名古屋

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名古屋

 陽子は、忍の病室のドアをノックした。返事はなかった。看護師達は、まだお休み中だと思う、と言っていた。ドアを開けて中に入った。  忍は眠っていた。病室には、家族が泊まる時のための簡易ベッドが一つ、壁際に設置されてあった。ドアの横には、洗面台が備え付けられていた。窓から、曇り空と、真昼の都心の街並みが見えた。 (この人が、忍君?)  陽子は目を疑った。  彼の髪は五分刈りだった。暫く熱が下がらなかった、と聡は言っていたが、それで刈られてしまったのだろうか? 忍は左腕に点滴を受けていた。  痩せこけた顔には、昔の甘い面影はなかった。右腕の肘はグルグルと包帯に巻かれていた。包帯の先から、排水チューブが出ており、その末端の排水バルブには、かなりの量の血がたまっていた。肘から先は、なかった。陽子は思い出した。昔、何度、忍の両腕に抱かれて、眠りに就いたことか、と。  忍は夢を見ていた。学生の頃乗っていた、トヨタの赤いアクアで、陽子と深夜の府中街道を、津田塾に向けて走っていた。陽子が、すすり泣きながら訴えていた。 「忍君、一体どうしてこんなことになっちゃったの? 出血が止まんないって、どういうこと?」  助手席の陽子の髪は、弛めの編み込みアップスタイルだった。 (髪、そんな風に編み込んじゃったら、ニオイ嗅げない……!)  忍の骸骨のように骨ばった左手が、震えながら陽子の髪に触れようとした。陽子は、咄嗟に、忍の左手を自分の両手に取った。 「腕切断しちゃったって! どうして? 忍君、もう、どうにかしないと……! なんでこんなことになってんの?」 (陽子ちゃんは、なんでこんなに、やるせない顔をしてるんだ?)  忍は目を開けた。 「陽子ちゃん……! 夢?」 「違うよ」 「……!」 「本物」 「ゴメン。嘘ついてた……」 「いいよ、もう」 「本当に、ゴメン」 「だから、もういいって。それより忍君、唇カサカサだよ」  陽子は、左手で忍の左手を握ったまま、右手でハンドバッグのポケットからリップクリームを出して、忍の唇に塗った。忍は陽子から目を離さなかった。 「御両親はお元気?」 「うん」 「猫ちゃん達は?」 「サラは死んじゃったんだけど、ジョーはまだ生きてる」 (サラちゃん、死んじゃったんだ)  陽子はサラを思い出した。サラは、忍が可愛がっていた、灰色のスコティッシュフォールドだった。彼がピアノを弾いていると、いつも膝に登ってきた。 「夢?」 「夢じゃないよ」 (夢に違いない。何度、彼女の夢を見ただろうか? 目が覚めればまた消えてしまう。今のうちに……!)  忍は必死だった。 「お願い、ニオイ、嗅がせて……!」  忍は右手を伸ばして、陽子の髪に触れようとした。もはやない右手を。 「今日はニオイはダメ。ゴメン。今度ね。血が止まったら」 「陽子ちゃん……!」  忍は、落胆のあまり、全身を震わせて泣いた。 「ニオイ、嗅ぎたい……! お願い!」 「ゴメンね。出血が止まったら。それまでお預け」  陽子は、涙を飲みながら、無理やり強い調子で言った。  忍は嗚咽した。 「また必ず来るから。血がとまったら、ニオイ嗅がせてあげる。約束する」  陽子は、今度は右手で忍の手を握ったまま、左手でそっと、忍の右肩に触れた。  忍はただ、陽子から目を反らさなかった。新しい涙が、両目からこぼれ落ちた。いつものように、右手で両目を覆って涙を隠そうとも、隠せなかった。冷たかった忍の左手は、陽子の手をしがみつくように握るにつれて、だんだんと熱くなっていった。   帰りの新幹線で陽子は泣いた。 (ホントに、腕、切っちゃったんだ)  熱い涙がジワッと溢れた。 (忍君、なんであんなに髪短くしちゃったんだろう? 収容所のユダヤ人の人みたい。あんなに、あたしの頭のニオイ嗅ぎたがって。そうだ、忘れてた。あたしのニオイは、忍君にとっては、麻薬みたいなもんだった。実験でどんなに遅くなって疲れてても、あたしのニオイを嗅ぎに、車で小平に会いに来た)  陽子は、忍の窪んだ目を思い出した。遠い別世界から、自分を見ているような……。  忍の窪んだ目に溢れ出てきた涙を見て、陽子は一瞬のうちに理解した。忍はまだ、自分を愛している、と。 (忍君、あの頃のこと、十年近くも引きずって。あたしはとうの昔に赦してたのに。あたしは西城君と、ドンドン幸せになっていって、忍君のことなんて、存在さえ忘れてたのに! あした死んじゃったらどうしよう? なんで、こんなことに!)  涙が止まらなかった。 (胸に抱きしめたい。あの惨めな頭を。抱きしめてあげたい。残った腕に、そっと口づけてあげたい! 元気になって欲しい! 元に戻って欲しい! どうしてこんなことに!)  陽子から嗚咽が漏れた。 「で、どうだったんだよ? オマエの東大ヤロー」  その晩寝室で、西城は、いつもより性急に、陽子のカラダを開き始めた。陽子の目は、泣き果てて、真っ赤に膨れ上がっていた。 「ダメなの。息してるだけなの」  西城には、分かっていた。忍が腕を失ったのは、自分のせいだと。 (もしアイツが死んだら? オレは人殺しか?)  西城は、自分に言い聞かせるように、小声で呟いた。 「オレ達の知ったことかよ」 「でも、ほっとけないよ!」 「……」 「……忍君としていい?」  西城の手が止まった。陽子は本気だった。 「フツーにお見舞いに行ってるだけじゃ、元気にならないような気がする」 「随分高い薬だな」 「でも、このままじゃ……!」 「あいつが誘ったんか?」 「ちがう。誘えるような状態じゃないんだって。もう死にそうなんだって」  「見舞ってほしいって頼まれて、見舞いに行ったんだろ? それで十分だろ?」  普段の西城らしからぬ、ハリのない声だった。  「そんな! あした死んじゃったら、どうしよう?」 「そんなに悪いんか?」  陽子は、両手で顔を覆ったまま、うなずいた。 「あんなに痩せ細っちゃって。聡君が言ってた。不眠症で、ここ何年か、あんまり寝てないって」 「……」 「あんなに痩せてるのに、出血だなんて!」 「……」 「お願い! 元気になるまででいいの! 血が止まって、片腕での生活に慣れて、体重も増えて、仕事にも復帰して、不眠症も治して……」  陽子はメソメソと泣きだした。 「リハビリの、一種って、わけか」  西城には、こうなることは分かっていた。 (だから会わせたくなかったんだ。でも遅かれ早かれ、結局、結果は同じだった。ならばあの時、オレが陽子に、アイツの母親からの手紙を渡していれば、アイツが腕を失うことも、なかったのかもしれない)  西城は、もうこれ以上、グダグダと後悔するようなことはしたくなかった。 「元気になるまでだぞ」  西城はボソッと言った。  陽子は信じられない、というように西城を見上げた。 「いいの?」 「ああ」 「ホントなの?」 「アイツに死なれるよりはマシだろ」 「ありがとう! 許してくれるはずない、って思ってた」 「オレにどんな選択肢があるっつーんだよ?」  西城は、闘争的に聞いた。 「ゴメン、ゴメンね」 「アイツが職場に復帰するまでだ。いいな!」  陽子は聞いていなかった。突然むせかえるような濃い花香が、彼女の全身から立ち昇った。陽子は西城を押し倒し、無我夢中で彼の口を吸い出した。  忍の母、佐和子は、忍が腕を切断する前に、陽子に彼を見舞ってほしいと手紙に書いたことは、誰にも言っていなかった。夫や聡に、下手に期待を持たすようなことは、したくなかった。  結局、陽子は現れず、忍は腕を失った。お門違いとは分かっていても、陽子を恨む気持ちを抑えることはできなかった。  忍が生きるのに疲れていることは、大分前から知っていた。しかし、どうしても認めたくなかった。   忍の手術後、傷口からの出血が止まらなくなった。もはやこれまでだと観念した。自分に、忍をこの世に留めておく力はなかった。自分の最初の子供が、目の前から消えていくのを、見守らなければならなかった。 泣く泣く熊本に公演に行った聡から、連絡が入った。陽子さんに会いに行った。自分と一緒に東京に出て、今、忍を見舞ってくれている、と。 (じゃ、手紙は届いていなかったのか?)  その夜、佐和子は、忍を病院に訪ねた。陽子はすでにいなかった。  忍は眠っていた。貴重な眠りを、一分でも長く取ってほしいと、佐和子は忍を起こすことなく帰宅した。  翌朝、忍の検診を終えた医師から連絡が入った。出血が止まった。まだ、気は抜けないが、今日一日様子を見よう、と。  佐和子には分かっていた。忍は生きる、と。また、陽子が忍の人生に現れた。もう大丈夫だ、と。  感謝の涙が止まらなかった。早速、聡に連絡した。自分に似て涙もろい次男が、電話の向こうで泣いていた。今日はいい演奏ができそうな気がする、と言っていた。  佐和子の、陽子への恨みは消えた。 (手紙は届かなかったに違いない。誰かが、彼女に渡さなかったんだろう。夫の人か? 辞めよう。これ以上、アレコレと詮索するのは)  佐和子は、手紙の事は誰にも言うまい、と心に誓った。  陽子が忍を見舞って二日後に、熊本の聡から連絡があった。忍の出血が止まった、と。  陽子は、また彼を訪ねてもいいか、と西城に聞いた。 「約束したの。出血が止まったらまた行くって」 「……」 「来週から大寄せ茶会の準備で忙しくなるし、そうこうしているうちに、お茶摘みも始まるし」 「要するに、今しかねーってことか?」 「うん」 「……」 「今日あした、あたしが忍君とどうこうなるってことはないから」  西城は承知した。  次の日の正午過ぎ、陽子は忍を訪ねた。忍はベッドに横になっていたが、眠ってはいなかった。やせ細った顔から、死相が消えていた。たった三日前の様子とは、雲泥の差だった。まだ痛々しいほど痩せていたが、意識のある人間らしく見えてきた。 「忍君、こんにちは」 「陽子ちゃん……!」 「聡君から聞いた。血が止まったって」 「……うん」 「よかった!」  忍は陽子から目を離さなかった。 「じゃ、約束だからニオイ嗅がせてあげる」  陽子は、紺地に白の水玉の長袖のワンピースを着ていた。ワンピースの裾を持ち上げて、点滴スタンドを倒さないように気を配りながら、忍の左手のベッドによじ登った。 「陽子ちゃん! ダメだよ!」 「でも、ベッドに登んなきゃ、忍君、ニオイかげないよ」  忍は、最初は抵抗したが、陽子が子猫のように丸くなって、そのウェーブがかった頭を彼の左肩に乗せると、何も言わなくなった。  忍は、はらはらと泣きながら、陽子の頭皮のニオイを、胸一杯吸い込んだ。 「ニオイ、少し変わったね」 「そうなの?」 「うん。前より甘い」  声楽科の声が、年齢と共に熟成していくように、彼女のニオイも、変わったのだろうか?  忍は、このまま陽子の花香に埋もれながら、息絶えてしまいたかった。  もうどのくらい、忍はすすり泣きながら、陽子の髪に鼻をうずめていたことだろう? 陽子がふと下を見ると、忍の物が、掛ふとんの下からそそり立っていた。 (こんなに痩せてても、死にそうに弱ってても、人間から性欲って消えないんだ)  陽子は思った。 「ご、ごめんね……。見苦しいよね」 「忍君、あたし今日は西城君と、実家でお夕飯一緒に食べることになってるの。もう行かなきゃ」  陽子は、忍の左手に自分の右手を重ねて、言った。これ以上ここにいて、忍に恥ずかしい思いをさせたくなかった。 「うん」  と言いつつも、忍は陽子の右手を離さなかった。 「また、来るから」  陽子は、忍の手を握り返しながら言った。 「……陽子ちゃん……。もう来ない方がいい」  そう言うかたわら、忍の両目から涙がこぼれ落ちた。 「来ちゃいけないの?」  忍がうなずいた。 「なんで?」 「なんでって……」  忍はただ陽子を見つめていた。痩せこけた顔に、目が窪んでいた。こけた頬には、ただ深い線が上下に走るだけで、もうエクボは凹まなかった。 (抱いてあげたい! なんでこんなに髪短くしちゃったんだろう? まるで、強制収容所のユダヤ人の人みたい) 「いいよね?」 「……」 「来ていいんでしょ?」 「うん」  忍は陽子を見つめたまま、ついに小さな声で呟いた。 「再来週は、うちで大きなお茶会を開くんで、今その準備中なの。五月に入ったらすぐ、お茶摘みも始まるし。でも一回目のお茶摘みが終わり次第、必ず来るから。その間に、また出血とかしないでね」  忍は陽子を見つめるだけで、何も言わなかった。再び両目から、涙がやせ細った頬をつたって流れ落ちた。  陽子はベッドスタンドからティッシュを取り、忍の涙をそっとふき取った。  