静岡

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静岡

 古川陽子は、地元の静岡市で、両親の経営する茶園を手伝いながら、いつか粋なお茶カフェを開くことを夢に見ていた。  実家の片隅には、茶の加工工場と父が加工した茶を売る店舗があり、陽子は、店番や配達や茶木の世話をしていない時は、着物の着付けや声楽やピアノを習いながら、音楽療法士として、市内のとある総合病院で、週一でボランティアをしていた。  ひと月前、陽子が東京の津田塾を卒業し、静岡に戻ってきたや否や、その病院の看護師長から電話があった。秋山看護師長の娘は、陽子の藤沢女子中高時代からの旧友だった。看護師長は、入院中や通院中の子供のために、ミュージック∙セラピストを探していた。 「陽子ちゃんが戻って来たって聞いたから。やってくれるかしら?」 (面白そう!)  陽子は承諾した。丁度やりがいのあるボランティアを探していたところだった。陽子は、ネットで様々なミュージック∙セラピーの現場の模様を、ノートを取りながら自習した。  その数日後、幼稚園から高三まで通っていた及川音楽教室からも電話が来た。 「もしもーし!」 「銀ちゃん!」  電話は、陽子の少女時代の音楽の恩師、及川美智子の甥で、声楽科の及川銀一郎からだった。東京の国立音大で、講師として教えていたが、この四月から地元の静岡大の教育学部で、准教授として赴任した。一人っ子の陽子にとっては、幼い頃から兄のような存在だった。 「どうしてる?」 「元気ですよ」 「火曜の朝十時から十二時半まで、三コマ。三歳から五歳まで。できる?」 「え? 何がですか?」 「歌とお遊戯と音楽全般。教えられる?」 「いいですけど……」 「ちゃんと、払うから」 「あの、お茶摘みの期間はできませんよ」 「しゃーないな。じゃ、その間はオレがやる。決まりね?」 「まぁ、銀ちゃんに頼まれちゃ、引き受けるしかないでしょ」 「That’s my girl!」  学友達のようにしっかりと企業に就職したわけでもなく、家業を手伝っているだけなのに何かと忙しかった。 (貧乏暇なし!)  陽子は思った。  その日の午後は病院で二時間、ボランティアをする日だった。陽子は古川茶園のロゴが入ったミニバンを駐車場に停め、病院の正面玄関に急いだ。打楽器が入った大きなバックパックを背負い、ギターケースを持って、駐車場を横切ってパタパタと走った。  陽子は長身で手足がヒョロッと長く、表情豊かな大きな目は、いつも微笑んでいるように見えた。ウェーブがかった髪はノーバングで、広い額は陶器のように滑らかだった。  陽子は受付で、秋山看護師長からのメモを受けとり、指定された病室へ向かった。一人の子供を相手にすることもあれば、数人のグループを相手にすることもあった。子供の症状も様々だった。ガンや心臓の手術をまじかに控えている子、事故で手足が不自由になった子、ひどい火傷を負った子、多動性障害や自閉症スペクトラム障害と診断された子、脳震盪の後遺症を持った子などだった。  陽子は子供によって楽器を変えた。音楽も変えた。携帯に入れておいた曲を使うこともあった。陽子のバックパックには、様々な打楽器が入っていた。タンバリン、カスタネット、ドラム、マラカス、鈴、トライアングルなどだった。陽子は数人の子供達と、打楽器で遊ぶこともあれば、ギターで一人の子供と静かにデュエットすることもあった。カラダの自由が利く子供達のグループとは、陽子が弾き語りをしながら、ゲームや遊戯をすることが多かった。日本の童謡もよく歌った。「ずいずいずっころばし」は打楽器に合って、子供達にも人気だった。  その日は日当たりのいい広い「子供室」に、五歳から十歳くらいまでの、カラダの自由が利く子供が七人ほどいたので、陽子は子供達に好きな打楽器を選ばせ、彼らを一列に並ばせ、自分を先頭にギターを弾きながら、子供達と「カサノバ!」