片側の熱量

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片側の熱量

 ■ プロローグ ■  霧のような細い雨が降っている。  路面は濡れていたが、バイクで走り慣れている自分たちには関係ないと、蓼原(たではら)(こう)は走りに意識を向けた。山奥にあるサーキットから続く道は、平日だということもあって車通りはほとんどない。だから、普段と変わらず、少しスピードを出していた。  見慣れたライムグリーンのEX‐9Rを追いかけながら、明日のレースに気持ちを馳せる。次こそ目の前の相手を抜き去りたい。今度こそ先頭でチェッカーを受けたい。常にそう思いながらも、今の並びと同じで、蓼原はいつも追いかける立場になってしまう。いつか渡瀬(わたせ)(たか)(あき)に実力で勝ちたい。それが蓼原の願いだった。  ふいに道路を小さな動物が横切った。猫だ。  その瞬間、目の前のEX‐9Rがバランスを崩した。ライムグリーンのマシンが横切るように滑っていく。蓼原は一瞬の判断で黒のZRX1100のコースを変え、少し先で止めた。すぐさま自分のマシンから降りると、投げ出された体に走り寄った。アスファルトに伸びる手は、ピクリとも動かない。  心臓がドクリと嫌な音を立てた。  だが、次の瞬間、むくりと起き上がった渡瀬が、大丈夫とでも言うように腕を挙げた。蓼原はホッと息を漏らす。 「タカ、大丈夫か?」  声に反応するように、渡瀬がシールドを上げた。 「わりぃ。ミスった」  渡瀬は立ち上がり、埃を払うように自分の全身に触れた。蓼原はシールドを上げると、異変がないかじっと見つめる。 「怪我は?」 「大丈夫だろ。痛いところもねーし。猫は轢いてねーよな?」  周りをきょろきょろと見回してそう告げる渡瀬に、蓼原は眉を寄せて首を振った。 「猫の心配より、自分の心配しろよ」  そう言いながらも、渡瀬らしい発言に蓼原の表情は緩む。 「大丈夫だって」  視線を向けた渡瀬が、いつものように笑う。 「……でも、念のため病院に行くぞ」  渡瀬が明らかに眉をしかめた。 「めんどくせー」 「めんどくせーじゃねーよ。何もないなら何もないでいいだろ。まだ、この時間だったら、病院だってやってるところあるだろ」 「……えー」 「コケたのに診察受けてないって話したら、監督怒ってレースに出るなって言うだろうな」  レーサーの資本は、その体だ。怪我でもあれば、レースにも影響してくる。しかも、明日が本番だ。監督が転倒したことを知って黙っているとは思えなかった。 「わーったよ。行くから」 「俺もついていくからな」  信用してないと言いたげな蓼原に、渡瀬が肩をすくめる。 「オカンかよ」 「うっせーな。お前がズボラ過ぎるんだろ。ほら、行くぞ」 「ハイハイ」  軽い返事で、渡瀬が自分のマシンに近づいていく。  いつもと同じ後ろ姿に、蓼原は安堵した。  今日がレースの日ではなくて良かった。そういう気持ちも含まれていた。  あの時の気持ちを、十年以上経った今でも覚えている。  蓼原は十九の時までプロのバイクレーサーを目指していた。同じ年の渡瀬はチームメイトでもあり、ライバルでもあった。  ただ、渡瀬に勝てたことは一度しかない。  その時も、実力で勝ったわけではなく、マシントラブルで勝てただけだった。  だから、先にプロになるのは間違いなく渡瀬で、もしかしたら自分はプロレーサーの夢を諦めるかもしれないと思ってもいた。ただそれは、やるだけやって駄目だったら、そういう気持ちでいた。  だが、蓼原は十九の時にプロのレーサーになる夢を捨てた。
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