そして、これで良し! というようにベッドから降りると、じゃ、またね、と言って、微笑みながら病室を出た。  忍は、まだじんわりと熱くほってている自分の左手の平を、暫く見ていた。 (ああ、この感触だ。待っていた! ずっと待っていた! 帰ってきた! やっと故郷に帰ってきた!)  彼の心が震えた。  陽子は聡を仲介して、佐和子と連絡を取り始めた。忍に会いに行けない週は、佐和子から彼の様子を聞いた。  その夏、忍は順調に回復していった。傷口は次第に癒えていった。リハビリも始まった。  ある六月の昼下がり、陽子は忍の病室を訪れた。忍は、ベッドにラップトップを広げて、働いていた。 「忍君、こんにちは!」 「陽子ちゃん! 今日来る予定だったっけ?」 「うーうん。東京でお茶会だったの。ちょっと顔見に来ただけだから」 「……陽子ちゃん、もう来ない方がいい……」 「なんで?」 「なんでって……」 「でもニオイかぎたいんでしょ?」 「だめだよ!」  忍の声が震えた。忍は口では抵抗しながらも、骨と皮ばかりの左手が、スッと思わず陽子の方へ伸びた。陽子は、すかさず両手で忍の左手をとり、自分の唇を這わせた。忍は陽子の口元を、食い入るように見つめた。  陽子は草履を脱いで、ベッドに這い上がった。  陽子は手毬模様の浴衣を着ていた。両手で、ゆるく編み込んで上げていた髪をほどくと、忍の肩に頭を乗せた。陽子は、なぜかいつも、忍のないはずの右手を、自分のカラダに感じた。自分のカラダのその部分が、彼の左手が触れている場所と同時に、いつもホンワカと熱くなっていくからだった。  忍は、陽子の花香を胸一杯に吸い込んだ。 「仕事してたの?」 「うん。書きかけてた論文がたまってて……」 「よかった!」 「陽子ちゃん、僕、もう大丈夫だから。一月から、大学にも復帰できることになったんだ。キミにこれ以上迷惑はかけれない」 「忍君、あたしは、忍君に元気になってほしいの。ただ退院するとか、仕事に復帰するとかじゃなくて、元の忍君に戻ってほしいの」 「もう、元に戻ることなんてできないよ」  忍は、もはや昔の自分を思い出すことすらできなかった。 (僕は、身も心も変わってしまった) 「なんで?」 「なんでって……」  忍はうつむいた。目を開いているのか閉じているのか分からなかった。目の不自由な男のように見えた。 「あたしとしたいんでしょ?」 「……!」 「すれば元気になるんでしょ?」 「だめだよ! そんなの」 「西城君はいいって」 「ホントなの?」 「うん」 「そんなの、いいわけないでしょ?」 「元気になるまでならいいって。期限限定なら」 「……!」 「あたしだって、西城君がどうしてもダメっていうんなら、こういことはできないし」 「陽子ちゃん、僕には分かるんだ。もう愛はないって」 「どういうこと?」 「キミはただ、僕を憐れんでるだけ」 「……?」 「僕は、昔、キミに愛してもらったことがあるから分かる」 「憐みだけじゃ、イヤなの?」 「……」 「愛がなくちゃ、ダメなの?」 「キミはいいの?」  陽子は、着付けを壊さないように身を起こし、忍を見た。そして右手で、彼の頬の、昔エクボがあった辺りに触れた。 「あたしはただ、忍君に元気になってほしいの。すれば元気になるんだったら、しない?」  忍は陽子から、無理やり身を引いた。彼の物が勃起していた。 「ゴ、ゴメン、出てくれる?」  陽子は、忍から身を離したが、ベッドからは降りなかった。  忍は、暫くして喋れるようになってから、苦しそうに言った。 「でも、そんなのいいわけない! 僕はまた、キミを不幸にする」 「でも、あたしはもう、あの頃のあたしじゃない。あたしは、忍君の一挙一動で、不幸になったりしない」 「うん。分かるよ。それは。でも、ご主人は……」 「だから、ずっとじゃないんだって」 「聡が、聡がキミの所に行かなければ……!」 「西城君が言ってた。オレにどんな選択肢があるんだって。聡君にもなかったでしょ?」 「僕は、僕は、生まれてこなければよかった……!」  忍は泣きだした。大きな左手で、両目を隠した。涙が彼のこけた頬をつたって流れた。  「忍君、お願いだから、そんなこと言わないで。あたし、もうそろそろ行かないと……」  咄嗟に忍は、涙で湿った左手で陽子の右手を掴んだ。陽子は彼にニッコリと微笑むと、左手で、彼の右頬の、昔エクボがあった辺りにそっと触れた。そして、じゃ、考えておいてね、と言って、素早く病室を去った。  忍は、七月に退院し、名古屋市内の病院でリハビリを続けることになった。忍の両親は、頻繁に彼を訪れ、彼が片手で運転できるようになるまで指導した。  全ての茶摘みが一段落した真夏のある日、陽子と忍は、八年ぶりにカラダを重ね合った。名古屋の忍のマンションの寝室で、陽子は胸をあらわにした。  忍の細長い左手の指が、おずおずと乳房に触れた。まるで目の不自由な男が、手探りで探し当てたかのように。 (もう、二度と触れないと思ってた)  目を閉じて、彼女の胸に顔をうずめた。陽子のニオイがした。唇で彼女の肌を感じた。 (やっと、会えた! 会いたかった!)  忍は泣いていた。  陽子は、忍の短く刈った頭を胸に抱いた。  忍は、無我夢中で陽子の口を吸いだした。 「いいよ、入れて」 「いいの?」 「うん」 「でも……」 「大丈夫だから」  陽子は、まだ躊躇している忍の上に、素早く乗った。忍の物が、熟れたスイカにナイフがスッとささるように、陽子に埋もれていった。  入ったとほぼ同時に、忍は射精した。 「ゴ、ゴメン」 「いいよ。気にしないで。暫くしてなかったんでしょ?」  二人は一つになったまま、唇を吸い合った。  忍の欲情は津波のようだった。震え立つ震源地から、何度も何度も高波が押し寄せて来た。  忍は尽き果てると、大きな左手で、陽子の腰や肩にしがみつき、彼女が逃げられないように抑え込むようにした。また逃げられでもしたら大変だ、というように。陽子は、カラダに枷をはめられているかのようだった。  富士山のようにどっしりとした西城は、陽子を優しく包み込むように抱く。忍は切羽詰まったように抱き付いてきた。 (まるで大きな赤ちゃんだ)  陽子は、そんな忍を優しく抱きしめた。  陽子を抑え込みながら、忍は彼女の髪に顔をうずめて、すすり泣いた。陽子の頭皮のニオイを嗅いでいるうちに、また陽子を抑え込む彼の左手がだんだん熱くなり、息使いが荒くなった。彼の物が、再び熱く硬くそそり立ってきた。 「ゴメンね。ゴメンね。僕はキミを大事にしなかった」  最中に、忍は泣きながら過去を謝った。  名古屋駅への車の中で、忍はまたもや謝り続けた。 「ゴメン、暴走した。呆れたよね」 (嫌われた。もう来てくれないかもしれない)  忍の顔は、落胆で泣き出す寸前に見えた。  陽子は、右手を、忍の後ろ首の付け根を包むように置き、左手は、ハンドルを握る彼の左手の上にそっと乗せた。 「嫌いになってなんかないよ。落ち着いて。そんなに切羽詰まんないで。セックスのことは気にしてないから。いいの。元の忍君に戻ってほしいの」 (元になんて戻れない。僕はもう、変わり果ててしまった。身も心も)  忍は悲観的だった。  そんなことを話しているうちに、車は桜通口に着いた。 「静岡に着いたらラインする」 「うん。来てくれてありがとう」 「いいよ、そんなこと。じゃ、また、一ヶ月後にね!」 「うん。ありがとう」  陽子は、サッと身軽に車を出ると、パタパタと駅に入っていった。 (ああ! また会えるんだ!)  忍は車の座席に沈みこんで、深くため息をついた。  その夜、忍は夢を見た。  辺りは、濃い青に満ちていた。真夜中だった。忍は花をたべていた。見たこともない花で、ヒヤシンスのようだったが、枝についていた。忍は枝を、ないはずの右手に持ち、黙々と花を食べていた。  陽子の新幹線が名古屋を発って間もなくして、西城から連絡が入った。今夜は、自分は、お茶屋を閉めてから帰宅する、と。  その夜、西城と陽子は、陽子の芳香に包まれながら、朝まで抱き合った。 「ゴメン、ゴメンね。嫌いにならないで……!」  後悔にさいなまれた陽子は、激しくすすり泣き、まともに喋れなかった。  西城は、陽子を黙らせるために、陽子の口を優しく吸い出した。 (西城君は怒ってない!)  西城は、陽子の全身を、そして、最期に陰部を優しく舐めた。陽子の腰が一人でにユラユラと動き出した。さらに濃い香りの波が、陽子の全身から立ち昇った。  西城の頭に両手を置いたまま、陽子は、鳩のように低く呻きながら達した。  だらっと横たわる陽子の、ウェーブがかった柔らかい髪を撫でながら、西城は思った。 (アイツが死なないように、陽子に不倫させてんのは、オレだ。なんで、こんなことになったんだ? 弟さえ来なければ、オレ達がこんなことに巻き込まれることもなかった!)  しかし、西城は理解していた。聡は、しなければならないことをしたまでだった、ということを。  陽子は、西城に両手を差し出した。彼女の、起こしてほしいという、いつものジェスチャーだった。西城は陽子の肘と肩を支え、優しく引き起こした。  陽子は、両手で軽く、西城の力強い顎に触れると、目を閉じたまま、自分の唇を彼のに重ねた。陽子は、西城の口をそっと愛撫し続けた。  西城の首につかまりながら、陽子は唇で西城の口をほんの少し開けた。そして、さらに深く、彼の口を吸い始めた。部屋中に甘い花の香りを蔓延させながら。  西城は陽子を素早く開き、降りて行った。彼女の甘い花香に、むせかえるようになりながら。 (豊永だけじゃねーんだよ。コイツのカラダ抱いてねーと、どうにかなっちまう男は!)  陽子の中が西城の物を、待ちきれなかった、というように締め付けてきた。 「許して……。お願い……! 嫌いにならないで……!」  陽子は激しくあえぎながら、口走った。彼女の全身から、新な花香が立ち昇った。 「アイツがよくなるまでだ! いいな?」  陽子は、ああ! と呻くと両手で顔を覆った。  絶えて、そのまま寝てしまった陽子の髪を撫でながら、西城は、その日、彼女が名古屋に着ていった、藤色のワンピースが、ソファの背にかかっているのを見た。陽子が学生時代に、忍と付き合っていた頃によく着ていた物と似ていた。  西城は気付いていた。陽子が一ヶ月後の水曜日に、茶道のレッスンの予約を一つも入れていないことを。その翌日の木曜の朝にも、お茶屋のシフトを入れていないことを。  陽子は、口では、西城に許しをこいながら、同時に、次に忍と会う計画を立てていた。冷静に、計算高く、女狐のように。陽子は二人の男を抱きつくしたカラダが、翌朝、定時に起きられないことを、知っていた。  西城は理解していた。後悔にさいなまれながら、自分に許しを請う陽子も本物なら、欲情から忍に走る陽子も本物だと。  西城は、ソファの背にかかった、陽子の藤色のワンピースを、ズタズタに引き裂いてやりたい衝動に駆られた。  忍は、最初の頃は陽子を貪り食うように抱いた。タカが外れたかのように。狂った動物のように。陽子の全身を貪り食うように愛撫した。失くしたと思っていた財布が戻ってきた時、とられた物はないかと、入念に調べるように。  あまりに長いこと、妄想の中の陽子としてきたせいか、今、実際に自分の腕の中にいるのは、本物の陽子だという意識がないようだった。  自分が尽き果ててしまうと、あとは、また陽子を失うことになるのではないか、という恐怖感に抗えず、彼女をがっしりと抑え込んで、頭皮の香りを嗅ぎながらすすり泣いた。過去の鬱積した恋慕が、涙と一緒に流れ出た。陽子は、忍の左腕に締め付けられて、息ができないこともあった。学生時代、陽子の下宿で分かち合った、あの二人の楽しいセックスとは、ほど遠かった。  忍は言い訳がましく言った。 「だって、また消えちゃったら……」 「忍君、あたしはもう、どこにも行かない。あたしの居場所は、静岡のお茶園だから。そこで西城君とお茶屋やってくの。もう、どっか行きたくても行けないの。分かった?」 「うん……」  とは言いつつも、忍はさらに強く、陽子を自分に引き寄せた。  陽子は、そんな忍の短く刈られた頭を、優しく胸に抱いた。陽子は体位が許す限り、彼の右腕の傷口をそっと舐めた。野生動物が、傷ついた同胞を舐めて癒すかのように。  その年のある十月の正午近く、忍と陽子は、名古屋駅から忍のマンションに着き、台所に入った。陽子が忍を訪れるのは、三度目だった。テーブルの上には、ラップトップと開いたままのコーンチップスの袋が置いてあった。 「ごめん、片してなかった」  昨日の夜は、忍は、アリゾナ大の同僚と共著の論文を校正していた。書きながら、コーンチップスをつまみ食いした。 「何味?」 「ライム」 「ライム? 食べたことない」 「食べてみる?」 