と歌いながら、カサノバのリズムに合わせて行進した。子供達がそろって「カサノバ!」と声を上げるさまが可愛いかった。 陽子のミュージック∙セラピーは評判も良く、彼女もやりがいを感じていた。陽子は看護師長づてに聞いた。 「多動性障害を持つ子が、陽子さんのセッションでは集中できるらしい」 「自閉症スペクトラム障害を持ち、今まで一言も口をきいたことのなかった子供が、陽子さんと歌った歌を口ずさむようになった」 「手術を終えた子供が、また陽子さんと歌いたいと言っている」  陽子はボランティアを終え、受付に挨拶をして病院を出た。 (やっぱりいいな、音楽って!)  陽子は口笛を吹きながら、ミニバンに向かった。  陽子は、恋人の西城圭悟と同棲していた。西城はこの春、一橋の院を卒業し、吉住銀行に就職した。実家が東京の上野にある西城は、やはり吉住に勤める父親のコネを使って、静岡支店に赴任した。陽子のそばにいるために。先月から、陽子の実家の近くにマンションを借りて住んでいた。陽子は、当初は実家から西城のマンションに通うつもりだったが、結局は反対になってしまった。二人はまだ付き合い始めて四ヶ月目で、互いに一時でも離れていたくなかった。今月は、西城は毎日東京の本社に新幹線で通い、新入社員研修を受けていた。  その晩は、陽子と西城は実家で夕飯を食べることになっていた。陽子は母にラインをした。 「何か、買い忘れたものがあれば言ってね」  小学校教員をしている母の敦子は、すでに帰宅し夕食を作っていた。 「全部あるから。早く帰っておいで」  ラインが返ってきた。陽子は帰路を急いだ。  家に着くと、敦子は台所でポテトサラダを作っていた。敦子も陽子のように、子供好きで笑顔の絶えない女だった。 「陽子ちゃん、コンソメ入れた方がいいかな?」 「えー、ポテトサラダに?」 「うん。お父さんの五十歳のお誕生日に作ったポテトサラダには入れたよね」 「あー、あれ美味しかったね」 「そーだ、写真撮ってたんだ」  陽子と敦子は、携帯でポテトサラダの写真を探すつもりが、つい父、大介の誕生パーティーを撮った一連の写真をネタに、思い出話に花を咲かせ始めた。  そこへ、西城が帰ってきた。 「ただいま帰りました」 「西城君、お帰り!」  陽子と敦子が携帯から顔を上げた。二人の目が笑って彼を見ていた。西城は、作りかけのポテトサラダのボールにチラっと目をやった。 (またか……)  西城は、敦子の無秩序には慣れてきた。 「何見てんですか?」 「お父さんの五十歳のお誕生日の写真」 「なんで、見てんだっけ?」 「ポテトサラダの写真探してたんだよ」 「そーだった!」 「お義母さん、ここは僕にやらせて下さい。それより、お義父さん、呼んできてくれませんか? もうとっくに閉店してる時間でしょ? 今、手洗ってきます。陽子、お皿出して」  陽子は両親に西城を紹介した時、自慢した。 「時間とお金と人と物を管理する天才なんだよ」  西城が来ると急に人や物が動き出した。西城は、柔道で鍛えあげられたカラダに、さり気なく高級なスーツをまとっていた。堂々とした風格の男で、顔つきも精悍だったが、笑うと口元が大きくほころんだ。  西城は、オーブンから、もう調理済みの豚肉の生姜焼きを取り出した。 (焼き過ぎ)  手早くトマトとレタスでサラダを作り、皿には豚肉とポテトサラダとごはんを盛った。  丁度そこへ、陽子の両親が入ってきた。 「遅くなって、すまないね。菊池君から電話があって、彼のお茶畑の排水管が、なんか詰まっちゃてるみたいなんだよね」 「明日、見に行くの?」 「ああ」  古川大介は長身で物静かで、農業に従事しているといより、学者のような印象を人に与えた。創業百八十年の、老舗の茶園の六代目として、何不自由なく生まれ育った。  日本の緑茶の消費量は1975年にピークに達した。陽子の両親の世代は、高度経済成長期に幼年時を、バブル経済期に青年時代を過ごした。誰が何をやっても、笑いが止まらないほど儲かった。