 足を踏み入れると同時に終了ゴングが鳴り、試合はすぐに終わったようだった。 俺の時よりも何倍も大きな歓声がホールに響いた。 リングの上では若い王者がガッツポーズをしていて、照明がとてもまばゆく感じた。 横を見ると、斎藤が同じようにリングを見つめていた。 「見てた?」ふと斎藤に声をかける。 びっくりしたようにこちらを振り返り 「…うん、左フックで一撃。相手はほとんど何も出来てなかったんじゃないかな」 「強いな」 「うん…、強い」 互いにリングを見たままだったが、なぜだか、もう疎ましさを感じなかった。
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