「うん」  陽子は、カナダの聖子おば宅に滞在していた時は、よくコーンチップスを食べたが、ライム味は初めてだった。 「美味しいね」 「でしょ?」 「あれ?」 「どうしたの?」 「なんかノドが変」 「……?」 「痛い。くすぐったい」  陽子は、台所の流しに駆け寄ると、激しくせき込んだ。まるで、しつこい痰を吐き出したいかのように。 「陽子ちゃん、大丈夫?」  忍は、彼女に駆け寄った。陽子は口をゆすぎ、忍に言った。 「ダメ。コーンチップス、のどに引っかかっちゃったみたいなの」 「マジで?」 「うん。まだ、痛い」  陽子は涙ぐんでいる。 「ちょっと待ってて」  忍は急いで、極細のピンセットを取り出してきた。 「アーンして」  陽子はなるべく大きく口を開けた。 「うわー、ホントだ! 動かないでね」  忍は、左手で器用にピンセットを持ち、ゴマ粒五つ分ほどしかない、激しくシャープな三角形をつまみ出した。 「とれたよ」 「まだ痛い!」 「コーンチップス引っかかった人なんて初めて見た」 「忍君、なんでこんな危ないもん食べてんの?」 「ごめん、痛かったよね」  気恥ずかしさと、まだノドに残る不快感で、普段は滅多に怒らない陽子は、少しイラッとしていた。 「忍君、これ、昨日のお夕食?」 「あ、うん。時間なくて」 「コーンチップスだけ?」 「うん。書きながらだと、手の込んだもの食べられなくて。アリゾナ時代からの悪い習慣」 「忍君、あたし、コーンチップス食べないでって言ってんじゃないの。ただ、野菜とか果物とかと一緒に食べないと∙∙∙∙∙∙」 「一緒に食べたよ」 「何と食べたの?」 「トマトととんがらし」 「∙∙∙∙∙∙?」 「サルサに入ってた」 「忍君!」 「ごめん! 陽子ちゃん。ジョーダンだよ。ごめん!」 「忍君、もっとしっかり食べなきゃ!」 「分かったよ。野菜と果物だね」 「うん」 「ちゃんと食べるから」  陽子はま、だ疑い深く忍を見ていた。 「昔、よく下宿で二人で料理したよね」 「うん……」  忍は辛そうに下を向いた。 (忍君が一番苦手なのは昔話)  陽子は知っていた。 「最近はどんなもん食べてんの?」 「忙しくて……」 「忙しいって! そもそも、病み上がりの人が、なんでそんなに働いてんの? 忍君、ホントに食べることはしっかりしないと! 腕だって折角治ってきたのに!」 「うん。キミの言う通りだよ」 「冷蔵庫見てもいい?」 「うん」  陽子は冷蔵庫を開けた。 「何、これ?」  陽子は立ち尽くした。冷蔵庫には、和菓子がギッシリと詰まっていた。 「あっ、そうだ。忘れないうちに」  忍は、ちょっとごめんね、と言って、冷蔵庫と陽子の間に割って入り、片手で和菓子を紙袋に詰めはじめた。賞味期限をチェックしながら。 「何してんの?」 「なんか、キミはどれが好きかな、って考えてると、つい買っちゃうんだ」  忍の病院は名古屋駅に近かった。忍は、時間が少しでもあれば、駅周辺の地下街の和菓子屋を見て回った。陽子に季節の和菓子を買ってあげたくて。しかし、一ヶ月も過ぎれば、賞味期限が切れるものがほとんどだった。 「忍君、これじゃ、まるでアルプスの少女ハイジだよ」 「うん。キミに食べて欲しくて」 「じゃ、期限切れてるのは、あたしが頂いていい? お父さんとお母さんと食べるから」 「いや、期限が切れてるのは僕が食べるよ」 「こんなに沢山、忍君一人じゃ食べきれないよ。で、期限が切れそうなのは、休憩中のお茶屋の子達にあげていい?」 「うん、もちろん」 「でも、これは買いすぎだよ。無駄になっちゃう」 「分かってんだけど∙∙∙∙∙∙」 「そーだ。買う前に、お菓子の写真ちょうだい? で、あたしが欲しいのあったら、買っといて、って連絡する」 「それはいい考えだね」 「でしょ? それはともかく、全然、お総菜がないじゃない?」 「あー、うん」 「買い物の仕方、忘れちゃったなんて言わせないからね。よく二人で、鷹の台の生協に、買い物に行ったでしょ? 玉川上水沿いの林抜けて」  忍は黙って下を見ていた。  陽子は意地悪するつもりはなかった。しかし忍に理解してもらうためには、彼を苦しめるしかなかった。彼にとって一番辛いのは、昔話だった。後悔という氷海に、首までどっぷりつかって、アップアップしながら生きているような男だったからだ。 「科学者なら分かるでしょ? バランス良く食べなきゃダメだって」 「うん」 「腕の炎症が悪化して、抗生物質が効かなかったのも、免疫が低下してたからでしょ? いつもバランス良く食べてれば、ケガもすぐに治るし、病気にもならないし」 「キミの言ってることは、みんな正しいよ」 「意地悪したくないの、脅迫するのもホントはいや。でも忍君には、元気になってもらわないと、あたし……」  陽子は泣きそうになった。 「ごめん、陽子ちゃん。心配かけて」  忍も泣きそうに言った。 「いつもは、母さんが送ってくれる、冷凍したおかずを解凍して食べてんだけど、昨日はそんな暇もなくて」 「忍君、ご飯のこと、もうちょっと考えようよ」 「でも、本当に作って食べてる時間ないんだ」 (そんな、バカなことが!)  陽子は信じられなかった。 「まだ、仕事に復帰したわけでもないのに」 「でも、入院中にたまってた論文が……」 実は、忍は陽子には言っていなかったが、退院と同時に、院生達の卒業論文を指導し始めていた。自分のせいで、彼らの卒業や就職が遅れるようなことは避けたかった。幸い、入院中は、ピーターがラボを仕切ってくれていたので、院生達は予定通りに実験を進めることができた。 「ちゃんと食べなきゃ、あたしもう来ない」 「陽子ちゃん!」  忍はもう半泣きだった。 「ちゃんと食べるよ。キミに嫌われたくない」 「お母様と相談して、あたしもおかず冷凍して送るから」 「いいよ! キミだって忙しいのに!」 「でも、片手で料理するの、時間かかるでしょ? それにあたし達は、身体が資本だから。どうせ作んないとダメだから。だから忍君のはついでだから、気にしないで。時間が余計かかるとか、そういうんじゃないから。でも、メインの食事は送れるけど、生野菜とか果物は、自分でとってもらわないと」 「キミに負担はかけたくない」 「負担じゃないから」 「約束するよ。毎日野菜と果物を食べればいいんだね?」 「うん。写真送って。忍君は、ちゃんとみはんないと食べなそう」 「食べるよ。キミに余計な心配かけたくない」 「あたしも、美味しそうな果物とか、日持ちのする野菜見つけたら送るから」 「いいよ! そんな!」 「だってゆっくり買い物とかしないんでしょ?」 「……」 「気にしないで。早く元気になってほしいの」 「陽子ちゃん……」  忍は、微笑もうとした。口元は微笑んでいたが、目は笑っていなかった。あの欲情に切羽詰まった目だった。陽子の髪に触れたくて触れたくてたまらない時の。  この日忍は、正常位で入ってきた。  陽子は、ふと自分の左手が、忍の無いはずの右手に握られているような錯覚を覚えた。  忍の見えない右手は、だんだん熱くなっていった。同時に、自分の頬や首筋や肩や乳房を愛撫する彼の大きな左手も、同じように熱くなっていった。  陽子は、これが忍の好きな体位だったことを思い出した。九年前、小平の陽子の下宿で、忍は陽子がいくまで、彼女の口を吸いながらゆっくりと動いた。  この日も、忍は陽子の口を吸いながら、時には彼女の髪に鼻を埋めながら、ゆっくりと陽子を高めていった。  彼の息づかいが、次第に荒くなっていった。 (おんなじだ、あの頃と……)  陽子は、かつて自分が、どれほどこの男を愛していたかを思い出した。  涙が溢れてきた。  そして、忍に言った。 「昔に、戻った、みたい、だね」 「陽子ちゃん……!」  忍も泣いていた。  二人は同時に達した。  そして、忍は、昔よくしたように、陽子の四肢に自分のを乗せた。  昔、陽子はよく言った。 「忍君、ベターっとして。忍君の体重、気持ちいい」  二人は見つめ合いながら、まじないを唱えるように歌い出した。  腕は腕  足は足  お腹はお腹  口は口  そして二人は微笑みながら、唇を、一瞬だけチュッと重ね合わせた。 「まだ、覚えてたね」 「僕が忘れるわけないでしょ?」  忍は付け加えた。 「腕は、一本足りないけどね」  帰りの車の中で、陽子は忍に詫びた。 「うるさく言ってゴメン。ご飯のこととか……」 「僕のこと心配してくれてるんだよね。嬉しいよ」 「あたし、奥さんでもないのに……」 「……」 「早く、忍君のこと、親身に心配してくれるいい人みつけて、一緒に住みなよ」  忍は、ハーっとため息をついた。 「それはないよ」 「どうして?」 「どうしてって……」 「絶対いるよ。忍君のこと大事に思ってくれる人」 「僕は一人でいい」 「ずっと?」 「ずっと」 「でも、それじゃ……」 「いいんだ。野菜ちゃんと食べるから。ね?」 「……うん……」  その夜も、車はあっという間に、名古屋駅の桜通口に着いた。忍は、左手を伸ばし、陽子の髪に触れた。 「ニオイ嗅ぐ?」 「いいの?」 「うん」  忍は、陽子を優しく引き寄せて、鼻を彼女の髪にうずめた。  そうして、嫌々ながら、自分の身を彼女から引き離した。 「切りがないから……」  無理矢理笑おうとしながら、言った。  忍は昔から、別れる時は陽子の口を吸わなかった。別れられなくなってしまうからだった。そっと陽子の額に、唇を這わせるだけだった。 「おでこに、キスしないの?」  忍の顔に、影がさした。彼の長身が一瞬凍り付いた。 「まだニキビのこと気にしてんの?」 「……」 「もう、あたしが気にしてないんだから、自分のこと赦してあげなよ」 「陽子ちゃん……!」 「じゃ、今度して。一ヶ月あれば、心の準備できるでしょ? ね?」 「じゃ、じゃ、これが最後じゃないんだ?」 「うん。来月も、来るから」 「ありがとう」 「いいよ。そんなの」 「気を付けてね」 「うん」 「静岡に着いたら連絡くれる?」 「うん。じゃあね。バイバイ」 「バイバイ」  忍は、陽子が改札口に消えていくのを見届けてから、車のエンジンを入れた。 (また彼女と会えなくなったら、自分は、今度はどうなってしまうんだろう?)  考えただけでもゾッとした。  陽子によると、西城は、忍が回復するまでという条件で、不倫を容認したのだという。  問題は、忍はすでに健康を取り戻していたということだった。陽子と再会して以来、眠るのが怖くなくなった。もうすっかり忘れていた、朝の目覚めの爽快さを味わった。カラダの動きも軽く感じられた。 (来月は会えても、再来月には、もう会えないだろう)  また、あの陽子のいない暗い場所に、降りていかなければならないのか、と思うと心がくじけた。  忍は努めて、いずれは来る別れについて考えることは止めた。その代わり、二人で小平で過ごした時に、思いをはせた。  昔よく二人で、天空一面の星を見た。津田塾の横の玉川上水沿いの林の向こうに。二人で過ごした初めての冬のある夜、一体何を考えていたんだか、あの真夜中の寒さの中、玉川上水沿いの暗い林道を歩いて、多摩湖線の踏切近くのコンビニに、ココアを買いに行った。二人で大きな紙コップに入った、熱々のココアを回し飲みしながら、また上水沿いを歩いて、陽子の下宿に戻った。頭上で木々が、風にざわついていた。星達も寒そうに瞬く、真冬の夜だった。  名古屋駅周辺は、明るすぎて星は見えなかった。忍は、木々の代わりに未来タワーを見た。星達の代わりに、名駅のイルミネーションを見た。忍は願った。 (また、あの真冬の夜の、自分達に戻れたら……!)  十月も終わりに近いある週末、陽子は津田の旧友達と、広島で加奈の結婚式に出席した。加奈は卒業以来、広島の県立高校で英語教師として働いてきた。職場結婚だった。彼女の長身に、スリムなウェディング∙ドレスが似合っていた。  陽子の他に結婚式に参加したのは、葵とモクと渚と美緒だった。相変わらずポニーテールの葵は弁護士になった。ぽっちゃり型のモクは職場結婚をし、三年前、第一子を出産し、現在は子育てに奮闘中だった。彼氏の転勤に伴って、山梨に引っ越した足長の美緒は、ワイナリーで働いていた。渚は現在は環境保護関係のNPO に転職していた。渚は最近は眼鏡を外し、コンタクトレンズを利用していた。  五人は、折角久しぶりに集まったんだからと、広島から奈良へ移動し、一泊した。  次の日の午後、奈良市内で観光を済ませた五人は、後ろ髪を引かれる思いで、三月堂から、徒歩で近鉄奈良駅に向かった。 「そこの綺麗なお姉はん!」  しわがれた男の声が、近鉄奈良駅前の行基広場の片隅から、陽子を呼んだ。 「あたしですか?」 「そうですよ!」 「綺麗だなんて……! ありがとうございます」  陽子は素直に喜んだ。  