日本中が金と希望に溢れていた。誰もが小金のある生活に慣れていた。 大介は商売上手な先代に、茶園を継ぐまでは好きなことをしていいと言われ、大学では有機化学を専攻しながら教員免許を取り、高校で化学を教えた。陽子の母敦子とは、教員時代に出会った。敦子は、静岡市の工務店経営者の娘だった。父親も祖父も大工だった。彼女は、地元の藤沢女子高を卒業し、両親のたっての希望で静岡大の教育学部に進み、小学校の教員になった。  バブルが崩壊した後も、敦子は優雅なライフスタイルを変えなかった。歌舞伎、能楽、オペラの大ファンで、週末はよく学生時代の友達と、東京や大阪で外食と観劇を楽しんだ。  大介は、茶園の経営が、ここ十数年あまり芳しくないのは分かっていた。しかし、腰が重いのか、何の対策も立てていなかった。 (もうちょっと、時代に上手く対応してくれよ)  西城は思った。  陽子は、そんな昭和期の遺物のような両親の一粒種だった。クラシック音楽が好きで、藤沢女子中高では合唱に打ち込んだ。西城とは津田塾時代にバイト先で出会った。  陽子は明るい性格で、口数が多いわけではなかったが、彼女がいるだけで周りの人間は明るくなった。機嫌がいい時は、よく口笛を吹いた。日々ジョギングや水泳で鍛えているカラダは、しなやかさと力強さに溢れていた。父親に似て、女の割には長身だった。母親と同様に、笑顔で人を魅了した。  四人は台所続きの居間で食卓についた。西城が切り出した。 「今日は、提案したいことがあるんです」 「今日も、でしょ?」 敦子が微笑んだ。 陽子は言った。 「西城君、それ、なんか、うちらが緊張しちゃうような内容だったら、食後にしない? 食事は美味しく楽しく、よく噛んで食べないと」 (緊張するようなことじゃねーと思うんだが……) 西城は思った。  敦子は言った。 「あたし、今聞きたいわ。今日は金曜だし、食後はお父さんと映画観たいし」 「お義母さん、毎週金曜の夜は、家族会議だって言ったでしょう?」 「映画は会議の後でいいから」  大介はすかさず応じた。  西城は仕事が速かった。残業は持ち帰らなかった。去年は一橋で修論を書きながら、不動産鑑定士になるための実務修習を受けた。全ての試験を終え、やっと先月、不動産鑑定士となった。今は空いている時間の全てを使って、茶園とお茶屋経営に関する資料を分析していた。陽子の夢をかなえてやりたかった。  西城は、会議は食後に始めることにした。食後に四人は食卓をかたずけ、またテーブルに就いた。 「あのですね……」  西城が始めた。 「あら、お茶は?」  敦子が席を立ちかけた。 「お義母さん、もう準備できてます。今、お湯が冷めるの、待ってるとこです」 「あら、相変わらず早いのね」 「今日のお茶請けは、バナナパウンドケーキです。東京駅で買ってきました」 「どこの?」 「浜田」 「えー、あれ、有名だよね。ありがとう。食べてみたかったんだ! 今、出していい?」 「どうぞ」 (あー、もう、この母娘! 少しは集中しろよ)  西城は思った。  食卓に緑茶とケーキが並び、西城は再び話始めた。 「おれ、抹茶やりたいです」 (これは、大きく出たね)  大介が微笑んだ。 「苗から育てます。有機で。で、海外市場ねらいます。海外といっても、主にドイツとかスカンジナビアとかで。あの辺は健康志向なんで、有機じゃなきゃ売れないと思います。今、抹茶ブームで、いくら高くても飛ぶように売れてるらしいです」 「じゃ、あたしの未来のお茶屋で出すのも、自家製?」 「ああ、自家製の最高級の抹茶」 「でも、西城君、デザートに使う抹茶は最高級じゃなくても」 「最高級の使って、高く売ればいいんじゃないですか?」 「でも他の所のデザートよりかなり高かったら、お客さん来るかな?」 