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1.蓮:ゴングが鳴る前に
後楽園ホールの、薄暗い通路で軽くシャドウする。
バンテージもグローブもガチガチに固められて、もう取ることは出来ない。
鼻の頭だってかけやしない。この試合が終わるまではな。
これでプロ6戦目、いつでも怖い。けどもう帰る場所なんてありはしないんだ。
これで勝ったらA級に上がれる。
母さんの好きだった、あの女性のように強くなるまでは。
強くなれば、素手でも人も殺せる。
そう、あいつもな。
ずっと殺したかった、”あいつ”をな…。
「赤コーナー、井上蓮、フューチャージム、5戦5勝、1KO!入場!!」
歩き始めると、トレーナーが肩を叩いてくれる。
その後ろには…、あのモヤシだ。金を出してもらってるから、仕方ないけど、あいつの心配そうな、でも愛されたそうな目は、本当に萎えさせる。
かまってもらえなければ、死んでしまいそうな…。
一瞥もせず行く。
存在すら、していないかのように。まあどうせ…ついてくるんだろう。
ホールに足を踏み入れると、少しざわついた、まばらな観客たち。
フードをかぶって花道を歩いても、僕の名前を呼ぶ声は聞こえない。
リング下でシューズを砂にこすりつけてると、青コーナーにいる、相手のニヤけた顔が目に入った。
僕を笑ってるんじゃない、リングサイドに、5,6歳くらいの少年と女がいて、それに笑いかけているようだ。
ロープをくぐると、そいつらは俺に一瞥もくれない。気づいてもいないように。
「パパ、がんばってね」「やっつけてね」カン高い声が耳に入る。
足の裏全体で、マットを踏みしめる。
客へ顔見せのため、4つのコーナーをロープ沿いに軽く走りながら一周する。
”ファミリー”のコーナーに近づいた時、少年は少しだけ僕を見て、すぐにまたパパを見つめる。
なんだか、すまない気持ちになった。
この幸せそうな家族は、僕がもしいなければ、僕がパパに倒されちまえば、きっと笑顔が続いていくんだろう。
もう一度横目で見る。キラキラした目で疑いもなくパパを見ている。
通り過ぎた瞬間、頭がサッと冷えきったのがわかった。
戦わなければ、先へ行くことはない。
あのパパも一人の戦士で、戦う理由があるんだろう。
奴らを背中にした時、心の中ではっきりと言い聞かせた。
『お前のパパは、殺してやるからな』
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