出っ歯気味の初老の男は、手相読みだった。 「手相占い、どうです? まけときまっせー」  男は関西弁で勧誘した。  陽子はゼミ友達に言った。 「こういうのしたことないの。面白そう」 「見てもらうの?」 「うん」 「じゃ、コインロッカーから荷物出して、改札口に行ってるから」 「改札の横の鯛焼き屋さんで、鯛焼き買ってるから。急がないでいいよ」 「ありがとう」  葵は、手相読みに呼びかけた。 「おじさん! この人いい歳して、天然で常識知らずで冗談通じないから。お手柔らかにね!」 「ハイハーイ!」  手相読みは、葵達に手を振りながら、陽気に答えた。  陽子は手相読みの男の前に座った。 「あー、あんさんは、ニオイのいいお人やね」 「え? ニオイするんですか?」 「微かにね。ハイ、じゃ、左手出してください」  手相読みは、両手で陽子の左手を取った。 「家内安全、商売繁盛だね。あぁ、男二人いる?」 「え?」 「旦那さんの他に、もう一人いるね」 「ど、どうして、そんなこと、分かるんですか?」 「んー、これは……!」 「な、なんなんですか?」 「あんさんからニオイが消えない限り上手くいくよ」 「え?」 「ニオイがあれば、大丈夫や」 「あ、あの、じゃ、どうすれば、どうすればいいんですか? ニオイが消えないようにするには?」  陽子は、思わず前に乗り出して聞いた。 「フツーにしてればいいのや」 「はぁ?」 「フツーにしてればいいんです」 「あの、フツーって……?」 「はい、じゃ、次の方お待ちだから。OO円です」 「あ、はい。ありがとうございました」  陽子は金を払い、席を立ち、手相読みに礼をした。 「はい、次の方、どうぞ、お座りください!」  気が付くと、陽子は行基広場から、改札口へ向かって歩いていた。 (フツーにってどういうこと? なんていい加減な! こんなんでOO円?) 「どうだった?」  改札の横で、ゼミ友達は鯛焼きを食べながら陽子を待っていた。 「フツーにしてればいいんだって」 「はぁ?」 「フツーにしてれば上手くいくんだって」 「フツーって何?」 「えー、なんだろ?」  陽子は、忍とのことは、旧友達には言っていなかった。いくらなんでも、不倫をしていることは、津田の誰にも話せなかった。  五人は、京都から新幹線に乗り換え、帰路に就いた。  秋も深まってきたある日、シャワーを浴びるまでの束の間、陽子は忍の左腕に抱かれながら言った。 「忍君、次に来れるの、十二月の最初の週なの」  忍は、今日が最後じゃないんだ、と安堵し、全身を微かに震わせた。 「かき入れ時だもんね」 「そうなの。暮れは、お客様の楽しいクリスマスとお正月を演出するので、大忙しだよ」 「聡が、前、お洒落なティーポットを陽子ちゃんとこのネットで買ったって言ってた」 「そうなの。西城君の品揃えが豊富で、オンラインで扱ってんのお茶だけじゃないの。売り方も凄いスマートで。お茶碗のセットとか、茶道の道具とか高級あられとか。お箸のセットとか、おせち料理の重箱とか全部ガンガン売っちゃうの。真空パックのおせち料理まで」 「凄いね」 「うん。でね、次に会う時は、ちょと早いんだけど、二人でクリスマスっぽいことしない? あたし達の、二回目のクリスマス、楽しくしない?」  初めて二人で過ごしたクリスマスは楽しかった。でも二回目はなかった。 (僕のせいで)  忍はまたドーンと落ち込んだ。三回目もないだろう。忍は一月から、名大に復帰することになっていた。西城が、これ以上二人の逢瀬を黙認するとは思えなかった。だが、二人とも、目前に迫った別れについて言及することは、避けていた。  忍は、思わず陽子の腰にしがみついた。 「うん。そうだね。楽しくしたいよね」  そう言って、彼女のウェーブがかった髪に顔をうずめた。  十二月に入ったばかりのある日、陽子は自宅で洗濯をしていた。 (プレゼント、何がいいかな、忍君に)  何か着る物をあげたかった。忍は、陽子と佐和子が供給する食事のお陰で、体重も大分増えてきた。 (何か着る物……)  ふと、洗濯物かごに、西城の、白いアイルランド製のセーターが入っていた。一年前に、陽子が西城に送ったものだった。いつも陽子が、細心の注意を払って手洗いしているから、まだ縮んでいなかった。 (忍君も、アイルランドのセーター、似合うだろうな)  陽子は、ネットで似たようなセーターを探した。どれもこれも、ウィンブルドンで西城に買った物より数段劣った。  そこで、西城の白を買った、ウィンブルドンのOut of Aranのサイトに行ってみた。 (あるじゃない、クラッシーな品々が!)  陽子は、忍に似合いそうな、アイルランド西部の、バンラティ村で生産された濃い緑のヘチマ襟のセーターを、速達で注文した。  忍は、陽子との二度目のクリスマスを入念に準備した。クリスマス用の観葉植物やワインも買った。プレゼントは……。 「これ、キミに」  忍が、小さな包みをテーブルに置いた。 「ありがとう。なんだろう? 楽しみ」  陽子は包みを開けた。  白地に茶色の、水玉模様の木製の馬の帯留めだった。幼い頃から木工が得意だった忍が、時間をかけて片手で作った。 「わー、可愛い! 水玉?」 「うん。やっぱり、着物には合わないかも。ブローチにすればよかったかな」 「うーうん、そんなことないよ。絶対合う帯探すから。ありがとう!」 「どういたしまして」  忍は嬉しそうに微笑んだ。陽子には、やはり、何か身に着ける物をあげたかった。子供じみた、可愛い木製の馬の帯留めなら、西城も大目に見てくれるのではないか、と願いつつ作った。 「でも、なんで馬?」 「んー、なんでなんだろう?」  アリゾナ時代、ナバホのリザーブでキャンプ中に、荒野を駆ける野生馬の一群を見た。一頭だけが白地に茶色の水玉だった。 「アップルーサってゆうんだよ」 「アップルーサ?」 「うん」  そのアップルーサが、長い首を振りながら、空中に鼻ずらを高くかかげて、いたずらっ子っぽくいなないた。走るのが嬉しくて嬉しくてたまらない、というように。  なぜか、かつて、陽子の誕生日に自分が演奏した、ヴィドールの「オルガン交響曲第五番の第五楽章」が心に響いてきた。 「ありがとう!」  陽子は再び言って、忍の首に抱きついた。 (音楽じゃないんだね……)  彼女の心の声が聞こえた。 (うん……)  忍も、陽子を抱きとめながら、心の中で答えた。陽子と別れて、音楽を辞めた。彼はもう、二人の愛を育んだ音楽には戻れなかった。 「あたしも忍くんへのプレゼント、持ってきたの」 「なんだろ? 楽しみ」  忍は包みを開けた。深いアイルランドの緑が、目に飛び込んできた。 「着ていい?」 「うん。もちろん」  サイズもぴったりだった。 「忍君、凄く似合う。まるで、忍君のために編まれたみたい」 「ありがとう。嬉しいよ」  二人は手をまさぐり合った。 「会ったのは九年前なんだけど、まだ、二人で過ごす二度目のクリスマスなんだよね」  いつもの忍だったら、ドーンと落ち込むところだったが、今日はただただ陽子に、楽しい時を過ごしてほかった。折角、忙しいのに、午前中から来てくれたんだ。それに、もし、今日が最後の逢瀬になるんだったら? もう会えないかもしれない。この時を、いじけるのに無駄にしたくない。忍は、今日は最後まで、クリスマス精神を保とう、と決意した。  二人は陽子が買ってきた鳥のもも肉と、たった今彼女が茹でたじゃが芋を皿にもった。サラダは忍が作った。 「忍君、このドレッシング凄く美味しい。どうやって作ったの?」  陽子思わず自分の手を忍のに重ねた。 (忍君の手、いつも冷たい。でもあたしに触るにつれて、だんだんカイロみたいに暖かくなってくる) 「ゆず醤油とゴマ油だけだよ。でも潰したニンニクが隠し味で入ってる」 「あー、だからいいニオイなんだ」 「おかわりいるでしょ?」 「うん。お願い」  忍は、ボールから、片手で器用にサラダサーバーを操って、サラダの残りを陽子の皿に取り分けた。 「陽子ちゃん、サラダの野菜はね、盛り付ける直前に切らなきゃだめだよ。切った途端、野菜の栄養分が水分と一緒に出てきちゃうんだ。切り置きとかはしないでね」 「そうなんだ。じゃ、うちの厨房にも、気を付けるように言っとくよ。お客さんには、しっかり栄養取ってほしいし」  デザートは、陽子が持参した忍の好物のモンブランと、陽子が好きなコナコーヒーだった。 「どこの? 美味しいね」 「でしょ? 静岡駅のグレノーブルっていう洋菓子屋さん」  二人の手は、いつの間にか、テーブルの上で重なり合っていた。  突然、忍は提案した。 「ダンスしようか?」 「え?」  忍は、携帯から音楽を流した。 「クリスマスキャロル、ジャズ風で」 「可愛い! 何このアレンジ?」 「でしょ? この前、実家で、聡が聞いてて、僕、なんか鼻歌で合わせて歌ってたみたいなんだよね」 「忍君が?」 「うん。自分では気が付かなかったんだけど。で、父さんと母さんに笑われた」 「アハハ、そうなの。いいね!」  忍は立ち上がり、左手で陽子の手を取り、リードを取った。二人は台所のカウンターと、ソファの間の空間で踊りだした。  昔、月夜の晩は、二人でワルツを踊った。津田塾の横の玉川上水沿いの林道で。 「ワルツは昔、よく踊ったよね」  忍は、クリスマス精神、クリスマス精神、と心の中で呪文を唱えるように呟いた。 (今夜は落ち込んでちゃいけない) 「うん」 「忍君、ジャズで踊るのも上手いね」 「そうかな。僕、実は中高で、家族に内緒でバンドやってて、ジャズピアノ弾いてたんだ」 「えー、カッコイイ! でも内緒でって、なんで?」 「母さんに、ジャズピアノやりたいって言ったら、ジャズは大学に入ってからだっていつだってできるから、今はクラシックに集中しろって」 「そうだったんだ」 「キミに言ってなかったよね。たまにお茶の水でスタジオ借りて、セッションしたりしてた。生意気だったな、僕ら」 「楽しかったんだ」 「うん。楽しかった。でも、高三でみんな予備校二つとか掛け持ちしだして、ジャズバンドも自然消滅みたいになって」 「そーか」 「うん。でも僕だけなんかボーっとしてて、受験の波に乗り遅れちゃったんだよね。危機感ゼロで。受験勉強放ったらかして、数オリとか出てたし。で、落ちちゃった時、母さんが大泣きして。で、もう僕、凄い後悔して、それからは人が変わったように勉強したんだ。ピアノも弾かずに」 「滑り止めとか受けてなかったの?」 「受けてて受かってたんだけど、母さんが浪人した方がいいって。父さんは、どっちでもいいって言ってくれたんだけど」 「忍君、女の人に泣かれるのも、怒られるのも苦手だよね」 「うん。で、僕、大学入ってからは、また思いっきりピアノが弾けるのが嬉しくて。ピアノ研でクラシックばっかり弾いてて、なんかジャズピアノのことすっかり忘れちゃってた」 「好きな事でも、一度辞めて離れちゃうと、どれだけ好きだったかとか、忘れちゃうんだよね」 「ホントだよね。で、三年の秋に、キミと会って、何も手につかなくなった」  そう言った忍は、あの頃のように物静かで、朗らかで、自由だった。 (昔の忍君だ!)  陽子には、学生の頃の彼が、戻って来たかのように思えた。よく二人で、津田の横の玉川上水沿いを歩いた時、何度こんな彼の静かな横顔を見上げたことだったろう。 (あたしも、忍君の手とエクボに、一目惚れだった)  陽子の考えていることが分かったのか、忍は陽子の右手を握り直し、昔よくしたように彼女に優しく微笑んだ。 (忍君∙∙∙∙∙∙。やっぱり、あの頃の、自由で屈託のない忍君が好き)  陽子は、吸い寄せられるように、彼の、昔エクボがあった場所を見ながら思った。 「忍君、冬休みどうすんの?」 「今年は実家で論文書いてるよ」 「よかった! ご両親と一緒で。初詣とかも行く?」 「うん。陽子ちゃんは?」 「年末年始は、お店が凄く混むの。あたしも、なるべく出るようにしてるんだけど。暮れは、お母さんにも入ってもらって、あとは臨時のサーバーさん雇って、やっと乗り切ってるって感じ」 「絶景レストランだもんね」 「そう。ほら、うちから富士山見えるでしょ? 三箇日も、初詣の行き帰りの人で、凄い繁盛するし。大晦日はね、二十四時間営業なの。ほら、うちから初日の出が、駿河湾から昇ってくるの見えるから」 「壮大だろうな」 「そうなの。正に壮大なの」 「凄いな。じゃ、クリスマスもお正月もないね。仕事、仕事で」 「うん。でね、六日から西城のご両親と、スキーに行くの。五日の夜に、上野の実家に一泊して、六日にみんなで、蔵王温泉に、電車で行くの。スキーやスノーボードは、宅急便で送って」 「便利だよね、あれ」 「うん。