「要は美味しけりゃいいんですよね? オレ、以前どっかのカフェで、スイスチョコレートを温めた牛乳に溶かしたココア飲んだんですけど、それ以来、市販の普通の粉のココアが飲めなくなりました」 「そんなに美味しかったんだ」  西城は、それは、高校時代に付き合っていた彼女が作ってくれた、とは言わなかった。 「今度、オマエにも作ってやるからな」  陽子に爽やかに笑いながら言った。 「オレたちは、コンビニやファーストフード∙レストランで食事を済ますような客層を相手に商売するんじゃありません。オレ達の客は、山のてっぺんにわざわざ車で行って、絶景を楽しみながらお茶や食事をしたいんです。つまり、しっかり金のとれる客なんです」 「圭悟君、苗からって、何年かかるか知ってる?」 「五、六年ですよね」 「うん。長期戦だよ」 「分かってます」 「うちのやぶきたでやんない?」 「オレ、西尾や宇治に負けないくらい、美味い抹茶を作りたいんです。で、ヨーロッパ市場を独占したい」 「じゃ、品種は?」 「さみどり、あさひ、せいめい、ごこう。その辺り考えてます」  大介が茶の木を苗から育てたのは、もうかれこれ三十年も前だった。しかし、その時は、まだ生きていた父親が助けてくれた。手取り足取り教えてくれた。 (あー、面倒なことになった!)  内心そう思った。 「でも、どこでするの?」  敦子が聞いた。 「山間部に畑買ってしたいです。有機なんで農薬使えないし。多少でも、気温が低い所探してます。放棄畑でもいい」 「資金は? お金はどうすんの? うちにはないよね?」  陽子は不安そうに言った。  陽子と両親は、古川が所有するお茶山の頂上に、お茶屋カフェを建てる予定だった。大介はそのために資金を集めていた。お茶屋を建てるくらいの借金は、古川茶園でできた。しかし、その上、抹茶用の茶木の栽培と抹茶の製造を始めるとなると、金が足りなかった。  しかも西城は、抹茶用の茶畑を購入したいという。  大介は思った。 (まさか、碾茶を挽いて、抹茶を製造する加工工場まで建てたい、などと言い出すのではないか? この話題が出たのが食後でよかった) 「金ならあります。先日鹿児島の祖父と話したんですけど、企画があるけど金がない、って言ったら、金は出せないけど、山をやる、って。なんでもバブルの前に投資用に買っておいたのが、そのまま手つかずなんだそうです。で、それを担保に金を借りろ、って言われました。兄と共同名義なんですけど、兄は、彼の分もオレに使わせてくれるそうです。あと二年はカリフォルニアなんで、今金は必要ないんだそうです」  西城の両親はキャリア志向で、子育てにまでは手が回らなかった。西城と兄の祥梧は、鹿児島の母方の祖父母に育てられた。現在祥梧は、カルテックの工学部で、ポスドク研究員として働いていた。 「それで足りるの?」 「足りる」 「でも、誰がするの、農業?」 「オマエ、それはオレ達に決まってるだろ?」 「でも、銀行は?」 「辞める。十二月に。で、お義父さん、この冬は畑を整えないと。色々、教えて下さい。来年の今頃は、茶摘みと茶木の苗木植えで、猫の手も借りたいような具合になる。オマエも覚悟しとけよ」  西城は陽子に言った。  大介は、僕は覚悟したくないな、と密かに思った。大介は、いつも快適に生活できる程度の収入があれば、それでいいじゃないか、と考えていた。借金を作ることなく茶園を陽子に譲る。それが目標だった。陽子も東京で就職せずに帰ってきてくれたことだし、茶園の事業はさっさと陽子に譲って、自分は敦子と、趣味の世界に生きながら、孫の面倒を看て気楽な老後を送りたかった。  年配の顧客が、店を訪れる度に言った。 「あんたのお父さんは、やり手だった!」 「そうでしたね」  微笑みながら聞き流した。  ついに、大介は言った。 「うちのお茶園、どうにかしなきゃ、とはずっと思ってたんだけどね。なんか腰が重くて」 「今、その時が来たんですよ。どうにかしなきゃなんない時が」 「そうかもね」 「重い腰、上げてもらいますよ、お義父さん」 「アハハ。お手柔らかにねー」  家族会議は終わり、陽子と西城がテーブルをかたし始めた。  