西城君が、お兄さんと二人で飲みたいから。運転したくないんだって。雪の山道危ないし」 「うん。電車で行くのが一番安全だと思うよ」 「西城君のお兄さんって、祥梧さんっていうんだけど、祥吾さんは、物静かで紳士的な感じなの。西城君と全然似てないんだよ。外見も性格も。西城君は、グループの中にいるとお喋りだし。オマエらみんなオレに付いてこいって感じで。二人共かっこいいんだけど。忍君もスキーするの?」 「うん。父さんが長野の出身なんだ」 「なんだー、そうだったの? じゃ、上手?」 「上の下くらいかな。僕んちも、僕が高二くらいまでは、お正月はスキーしてた。でも、聡が小五の時、スキーで手首捻挫しちゃって。大きいピアノの大会の前だったから、母さんが怖がっちゃって。それ以来、家族でスキー旅行には行ってないな。学部の時二,三度、ピアノ研の同期の子達と行ったくらい。陽子ちゃんは?」 「あたしは、藤沢女子のスキー合宿で、年に三日滑ってただけで、転ばない程度だったの。でも、最近は、西城君としょっちゅう滑ってるから、今は普通かな」 「西城さん、スキー好きなんだ?」 「もう、ファナテックなの。祥梧さんも」 「へー。スノーボードもするの?」 「うん。二人共両方する。ある時なんか、祥梧さんと西城君が、ボードでなんか崖みたいなとこから、雪崩みたいなの起こしながら滑ってきて、あたしは百メートルくらい下あたりから見てたんだけど、もう二人共死ぬかと思った」 「よっぽど好きなんだね」 「うん。去年はね、西城君と祥吾さんが、御両親の蔵王温泉の山小屋にスキー友達呼んで、スキー合宿したんだよ」 「じゃ、来たのみんな男ばっかり?」  忍の陽子の腰に置かれた左手に、思わず力が入った。 「そんなことないよ。祥梧さんの会社の同僚とか、西城君の一橋のゼミ友とか、セントアルバンの幼馴染とか。とにかくスキーとかボード好きの人達ばかりで、女の子もいたよ。で、西城君が、毎晩ご飯パパパーっと作って、食後はあたしがピアノ弾いて、カラオケみたいになったり。みんなで、星の下のテラスで、ジャグジーに入ったりして。楽しかったな」  忍は思わず左腕で陽子を抱きしめた。  いつの間にか、二人は固く抱き合ったまま、ジャズのリズムに揺れていた。忍は、顔を陽子の髪にうずめて、彼女の甘い花香を、胸一杯吸い込んだ。陽子は、両手でさも愛おしそうに、忍のセーターの網目模様をなぞっていた。陽子はその日も、左側の腰のくびれに、忍の無いはずの右手を感じていた。そこがだんだんカイロのように暖かくなってきたから。 「結婚する前の年の冬に、祥吾さんと三人で、車で蔵王に行ったの。でも、丁度その頃、北極から寒波が来てて、気温がマイナス二十五度だったの」 「想像もつかないな」 「でしょ? で、蔵王温泉の手前に、大きな湖があるんだけど、その湖の水面から蒸気がもうもうと立ち上がってて」 「あー、水の方が空気よりあったかかったんだ」 「そうなの。もう、巨大な湖の一面から、もうもうと白い煙が立ち昇ってて。きれいだったな。夢の世界にいるみたいだった」  忍は、自分の唇を、陽子のにそっと重ねた。陽子は忍の口づけに応じながら、両手で、忍の胸の辺りのセーターの網目模様をまさぐった。 「お正月のスキー旅行にも、西城さんのお兄さん来るの?」 「うん。西城のお父様とお母様は、いつも二人で仲良く滑ってて。お母様なんて、鹿児島出身なのに凄く速くて、『陽子さん、お先にー』って。あたしなんて、いつも置いてきぼりなの。西城君は、スキー場ではあたしのことなんかすっかり忘れてて」 「僕だったら、スキーしてる時、君のこと待つな」 「忍君だって、もしあたしと七、八年一緒に住んでたら、待たないよ」 「そうかな?」 「そういうもんなんだよ。だから遅くても待っててくれるの、祥梧さんだけなの」 「∙∙∙∙∙∙」 「去年も、あたしだけ、吹雪いてるのにスキーしたくなかったから、山小屋でお留守番してたら、祥梧さんだけ早めに帰ってきて、雪やんだから、今から滑ってきな、って」 「やさしいんだ」 「うん。で、今から一人で滑る気しないけど、温泉に入ってきてもいいですか、って聞いたら、ああ、そういうオプションもあったね、って笑ってた」  忍の唇が、陽子のそれをやさしく開いた。 「その人、独身?」 「祥吾さん? うん」 「なんで結婚しないんだろう?」 「忍君がそれ聞く?」 「その人、陽子ちゃんのこと、好きなのかな」 (あー、忍君もか)  陽子は思った。 (何で、西城君も忍君も、世の中の男の人はみんな、あたしに興味があると決め込むんだろう?) 「好きだと思うよ。でもそれは、あたしが西城君の奥さんだから。あの二人、凄く仲いいの」 「陽子ちゃんは、その人のこと好きなの?」 「うん、好きだよ」  突然、忍の左手が、陽子の腰を自分に強く引き寄せた。 「そりゃ、あたしだって、一応女だから、時折、祥梧さんに魅かれることもあるけど。あたしと祥梧さんの間には何もないよ。あったら、全部壊れちゃうから」  忍は、素早く彼女の髪に自分の鼻をうずめて、その微かな甘い花香を嗅いだ。二人はもう、踊っていなかった。互いの腕の中で、より深く唇を重ね合っていた。 「強いんだ。西城さん達も、きみも。僕だけだ、弱かったのは」 「みんな、大人になっただけだよ」 「僕だけだな、子供のまま成長できないの」 「浮気しちゃったこと言ってんの?」 「うん。それもあるけど、今だって、キミに、無理矢理こんなことさせてる」 「無理矢理って∙∙∙∙∙∙。そんなことないよ。あたしは、忍君に会いたくて会ってる」 「∙∙∙∙∙∙」 「忍君だって、聡君の彼女とは、どうこうならないでしょ?」 「そうだね。キミの言う通りだ」 「忍君∙∙∙∙∙∙。あたしが欲しいのは、西城君と忍君だけだよ」 「うん。ありがとう。凄く嬉しいよ。そんな風に言ってもらえて。陽子ちゃん、僕、もう∙∙∙∙∙∙」  忍は、そっと陽子の腰を自分の前に押し付けた。唇を重ね合っているうちに、陽子も、しっとりと濡れてきた。 「うん。あたしもしたい」 「これ、着たままする?」  忍は、左手でセーターの襟を掴んで言った。  陽子は、ハッと短く息を吸い、さらに強く、忍のセーターにしがみついた。 「いいの?」 「うん。先行ってて。テーブルかたしとくから」 「うん。ありがとう」  陽子は、廊下へのドアに向かって歩き出したが、ふと、途中で止まり、振り返った。 「セーターの他は、全部脱ぐんだよね?」  妙に、うわずった声だった。 「うん。もちろん」  忍は、顔を上げて陽子を見ることなく、片手で手早くテーブルをかたずけながら答えた。  浴室で服を脱ぎながら、陽子は思った。  こんなに色々話せたの、再会して始めて。今日、早めに来てよかった。あたし達って、実はお互いの事、あんまり知らなかったんだな。当然だよね。一年しか、付き合ってなかったんだし。たった一度、女性関係でつまずいただけで、忍君、二十代を丸々無駄にしちゃったのかな? 人生で、一番楽しい時だったろうのに。  シャワーを浴びながら、陽子は、これ、着たままする? と聞いた時の忍を思い出していた。 (忍君、ついこの間まで、収容所のユダヤ人の人みたいだったのに)  陽子は、西城にもアイルランドのセーターを送った、一年前のウィンブルドンでの夜を思い出した。  西城君にアラン島の白地のとっくりセーターをあげた時、西城君、その場で着てくれて、あんまりかっこよかったんで、すぐしたくなちゃったんだ。で、B&Bの部屋に入って、すぐ始めちゃったんだっけ。あの時、西城君、ずっとセーター着たままだった。  陽子は、膨れ上がった陰部を、素早く湯だけで洗った。学生の頃、鼻がよく効く忍は、陽子の陰部に石鹸の香料が残るのを嫌った。陽子ちゃんの匂いだけ嗅ぎたい、と言っていた。  片手で皿を食器洗い機に入れながら、忍は思い出していた。セーターに腕を通していた自分を、食い入るように見つめていた陽子の顔を。自分の胸に寄りかかって、セーターにしがみつきながら、頬を紅潮させていた、陽子の愛らしさを。忍の胸の真ん中あたりが、暖かくなった。  その日も、その後、二人は車で、名古屋駅へと急いだ。 「忍君、そのセーター、凄いよく似合う」 「ホント?」 「うん。カッコイイ」 「ありがとう」  陽子は、右手をそっと忍のセーターの左肩に置いた。  名古屋駅が近づいてきた。 「忍君、あたし、忍君が、クリスマスもお正月も一人なんじゃないかって、それだけが心配」  陽子の声が少し震えた。陽子は、忍のセーターの左腕に愛おしそうに触れた。忍は陽子に余計な心配をかけたくなかった。 「今年は大宮で、論文書いてるよ」 「毎日、ラインくれる?」 「うん。……陽子ちゃん、僕、こんなに幸せなの、キミと別れて以来なんだ。もう不眠症も治ったし。だから心配しないで。今まで、親に迷惑かけっぱなしだったから、僕、この休暇中は親孝行するよ。キミには、西城さんと楽しい年末を過ごしてほしい」 「うん」  車は名古屋駅に着いた。二人は、目前に迫っているであろう別れについては、なかなか口にできなかった。  陽子は忍にカラダを向けて聞いた。 「おでこにする?」 「いいの?」 「うん」  忍は、陽子の首に左手を置き、そっと額に唇で触れた。そのあまりの優しさに、陽子はつい自分の口を、忍のそれに重ねるしかなかった。 「また、会える?」  忍の、あの切羽詰まった懇願だった。 「うん。会える、と思う。西城君から、まだ何も言われてないから」  忍の吐いたため息が震えていた。 「今日は凄く楽しかった。ありがとう」 「こちらこそ」 「気を付けてね」 「うん。またね」  陽子は、いつものように素早く、桜通口へと入って行った。  陽子は、これが、最期ではない、と言っていたが、忍は悲観的だった。  忍は来月から名大に復帰する。 (職場に戻れるということは、元気になった証拠だろ?)  忍は覚えていた。あの息はしていても、カラダは生きていても、心は死んでいる感覚を。八年続いた虚無な人生を。どこまで下に落ちていかなければならないのか、既に分かっているあの感覚を。そこがどれだけ暗い所なのか、もう既に分かっているあの感覚を。永遠に続く眠れない夜を。覚えていた。陽子が恋しくて、あの甘い花のニオイが嗅げなくて、寂しくて気が狂いそうになる、あの夜を。 (また、あの夜が来るんだろうか?)  忍は、陽子が消えていった、桜通口を、しばらく呆然と見つめていた。  この日新幹線で、陽子は夢を見た。 「忍君、あたし、もうシャワーあびないと。お夕飯に間に合わない」  陽子は、忍の自分をがっしりと抱き込んだアイルランドのセーターの両腕を、振りほどこうとした。彼の右腕は切断されていなかった。二人は小平の陽子の下宿で、ピアノの椅子に座っていた。陽子は全裸で、忍は裸にセーターだけをまとっていた。 「ダメ」 「忍君?」 「帰さない」 「忍君!」 「僕は怒ってるんだから!」 「なんで?」 「だって、キミがいつまでたっても、僕にはキミしかいないって、認めてくれないから。いつまでも、いい人見つけて結婚したら、とか、絶対にあり得ないこと言ってるから」 「それは、忍君に、幸せになってもらいたいから」 「分からないのかな? 僕の幸せは、キミなんだって」  いつの間にか、忍のものが、スルッと陽子の中に入ってきた。 「あっ!」  陽子は短く悲鳴を上げた。 「ひどい! もう帰らないと、お夕飯に遅れちゃうのに」 「ダメ。今日の主導権は僕にある。僕は、今日はキミをいじめる」 「ひどい! ついこの間までは、すぐにいっちゃって、あたしにすがって、泣いてたくせに!」 「陽子ちゃん、キミが、そんな、男を傷つけるようなこと言うなんて! 幻滅したよ」 「あたしだって、もう昔のお子様のあたしじゃないんだから! もう大人の女なんだから!」 「僕だって、ちょっと前までは潰されて死にかけてる蚊みたいだったけど、今は違う。射精もコントロールできる」 「だからなんなの? それがそんなに大したことなの?」 「ほしくないの?」 「もう、いらない! 早く抜いて!」  陽子の中が、急に空になった。 「忍君、ひどい! ひどすぎる!」  陽子は泣き始めた。 「アハハ、冗談! 全部冗談だよ。陽子ちゃん、おいで」  そう言って、陽子の腰を右手でやさしく引き寄せた忍は、昔の、懺悔も後悔も絶望も孤独も知らなかった、陽子が彼だけのものだった、あの頃の屈託のない彼だった。  忍は、昔よくしたように、陽子を膝に乗せて、彼女の腰を抱き寄せ、彼女の頭皮のニオイを嗅いだ。アイルランドの緑が陽子を両脇から包んだ。 「一緒にいきたい」 「あたしも」  二人は無心に唇を重ね合った。 (だめだよ。今からしちゃ。もう帰んないと。遅れちゃう!)  そんなことを思いながら、携帯のアラームに陽子は目覚めた。新幹線は、速度を落として静岡駅に入って行くところだった。  忍の、歌い手に特有の凛とした声が、まだ陽子の耳に響いていた。あの朗らかな屈託のない笑い声が。  忍は、かつては、小さな綺麗な手毬がコロコロと転げまわるように、歌うように笑った。さも、楽しそうに。笑う度に、エクボが凹んだ。陽子は、彼と再会して以来、まだ彼が声を出して笑っているのを聞いたことがなかった。  新幹線が速度を落とすにつれ、その振動が、直接、陽子の陰部に伝わってきた。付けておいた生理用のナプキンが、愛液でぐっしょりと重かった。 (今すぐ、いきたい∙∙∙∙∙∙)  陽子は、そんな風に思案している自分の顔を誰にも見られたくなくて、新幹線が停車するまで、顔を伏せて寝ている振りをした。  働き詰めに働いた年末年始が終わり、陽子と西城は、例年通り、蔵王温泉の西城家の山小屋で、スキー休暇を楽しんだ。西城の両親と兄の祥吾も一緒だった。  西城家の山小屋は山小屋と呼ぶには大きすぎる、木造二階建ての邸宅だった。広いバルコニーには、ホットタブが備え付けられていた。寝室が七つ、浴室は三つあり、母の綾子は、二人の息子達に子供ができても、三世帯が家族全員で泊れると、よく嬉しそうに言っていた。  西城は、陽子自身よりも、彼女のことを深く理解している男だった。先日、お茶屋で西城は、暗い雨空と灰色の駿河湾を、放心したように眺めている陽子を見た。西城は、これ以上、陽子と忍を会わせ続けることはできない、と悟った。  蔵王での二日目の夕食後、綾子が、牛乳が切れそうだ、と言った。西城が応じた。 「母さん、オレと陽子で、散歩がてらにコンビニまで行って買ってきますよ。他に何か買ってくる物、ありますか?」  陽子と西城は、ジャケットを着、手袋をはめ、毛糸の帽子を被り、防寒ブーツを履いて、外に出た。  妙な満月の晩だった。月は見えるのに、粉雪がハラハラと降っていた。月の光が、天空から落ちてくる雪を照らしていた。 「ワー、桜が散ってるみたいだね」 「そうだな」  二人は門を出て、コンビニのある大通りを目指して、人通りのない路地を歩きだした。  ピロン。  陽子の携帯が鳴った。陽子は見なかった。 「あいつ?」 「多分」  少し間を置いて、陽子は続けた。 「クリスマスとお正月、一人で名古屋で過ごしてほしくなくて。連絡ちょうだい、って頼んだの。今、大宮のはず」 「見てみろよ」  陽子はポケットから携帯を取り出した。 「明日、名古屋に帰るって。聡君が帰国してたから、家族でまったりしすぎちゃって、今日やっと家族で初詣に行ったんだって」 「弟さん、海外なんか?」 「うん。忍君が退院した頃に、ロンドンに移ったの。今シーズンは、世界中飛び回ってたから、お正月くらいは日本でゆっくりしたかったんじゃない?」  二人は暫く、粉雪の中を黙って歩いた。聞こえるのは、二人のブーツが雪を踏みしめる、柔らかい音だけだった。  西城が口を開いた。 「もう元気になったんだろ?」 「うん……」 「もう、オマエの役目は終わったんだろ?」 「……うん……」 「また、好きになったんか?」 「……」 「いいよな、心の弱い男は。昔の女に執着するあまり、生きていけねーなんて騒ぎ立てやがって。大勢の同情集めて、結局女も、戻って来ざるを得なかった」 「そんなんじゃない」 「じゃ、なんなんだよ?」 「あたしと忍君は、戻ろうと思えば、いつでも友達に戻れる」 「オマエら、友達同士だったことなんてねーだろ?」  「……」 「会った途端に、乳くり合う」 「……」 「オマエら、学生ん時だって、別れたのなんのって言いながら、ダラダラと会ってたじゃねーか」 「……」  暫く二人は何も言わなかった。粉雪が、吹雪のように斜めに降り出した。 「もう会うな」 「……」 「いいな?」 「……でも、まだ、大学に復帰して、どうなるか……」 「いい加減にしろ!」  西城は、陽子に最後まで言わせなかった。  暫しの沈黙の後、西城は言った。 「今、アイツと切れねーんだったら、オレ、静岡帰んねーから」 「え?」 「祥ちゃんとこに移る」 「本気なの?」 「ああ」  陽子は立ち止まって、西城に向き合った。そして、震える声で言った。 「西城君、やめて。それだけは」 「茶園もお茶屋も工場も、全部オマエんだから」 「西城君! そんな! 二人でつくったんだよ!」 「だから、オマエ次第だ」 「……」 「幸い、子供もいない」 「……」 「期間限定の不倫だったから許したんだ。オレといたいんだったら、今すぐ切れ。できないんだったら、アイツと一緒に暮らせ」 「分かった。終わりにする」 「……」 「お願い、あたしから離れないで!」  陽子は西城にすがった。 「一人にしないで!」 「陽子……」  西城はいつものように、彼女を優しく抱きしめた。 (離れられるわけねーだろ?)  心の中で彼女に言った。  薄雲にさえぎられた満月の淡い光の中で、二人はいつまでも唇を重ね合った。そんな二人を、陽子の花香と粉雪が包み込んだ。  陽子は西城に頼んだ。  忍には、別れることは直に会って話したい。もう一度だけ、最後に会わせてほしい。別れても、連絡を取り合うことだけは、許してほしい。  西城は承諾した。  成人式の数日後、陽子は名古屋で六週間ぶりに忍を抱いた。  この日、忍が後ろから入ってきた時、陽子は彼の次第に熱くなっていく両手を、自分の腰に感じた。 (ああ! 最期なんだ……!)  忍には言えなかった。  陽子は泣いていた。  忍は、無我夢中で彼の口を吸う陽子を、一瞬止めて聞いた。 「もう、来れないの?」 「……うん」  忍は、陽子のくびれた腰にしがみついた。  陽子が去る時間が近づいてきた。陽子はいつものように、ぐったりと忍に寄り掛かっていた。 「もう一度だけ、見たい」 「え?」  忍は、素早く陽子を左手で集めてあぐらをかくと、自分のあぐらの上に彼女を置いた。そして、右腿に彼女の頭を横たえ、左手で彼女の敏感な場所を愛撫しだした。  陽子は、両手で忍の右肘を優しく包み、彼を見上げながら、傷口をそっと舐めた。忍は、目を反らすことなく陽子を見降ろしていた。 (忍君、昔はよく笑った)  忍は、かつては小さな綺麗な手毬が、クルクルとコロコロとピアノの鍵盤を転げまわるように、歌うように笑った。音符が楽譜の上を滑るように。さも、楽しそうに。嬉しそうに。笑う度に、エクボが凹んだ。  陽子と再会した頃は、全く笑わなかった。  陽子は右手の指で忍の顎に触れた。 (再会した頃は忍君、やせ細ってて、エクボも凹まなかった。ただ深い長い溝が、両方の頬に縦に刻まれてただけだった。収容所のユダヤ人の人みたいだった。今は少し、笑うようになった。エクボも凹むようになってきた。嬉しい! 忍君が、元に戻っていく)  陽子の両目から、一粒ずつ涙がこぼれ落ちた。 (西城君が言ったように、あたしの役目は終わったんだ……) 「陽子ちゃん……!」  忍の細長い左指が、陽子の場所を刺激し続けた。彼女には、ピアノの鍵盤を走り抜ける、かつての彼の指先が見えるようだった。時には羽毛のようにかすかに、時には軽快に飛ぶように、時には執拗に押し込むように。陽子は忍に見下ろされつつ、喘ぎながら絶頂に達した。  忍は、陽子の中の震えが鎮まるのを待って、彼女をそっとベッドに横たえ、自分の物を挿入した。陽子は快感に短く呻いた。  忍は射精の後、陽子の上に横たわり、彼女の髪に顔をうずめて、ニオイを嗅いだ。そして、昔よくしたように、陽子の四肢に自分のを乗せた。  二人は互いの目を覗き込みながら、まじないを唱えるように歌い出した。   腕は腕   足は足   お腹はお腹   口は口  二人は唇を重ね合わせた。  突然、忍の口が歪み、彼は泣き崩れた。忍は、大きな骨ばった左手で、両目を覆った。嗚咽が止まらなかった。  陽子は忍の頭を抱きかかえながら、何度も囁いた。 「毎日、ラインするから。もう忘れないから。昔みたいに、忘れたりしないから。会えないだけで、思ってるから。また、心が弱くなんないように、見張ってるから。折角元気になったんだから、ちゃんと生きて……」  陽子はこの日以来、忍と会うことはなかった。  忍は年明けに、名大に復帰した。忍が病欠の間、ピーターが滞りなく、院生達の実験を指導していた。学部の同僚達は、暖かく忍を迎えた。今まで、口をきいたこともない同僚が、忍に代わって一、二年の講義を担当してくれることになった。  同僚達は、忍が、もはや病的に痩せていないことに気付いた。プロザックを飲み過ぎて太ったんだろう、と影口を叩く者もいた。  変わったのは、容姿だけではなかった。忍は前よりも落ち着いて見え、愛想もよくなった。院生や同僚達は、忍が、片腕を失ってからの方が朗らかなのは、一体どういうわけなんだと、不思議がった。以前は欠席ばかりしていた、学部の月例の昼食会にも、顔を出すようになり、同僚達を驚かせた。  忍は、以前にも増して、研究に没頭した。仕事中は、あれこれと思い悩まずにいれた。アリゾナ時代に戻ったかのようだった。  一つ異なるのは、陽子の存在だった。二人は毎日ラインを交換するようになった。西城が出張中は、ビデオ通話で話すこともあった。  陽子は聞いた。 「ちゃんと生きてる?」  画面の中の忍は、ただ静かに微笑んだ。  忍は考えた。もし、陽子がニオイのない女だったら、自分は幸せになれていたんだろうか、と。誰か他の女と、一緒に生きていけたんだろうか、と。  結論はいつも同じだった。 (ニオイの他にも、色々あるじゃないか。ほら、笑い声とか歌声とか口笛とか。彼女の自分を見上げる目の、柔らかい光とか)  忍は、自分の左手の平を見下ろした。手が覚えていた。陽子の腰にピッタリとはまる感覚を。彼女のカラダから伝わってくる、暖かさを。忍の目から、一筋の涙が、痩せた頬をつたってこぼれ落ちた。  その年のニ月、陽子は妊娠した。予定日は十月の中旬だった。西城は有頂天だった。  三月の陽子の誕生日に、自宅に陽子宛で、忍から郵便が届いた。  中世のイタリア民謡集だった。二人が学生の頃、一緒に混声でデュエットしようと買い求めたのと同じものだった。しかし、一、二曲を練習した後、二人の関係は泥沼にはまり、企画は崩れた。 「また、始めない?」  忍からのメモが付いていた。  陽子は嬉し涙にくれた。 (忍君がまた音楽をするようになった! ああ、神様、仏様! ありがとうございます!)  二人が別々にレコーディングしたファイルは、忍が編集して混声に仕上げた。互いに触れ合うことを禁じられた今、二人が一緒にできることは音楽だけだった。二人は、歌い、弾き、書き、話した。  陽子は、五月に茶摘みが始まった頃、西城に促されて、羊水検査を受けた。西城は、胎児に重度の障害がある場合は、陽子に中絶させるつもりだった。  新茶摘みが終わって一段落ついたある朝、西城と陽子は、お茶屋へと車で向かっていた。 「オレ、昨日、富士宮の出先から、関本先生に呼び出されて、産婦人科に行ってきた」  関本先生というのは、陽子の産婦人科の医師だった。 「羊水検査の結果出たの?」 「ああ」 「男の子? 女の子?」 「男」 「男の子かー!」  陽子は座席に背をもたせかけた。  西城は暫く何も言わなかった。 「問題が一つある」 「なに? 赤ちゃんに障害でもあるの?」 「いや。父親が違う」 「どういうこと?」 「万が一、そういうこともあるかもしれんと思って、オレのDNDと照合してもらうように、お願いしてたんだ」 「万が一って……?」 「オレの子じゃない」 「……?」 「オレとアイツの他には、心当たりはねーんだろ?」 「アイツって、忍君?」 「ああ」 「ないよ。今まで関係持った人は、西城君と忍君だけだよ」 「じゃ、決定だな」 「忍君の子なの?」 「ああ」  陽子の顔が引きつった。 「でも、でも、避妊してた! あたしたち、いつもゴム使ってた!」 「分かってるよ」 「忍君、神経質なほど気にしてて、どんな時でも必ず付けてた!」 「落ち着けよ。オマエらのこと、疑ってるわけじゃねーよ」 「でも、なんで……?」 「アクシデントってやつだろ。たまにあるだろ、ゴムに穴が開いてたとか」 「おろさないよ。なにがあっても」 「もう手遅れだろ」 「……!」 「それにオレは、オマエのカラダを傷つけるようなことはしたくない」 「いいの? 忍君の子でも」 「ああ。オマエが生む子は、父親が誰でもオレのだ。オレ達が育てる。それに、半分はオマエんだろ?」 「……」 「アイツにはオマエから話しとけよ。片岡に、父権を諦めてもらう書類作らせるから」  西城は、いつものように陽子に爽やかに笑うと、彼女の右手を握った。  西城は、陽子の妊娠を今か今かと待ちうけていた。