大介は聞いた。 「陽子も映画観てくか?」 「ありがとう。でも今日は遅くなるから……」 「やだ、お父さん、金曜日ですよ。野暮なこと言わないの!」 「アハハ、ゴメン、ゴメン」  西城は、いつまでも両親と話すのを止める気配のない陽子をさらうように、古川茶園の築二百五十年の母屋を出た。  敦子は西城の大胆さが好きだった。陽子の前の恋人には会ったことはなかったが、娘の口ぶりから察して、白馬に乗った王子様的な印象を持った。 (でもこの新しい、圭悟さんは、黒い竜に乗って現れた、武者?)  西城は、陽子の二人目の男だった。最初の男は豊永忍といって、東大で化学を専攻していた。忍の浮気が原因で、津田の三年だった陽子は重度の胃炎と皮膚炎を患い、彼女の額は、赤茶色のゴツゴツとした岩のようなニキビで覆われた。医者の命令で、大学も一時休学した。陽子が西城と付き合いだしたのは、忍と別れて一年後だった。  西城と陽子が東京から静岡に移った頃から、性交する度に、陽子の全身の肌から、甘い花のニオイのようなものが香るようになった。不思議なことに、陽子には全く嗅げないニオイらしかった。 「オマエ、香水つけてんか?」 「香水? つけてないよ」  陽子は香水はつけなかった。お茶の香りの邪魔になるからだという。津田塾時代もつけていなかった。 「じゃ、これはなんのニオイなんだ?」 「何も匂わないよ」 「∙∙∙∙∙∙?」 「どうしたの? 変だよ」 (オレだけに嗅げるニオイなのか?)  西城は思案した。 「変なこと聞いていいか?」 「いいけど。何?」 「前の男とやった時、あいつ何か匂うって言ってたか?」 「やだ、あたし匂うの?」 「嫌な臭いじゃねーよ」  陽子は、しばらく何も言わなかった。 「忍君が言ってたんだけど……。あたしの頭の皮から、なんか甘い花の匂いが出てくるって」 「やった時か?」 「うーうん。いつもだって。でも、あたしには分かんなくて。忍君、凄く鼻が利くの。あんまり仄かな香りなんで、普通の人には嗅げないだろうって言ってた」 「ちょっと、いいか」  西城は陽子の髪に鼻をうずめてみた。 (甘い花の香り?)  いつもの陽子のリンスの匂いしかしなかった。それに西城は鼻が利く方でもなかった。 (アイツにはアイツにだけの、オレにはオレにだけのニオイがあるんか?)  互いの唇を吸い合う度に、甘く濃くなってくる陽子の香りに包まれながら、その夜も二人は、何度もカラダを重ね合った。  大介と敦子は、陽子が津田から帰ってくるまでは、杉山という年配の女性社員と、三人で茶園を切り盛りしてきた。敦子は、四時過ぎにならないと小学校から帰ってこなかった。大介が会議や畑仕事や配達で出ている間は、杉山が店をみた。  大介は商工業協同組合の副理事長だった。JAでも中心的な人物だった。時期によっては、様々な組織団体との会議で議長を務めなければいけないので、店にはほとんど出れないことも多々あった。  大介が五十代に入って、この手の仕事がさらに増えた。キミしかいない、他にできる人がいない、などと説得されると、断れなかった。  大介と敦子は、いい頃合いに、陽子が東京から帰ってきてくれた、と喜んだ。大介は、公務がある日は、店を杉山と陽子に任せた。「古川茶園」とロゴの入ったミニバンは陽子に運転させ、自分は「JA静岡経済連合」というロゴの入ったセダンに乗って、一つの会議から次の会議へと、静岡県内を走り回った。  大介の、茶製造に関する知識の深さには定評があった。品種、土質、肥料、天候、排水は元より茶の加工、流通販売に関して、彼の知らないことはなかった。自然と彼の周りには人が集まり、頼りにされた。彼の先入観や偏見のない態度が余計に人を引き付けた。  大介は人の話を聞くのが上手かった。会議では誰をも平等に扱い、相反する意見を持った出席者を、上手い具合に議論させた。大介に話を聞いてもらうと、誰もが一段とスマートになったような錯覚を覚えた。