子供好きの西城は、障害のない男の子を授かったというだけで、嬉しそうだった。西城は、陽子と忍が会うことはもうない、と知っていた。二人目からの子供は、全員自分のだろう。それで十分だった。  その年の、八月も終わりに近いある昼下がり、陽子は本店で店番をしていた。  両親は、東海の猛暑を避けて、北海道で夏休みを送っていた。日本中が混む盆には、両親は本店を閉めて、お茶屋を手伝った。西城と陽子は、盆には繁盛するお茶屋で連日働いた。妊娠七ヶ月の陽子は、もう日中に爆睡することもなく、活力に満ちていた。  大きな腹に片手を置きながら、陽子が、お茶菓子の在庫をチェックしていると、忍から電話が来た。  忍は、夏休みを利用して、引っ越しの真っ最中だった。  忍は、陽子の胎児の父権は諦めた。しかし、自分が死んだ時は、金だけではなく、なにか確かな物をこの子供に残したかった。  そこで、名大に近い閑静な住宅地に、大きな庭付きの新築を買った。聡に選んでもらって、スタインウェイ∙アンド∙サンズのグランドも購入した。  母親には、 「なんであなたが、聡よりいいピアノ持ってんの?」  と、からかわれた。  陽子は忍に電話で聞いた。 「じゃ、名大から動かないんだ?」 「うん。怪我した時、学部の人達に凄いよくしてもらったんだよね。僕が知らなかった人まで、一、二年の講義代わってくれたり。院生の論文も少しみてくれたり」 「そうだったんだ。いいね。同僚の人達が親切で。でも、なんでそんなに、この子の将来が心配なの?」 「もし、この子が、僕のことで、出生のことで、古川の経営に参加できないようなことになったら∙∙∙∙∙」 「忍君が心配することないよ。赤ちゃん、案外、お茶園も不動産もレストランも御免だとか言うかもよ」 「そうだね。そういう場合もあるかもね」  忍が一軒家に引っ越して、いいピアノを買って以来、聡が、来日中はちょくちょくピアノを弾きに来るようになった。家族は新築祝いにと、左手のためのピアノ曲集をプレゼントした。忍はそのピアノ曲集を猛勉強し始めた。  忍は、午前中に論文を書き、プールで泳ぎ、正午前に出勤し、ラボから深夜に帰宅した。週末は、自宅で論文を書き、片手でピアノを弾き、中世のイタリア民謡を宗教的な真面目さで歌った。  二人の赤ん坊は、十月の中旬に誕生した。カラダは細長く、手は異常に大きかった。顔はどちらかといえば、陽子似だった。西城は彼を優木と名付けた。  優木は、機嫌のいい赤ん坊だった。よく食べ、よく寝た。一番好きなことは、ピアノの下で、陽子の歌を聞きながら、眠りに就くことだった。  西城は、顔も、細長い体型も陽子似の優木を、自分の子同様に可愛がった。  西城は、優木の体型は陽子ゆずりだと言ったが、陽子は、優木は、豊永家特有の、細長い長身を受け継いでいるに違いない、と思った。   陽子は、日に何度も、優木の写真を忍と佐和子に送った。出産直後の陽子は、ホルモンのバランスが狂っていたせいか、些細なことに号泣した。  陽子は、優木を抱く度に、これが、佐和子が赤ん坊の忍を抱いた時の感覚だったのか、と思うと、嬉しさに号泣した。自分の右手で、優木の、赤ん坊にしては大きな右手を包み込んだ。途端にまた涙が溢れ出た。授乳する時は、忍とデュエット中のイタリア民謡を歌った。歌いながら、涙が止まらなくなる時もあった。授乳しながら優木の細長い脚を掴んだ。彼の小さな足を手で包んだ。途端にまた、涙が止まらなくなった。傍から見れば、陽子は、なんでもないことに、大泣きしているように見えた。  陽子にとって、優木は、学生時代の忍の象徴だった。あの、後悔も懺悔も絶望も孤独も知らなかった頃の、屈託のない忍の生まれ変わりだった。  出産後、陽子から花香が消えた。西城は、これもホルモンのバランスがおかしくなっているのが原因だろう、とあまり気にしなかった。しかし、二ヶ月が過ぎ、優木は両親を見て、ニコニコと笑うようになり、陽子の大泣きが止んでも、彼女の花香は戻ってこなかった。  ニオイは放たなかったが、陽子はいつも通り、西城の男に感じた。だったらいいじゃないか、と西城は自分に言い聞かせた。 (コイツが選んだのはオレだ。他に何がいる?)  それでも、何かが違った。西城は、そういえば、暫く、陽子の口笛を聞いていないことにも気が付いた。  暮れの迫ったある夜、西城は、名古屋の彼が投資しているホテルで開かれた、不動産関係のパーティーに出席し、最終の新幹線で帰宅した。ベッドに入ると、陽子はまだ起きていた。 「起きてたんか?」 「うん」  陽子が長い四肢をからませてきた。彼女の右手が西城の物を探し当てた。 「疲れてる?」 「したいんか?」  答える代わりに、陽子は西城の右手を、自分の場所に持っていった。  西城は自分と陽子を裸にし、陽子の全身を愛撫し始めた。  西城は、妊娠中の、授乳中の、普段の、陽子のどのカラダも、好きでたまらなかった。西城は、二ヶ月前に優木が出てきた場所を丁寧に舐めた。陽子は快感に喘いだ。 「……西城君」 「あ?」 「……動いていい?」 「ああ。上に乗るか?」 「……うん」  西城は、陽子を優しく引き起こし、自分はベッドに横になった。  陽子は、西城の物に自分を沈めると、目を閉じたまま、腰をゆらしはじめた。西城は陽子の両手首をつかんだ。  優木への母乳で膨れ上がった乳房が、腰の動きに合わせて、ユラユラと揺らいだ。  次第に、両の乳房が、上下に激しく揺れはじめた。 「……やだ、どうしよう……?」 「いってもいいぞ」 「……でも……」 「オレのことは、いいから」  西城が、言い終わるか終わらないかのうちに、陽子は頭をのけぞらせ、低く長いうなり声を上げて達した。両の乳首から、母乳が垂れ流れた。  西城は、自分にしがみ付きながら、眠りに落ちていく陽子からそっと逃れ、浴室へ行き、乾いたバスタオルを取ってきた。ベッドに戻ると、陽子はすでにぐっすり眠っていた。 (今日も、ニオイは、なし、か……)  西城は、母乳が漏れないように、バスタオルで陽子の乳房を包み、彼女に全身を密着させて、眠りに就いた。   年が明けて、西城はEDになった。 「あたしのせい?」  陽子の大きな目が、心配そうに西城を見上げた。 「いや。違う」 「誰か好きな人、できたの?」 「オマエと一緒にするな!」 「……!」 「年末年始、働き過ぎて疲れがたまってるだけだ。成人式の後、優木を連れて温泉にでも行こう」  温泉の効果はなかった。  陽子は西城に、医者に診てもらうように説得した。西城は嫌々ながら、医者に診てもらった。薬をもらったが、飲まずに、ベッドスタンドの引き出しにしまい込んだ。陽子は、西城に、生牡蠣だの、アボカド∙トーストだの、ホウレンソウとアスパラガスのサラダだの、ニンニク入りのパスタだのを食べさせたが、効果はなかった。  セックスはできてもできなくても、優木は育っていくし、お茶屋に客は入るし、茶木の世話は怠れないし、商談は待ってはくれなかった。西城と陽子の生活は、表向きは平穏に見えた。  三月の陽子の誕生日には、陽子の両親を招いて、自宅で夕食を食べた。  その夜、西城は、初めて医者からもらった薬を試してみた。彼女の誕生日くらいは、陽子とカラダを重ねたかった。  陽子は優木に授乳し終え、部屋の隅のベビーベッドに、彼を横たえたところだった。  陽子は、寝室に入ってきた西城を一目見て、彼の意図を察し、下着を取り外し始めた。二人は同時にベッドにたどり着き、互いのカラダにしがみ付いた。久々に、西城の物が、パンパンに硬くそそり立っていた。  陽子の、しばらくほおっておかれたカラダが開かれるのに、大して時間はかからなかった。陽子は、あえぎながら、西城の首筋に優しくかみついた。そして、彼の太腿に、潤った陰部をこすりつけた。西城は、彼女を前から激しく突き始めた。  西城は、陽子の陶酔しきった顔を見ながら、彼女の花香を、今か今かと待ち受けてた。 「……やだ、凄くいい……!」  陽子は、両手で西城の肩につかまりながら、さらにに高まっていった。陽子は、うわ言のように、彼の名を呼びだした。彼女が達するのは時間の問題だった。 「今日も、ニオイは、なし、か」  西城は、判断した。急に彼の物が萎えた。もはや、これ以上続けることはできなくなった。  西城は、陽子から、ソロソロと自分を引き離した。 「いや! いや‼ なんで?」  陽子は、西城の肩にすがりついた。自分に何が起きているのか、分かっていなかった。 「……すまない……」 「……なんで?」 「……」 「気持ちよかったのに……!」  陽子はすすり泣き始めた。 「知らなかった! そんなにまで嫌われてたなんて……!」  陽子はシクシクと泣いた。 「嫌いじゃねーよ。ホラ、口でいかせてやっから……」 「いい! そんなの!」  滅多に怒らない陽子が、全身を震わせて泣いていた。 「忍君と不倫したこと、まだ怒ってんでしょ?」 「怒ってねーよ」 「優ちゃんを産んだことも、許してくれないんだ?」 「優木のこと、オレがどう思ってるかは、オマエもよく知ってるはずだ」 「じゃ、なんで?」 「怒ってんのは、オマエだろ?」 「え?」 「オレが、アイツと会わせねーから、怒ってんだろ?」 「怒ってないよ。ってか、怒る資格なんてないよ」 「じゃ、なんでニオイがねーんだよ?」 「ニオイ?」 「ああ。オマエのセックスのニオイ」 「あの、西城君にしか嗅げないやつ?」 「ああ。オマエから消えた。オレに抗議してっからだろ? 調子狂って、できねーんだよ。オマエのニオイがねーと」 「そんな! ニオイ、ニオイって! あたしが嗅げないニオイのこと言われたって!」 「だからオマエのせいじゃねーよ。オレの問題だ」  西城は、ハーっと、長いため息をついた。 「ニオイがなくちゃ、できないの?」 「……」 「じゃ、あたしとじゃ、もうできないの? あたし達、もう、終わりなの?」 「……」 「そんなの、いや!」  陽子は、全裸で泣きじゃくった。  大昔、一度だけ、西城は、陽子がこんな風に激しく泣いているのを見たことがあった。国分寺の駅でだった。忍への、諦めきれない思いに押しつぶされそうになりながら、全身を震わせて号泣していた。 (今は、オレとのことで泣いてんのか)  西城は漫然と思った。 「オレは、オマエがいい。できても、できなくても、オマエといたい。オレにはオマエしかいない」  西城は呟いた。 「あたしは、西城君から離れないよ。何があっても。どんなに忍君が恋しくても」  涙をぬぐいながら、自分に言い聞かせるように、陽子は言った。  突然、陽子の全身から、花香が舞い立った。裸の陽子を取り囲む空気が、あまりのニオイの濃さに、ドヨっと動いた。蜻蛉のようだった。  むせかえるような花香の中で、西城は、久々に、朝まで陽子を突いた。  茶摘みを控えた四月の下旬、西城は、東京から最終の新幹線で帰宅した。  西城は、数年前から、片岡とコンビで、土地開発に乗り出していた。彼らが最近手がけた企画は、名古屋駅前のホテル建設への出資だった。この企画で、二人はかなりの利益を得た。  現在二人が手掛けている大きな企画は、台東区の、西城の実家からほど遠くない所で倒産したスイミングプールの跡地を買い上げ、そこにマンションを建設し分譲するというものだった。  この日、西城と片岡は東京で、資本家達と、契約書に署名をし、この企画実現への第一歩を踏み出した。  西城は資本家達との夕食、懇談の後、東京に一泊し、翌朝静岡に帰る予定だった。しかし、予定を変更し、最終の新幹線で帰宅した。今夜はこの商談の成功を、陽子と共に分かち合いたかった。  家は真っ暗で、陽子はもう休んでいるようだった。西城は二階への階段を駆け上り、寝室の前で立ち止まった。中からピアノの音が聞こえてきた。バッハのピアノによる「羊は安らかに草を食み」だった。 (まだ、起きてたのか)  西城は、軽くノックをし、ただいま、と言いながら、ドアを開けた。  陽子は大工の母方の祖父が、結婚祝いにくれた、彼、自作のドレッサーの前に座っていたが、突然の西城の帰宅に、びっくりして振り向いた。泣いていたのか、目と頬が涙で濡れていた。 「西城君! 東京に泊まるんじゃなかったの?」 「そのつもりだったんだが、気が変わった」  陽子は、手早く携帯からの音楽を止め、手の甲で涙を払い、ドレッサーから立ち上がると、にっこりと微笑みながら、西城に歩み寄った。 「一時間くらい前にライン送ったんだけど、返信なかったから、まだ飲んでんのかと思った」  陽子は長い腕を、いつものように西城の首に巻き付けた。 「で、どうだったの?」 「投資、受けられることになった。片岡と署名してきた」 「おめでとう!」 「オマエに直に知らせたかった」 「それでわざわざ帰ってきたの? 疲れてんのに」  西城は何も言わず、陽子を自分の広い胸に抱き寄せた。 「じゃ、お祝いセックスしようか?」 「いいか?」 「うん。シャワー浴びてきなよ。ベッドに入ってるから」  陽子は、西城の耳にささやいた。  二人は、急がなかった。ベッドで互いの口を、ゆっくりと吸い合ううちに、陽子の花香が寝室に満ちてきた。二人は、同じ部屋で寝ている優木を起こさないように、声を押し殺しながら、互いを高めていった。  営みの後、二人は手を握り合いながら、向き合って横になった。  陽子が言った。 「また忙しくなるね」 「ああ。すまねーな、優木が生まれたばっかだってーのに」 「仕方ないよ。お母さんに、優ちゃんみてもらって、あたしもランチくらいはお茶屋に出るから」  陽子の母は、去年小学校を退職した。陽子の父も、あと二、三年で、本店を閉める予定だった。陽子の両親にとって、孫の世話をすることは、老後の生きがいだった。  西城は聞いた。 「なんで泣いてた?」 「ピアノ聞いてて……」 「オマエが歌ってた曲だったな。津田の文化祭で」 「うん」  それは、陽子が四年時の、津田塾の文化祭だった。西城は、秋の夕暮れ時の津田の中庭で、ステージに立つ陽子を見ていた。ふと、ハーツホン∙ホールの石段の上から、背の高い男が、食い入るように陽子を見ているのに気が付いた。忍だった。あれは、陽子と忍が別れてから、一年後だった。陽子は、忍があの場にいたことは知らなかった。その学祭の後ほどなくして、西城と陽子は付き合いだした。 「アイツが弾いてんのか?」 「……」 「片手でどうやって弾けるんだ?」 「……左手で両方のパート別々に弾いて、録音して、編集したんだって」 「どうしてんだ、アイツ?」 「相変わらずだよ。研究、研究って」 「まだ、オマエ一筋なんか」 「……」 「まだ、死にたいとか、言ってんのか?」 「もう、言ってないよ」  暫くして、陽子は続けた。 「忍君、最近、名大の近くに、大きな家買ったの。で、プロでも買えないような高いグランド買って、毎日、ピアノ弾いてる。なんで、あなたが、聡のよりいいピアノ持ってんの、ってお母様に笑われたって」 「随分な、変わりようじゃねーか」 「うん。父権がないのは分かってんだけど、それでも、自分が死んだら、優ちゃんに何か確かな物残したい、って。お金だけじゃなくて」  西城は聞いた。 「オマエ、なんで、アイツのこと許せたんか?」 「それは、あたしが西城君と幸せだったからだよ」  西城は、陽子が続けるのを待った。 「でも忍君は、まだ自分のこと赦してない。腕を失くしたのも、罰の一部だと思ってる」 「オレにゃ、理解できねー心理だな」  西城は、忍が腕を失ったのは自分のせいだと認めていた。しかし、彼の中で、償いは、もうとっくに完了していた。陽子との不倫を、半年も黙認した。それで、十分なはずだった。今後、また忍が、漆にかぶれようと自殺しようと、自分には無関係だと確信していた。  陽子は、西城の、髭がまばらに生えた力強い顎に、そっと触れて言った。 「ホント、正反対だよね。西城君と忍君って」  二人の周りに、陽子の花香の残り香が、微かに漂っていた。  陽子の両眼から涙がポロリと転げ落ちた。 「会いたいんだろ?」  陽子は答えなかった。  西城は、彼女を優しく胸に抱き寄せた。もはや嫉妬も怒りも不安も感じなかった。  思わず、口に出てしまった。 「会ってもいいぞ」 「え?」 「一年に一度、一泊だけだ。音楽しようが、セックスしようが、何をしてもオマエらの自由だが、避妊はしろよ」 「本気なの?」 「ああ。アイツがいても、オレたちが壊れるこたーねーだろ」 「うん」  陽子は、両手で顔を覆って、泣き出した。  西城は、陽子を胸にかき寄せた。陽子は、大きなため息をつくと、母猫の腹に寄り添って眠る子猫のように、西城の胸に丸くなった。 「なんか、七夕みたいだね」 「また、バカなこと言ってんじゃねーよ」 「ありがとう」  西城はただ、指で陽子の頬から涙をぬぐい、彼女が眠りに落ちるまで、優しく彼女の髪を撫で続けた。  陽子は、電話で忍に、西城の意向を伝えた。忍は電話の向こうで泣いていた。  初茶摘みが一段落した五月下旬の朝、忍と陽子は再会した。優木をスナグリに入れて前に抱いた陽子は、快晴の名古屋駅に降り立った。おしめや離乳食の入った大きなズック製のカバンを肩に下げていた。  既に陽子が郵送していたカーシートを取り付けた車で、忍が待っていた。 「忍君、お久しぶり!」 「陽子ちゃん!」  桜通口前の雑踏で、二人は感傷に浸っている暇はなかった。二人は、素早く優木をスナグリからカーシートに移すと、忍の新居に向かった。 「これ? 新車って」 「うん。どう思う?」 「高そう」 「そうでもないよ」  忍の新居は、ガレージ付き二階建ての新築だった。二階に浴室が一つと寝室が三つあった。階下にオープンキッチン、居間、浴室、そしてオフィスがあった。かなり広い庭は、よく手入れが行き届いていた。庭仕事が趣味の忍の両親が、たまの週末に泊まりで来て、庭の手入れをした。裏庭もかなり広かった。裏庭の一角に、陽子が新築祝いに送った茶の木が、東海の春風にそよそよとなびいていた。  グランドピアノのある、日当たりのいい応接間で、陽子はスナグリを外して、忍の左腕に優木を乗せた。二人はソファに座っていた。優木はニコニコと笑いながら、クーっと鳴いて、忍に両手を伸ばした。  忍は、優木の額にキスをし、優木君、こんにちは、と言った。 「可愛いね」 「うん」 「キミに似てる」 「カラダつきは、忍君似だよ。細長くて。あと手が異常に大きい。ほら」  陽子は優木の手を見せた。 「泣かないんだね」 「あたしと忍君の子が、ギャーギャー泣くわけないじゃん」 「じゃ、メソメソ泣くのかな?」 「そういえば、そうだな」 「なんか冗談事じゃないね」 「うん。今んとこはね、オッパイ沢山飲んで、離乳食食べて寝るだけ。だから楽だよ」 「毎日の子育てに、参加できなくてゴメン」 「それは、仕方ないよ」  忍は深く、優木のニオイを吸い込んだ。 「いいニオイ。赤ちゃんのニオイ……」 (本当に、なんて可愛いんだろう!) 「ピアノさせる?」 「うん。もちろん」  陽子は、片方の乳房をあらわにして、優木に授乳し始めた。乳房は母乳で膨れ上がっていた。 「出産して、胸、醜くなっちゃったの」  それは、忍が知っていた陽子の乳首ではなかった。以前の陽子の乳首は、ピンク色で突き出てはいなかった。今の乳首は、大きく黒く突き出ており、乳首の周囲は赤茶色だった。 (赤ちゃんが咥えるのに、丁度いいサイズなんだ)  忍は思った。 「きれいだよ」  忍はそう言って、陽子と優木に寄り添い、彼女の頭皮のニオイを嗅ぎながら、母乳を吸う優木を見ていた。忍は時折、大きな左手で、優木の頭をすっぽりと包み込んだ。  二人は優木が眠っている間に抱き合った。優木が起きている間は、二人は優木を抱きながら、ピアノを弾き、歌った。  忍は夕食にピザを注文した。サラダは忍が作った。食後、忍が食器を食器洗い機に入れている間に、陽子は、ソファに座って授乳し始めた。  忍は、陽子と優木を見ながら、ピアノを弾き始めた。「That Kid in Fourth Grade Who Really Liked the Denver Broncos」だった。陽子がピアノに合わせてハミングしだした。  窓の外は、すでに暗かった。ピアノランプと、陽子が座っているソファの横の、サイドテーブルの上にともったテーブルランプの柔らかい光が、居間を照らしていた。陽子は優木の目を見ながら、ハミングしていた。  次第に、陽子のハミングが途切れるようになった。忍はピアノを弾きながら、ずっと見ていた。陽子と優木の目が、ゆっくりと閉じられ、二人が同時に眠りに落ちていくさまを。  翌朝遅く、三人は忍の家を後にした。三人はあと数時間、一緒にいれた。忍は車で南下した。 「どこ行くの?」  陽子が眠そうに聞いた。 「海」  忍は、陽子と海が見たかった。  陽子は、それ以上口をきくことなく、車が高速に乗る頃には眠りに落ちていた。  東海市をすぎた辺りで目を覚ました陽子が、慣れた様子で、忍に指示を出した。 「忍君、次のサービスで休憩できる? 優ちゃん、お腹空いてきたみたい」 「うん。いいよ」  忍はサービスの駐車場に車を停め、軽食と飲み物を買いに行った。陽子は車で自分はクラムチャウダーを食べながら、優木にはクーラーに入れて持ってきた、ニンジンや鳥のささ身をすりつぶした離乳食を与えた。昼が近くなるにつれて、車に差し込んでくる五月の日差しが強くなってきた。  忍は、缶のミルクティーをすすりながら、助手席で食事を採る二人を黙って見ていた。  休憩の後、忍は知多半島の伊勢湾沿いを南下した。忍は小野浦海水浴場の駐車場に車を停めた。陽子は、車のトランクで優木のおしめを取り換えた。  三人は駐車場を出て、浜辺へ向かって歩きだした。  優木をスナグリに入れて前に抱いた忍は、駐車場脇の売店のソフトアイスの看板を見ていた。 「ねぇ、アイス食べない?」 「あー、いいね」 「何味がいい?」 「なんでもいいよ」  二人はラズベリーとブルーベリー味のソフトアイスを一つずつ買った。  陽子は白い砂浜に座って授乳しだした。忍は優木の頭側に座り、陽子の口元に、アイスを持っていって食べさせた。 「どっちが好き?」  忍は聞いた。 「んー、どっちも美味しいけど、強いて言えばラズベリーかな。忍君は?」 「んー、甲乙つけがたい」  陽子の口元にアイスが付いた。忍が舌で舐めてきれいにした。そのまま忍は、陽子の冷たく濡れた唇の食感を味わった。思わず深く感じてしまい、屋外にいることも忘れて、彼女の口を吸い始めた。 「忍君、優ちゃんみたい……」 「優ちゃんも気持ちいいのかな? オッパイ飲んでる時」 「気持ちいいより、美味しいんじゃない?」 「僕は両方」 「やだ、忍君! 何言ってんの?」  陽子が自分を見て笑っていた。はるか昔に、よくしたように。  アイスを食べ終えると、二人はサラサラの白い砂を盛り、二人の間に、小さな小山を作った。二人の指の間から砂がサラサラと漏れた。 春の潮風が、肌に心地よかった。忍は海のニオイを胸一杯吸った。砂浜に、人影はまばらだった。時折カモメが叫ぶように泣いた。波が砂浜に打ちつけた。いつの間にか、二人の手は、砂の小山の上で一つに重なり合っていた。陽子は忍の細長い指をつまんで弄んでいた。昔からの、彼女の癖だった。  話したい事、聞きたい事は山ほどあったはずなのに、二人は、ただ黙って、地平線にフワフワと浮かぶ白雲を見ながら、波の音に耳を傾けていた。  ついに陽子が言った。 「忍君、大丈夫だよね?」 「多分」 「多分って……! 誰か、好きな人ができたら、あたしと優ちゃんに遠慮することとか、ないんだからね」 「それは、ないな」 「忍君……」  反論を試みようと、口を開けかけた陽子をさえぎって、忍は言った。 「ねぇ、アレ歌わない?」 「アレって……?」 「ヴィヴァルディの」 「ああ」 「キミと歌った、湘南海岸で」 「そうだったね」  忍がアレ、というのは、ヴィヴァルディの「Nulla in Mundo Pax Sincera 」の最初のアリアだった。 「あたし、歌詞覚えてない」 「待って、今、出すから」  忍は左手で、器用に携帯から歌詞付きの楽譜を出した。 「僕、ベース歌うから」 「大丈夫?」 「多分」 「じゃ、こんなテンポでいい?」  陽子は、忍の左手の甲を人差し指で軽く叩いた。 「うん」 「じゃ、ワン、ツー、スリー!」 Nulla in mundo pax sincera sine felle; pura et vera, dulcis Jesu, est in te. Inter poenas et tormenta vivit anima contenta casti amoris sola spe.  二人は小さめの声で歌った。二人の間で寝ていた優木を起こさないように。  歌い終わり、二人は唇を重ね合いながら、学生の頃のように、とりとめもなく早口で話し出した。 「忍君、凄い! キレイ! 上手!」 「ありがとう。声変わった?」 「え? そうかな?」 「前より甘い」 「ホント?」 「うん」  忍は、左手で陽子の頭をやさしく引き寄せ、鼻を彼女の髪にうずめて、その仄かな甘い花香を嗅いだ。  二人は、再び静かに唇を重ね合わせ始めた。遠い昔にしたように。優木が、いつの間にか、パッチリと目を開けて、砂浜に打ち寄せる波の音に、耳を傾けているのにも気づかずに。 完
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