会議の投票で負けた方も、大介が議長の時はなんとなく納得した。  西城は批評した。  大介の議長ぶりは見事だ。この人のお陰で全てがスムーズにいっている。でも、この人のせいで、農協が紳士クラブのようになっているのも確かだ。何も新しい企画が生まれてこない。現状を維持していくだけで、進歩がない。  茶摘みを来週に控えた四月のある日、西城は大介に言った。 「お義父さん、農協でパッケージングについて講演させてください。このままじゃ、ダメだ。もっと環境に優しくしないと。みんなで一緒に考えていきましょうよ」 「はいはい。いいテーマだね」 「狭山茶の例を出しますけど、いいですよね。生分解性するんで、環境に優しいんです」 「いいけど、くれぐれも、狭山茶の真似をしよう、とか言って閉めないでね」 「はい。そこは、もう招致してます。御心配なく」  JA静岡経済連合での西城の講演は、大成功だった。西城は参加者の質問に応対した後、スクリーンの前で大介と話していた。中年の茶園経営者が二人、会話に加わった。 「西城君、いやー、面白かったよ!」 「ありがとうございます」 「狭山茶ですか」 「微生物が、プラスチックを分解してくれるんですか」 「はい。環境問題と農業を切り離して考えない方がいいと思われませんか」 「まぁね。今のご時世はね」 「狭山も、頑張ってるようですな」 「しかし、まぁ、所詮、狭山は狭山ですから」 「おっしゃる通りですな」 「ハハハハ!」  二人の中年男は高らかに笑った。 (静岡茶に変なプライドばかり持ちやがって。新しいことやってるヤツらから、少しは学べよ!)  西城は苦々しく思った。 「狭山はですね、小中規模の茶園がアイデアで勝負してる、って感があります。都心に近いっていうメリットもありますし」  大介が話題を変えた。 「確かに! でも、まぁ、狭山茶の話はこの辺にして。圭悟君、こちら、森田茶園の森田さんと前田茶園の前田さん」 「よろしくお願いいたします」  西城は頭を下げた。 「いやね、陽子ちゃんが東京からカレシ連れて帰ってきたってんで、家じゃ大騒ぎですよ」  大介は黙って、微笑んでいるだけだった。 「うちの次男の嫁は、陽子ちゃんしかいないって、家内は決め込んでいましたんでね。がっかりですわ」 「うちも隼人には陽子ちゃんを、って思ってました」 「今日も、あの噂の西城さんが農協の会合に出るって言ったら、家内がどんな人だか見てきてよ、ってうるさい、うるさい」 「隼人君、今どこ?」  大介は聞いた。 「東京で大学三年です」 「お宅の隼人君は、陽子ちゃんより年下ですから」  西城は会話に割って入った。 「あの、年上だろうと年下だろうと、お子さん達を古川さんにくっつけようとするのは、金輪際ご遠慮願います。こういうことは早い者勝ちですから。そうですよね、お義父さん?」 「まぁ、そうだね」 「これは西城さんに一本やられましたな!」  西城は話題を茶に戻したかった。 「あの、それより、お二人にお聞きしたいんですが、誰か茶畑を売りたいって言ってる人、ご存じありませんか? 山間部で」 「何したいの?」 「抹茶したいです」 「若い人はみんな抹茶に動くね」 「抹茶、何年かかるか知ってる?」 「知ってます。オレ長期戦得意なんで」 「静岡の抹茶といったら、岡山さんですな」 「岡山さん、今日いらしてますか?」 「今日は見てないな」 「あの人も苦労したよね、抹茶に切り替えてから」 「軌道に乗るまで、大分かかりましたからな」 「オレ、岡山さんと日本市場で競争する気はないんで」 「輸出すんの?」 「はい。では、お忙しいところ恐れ入りますが、古川茶園の西城が畑探してるって、広めていただけないでしょうか? 放棄茶畑でもいいです」 「お安い御用です」 「あたしらに任せて下さい。その辺で聞きまわっときますわ」 「よろしくお願いいたします」  西城は深く頭を下げた。そして、宣言した。 「これからは、静岡産の抹茶が、世界市場を支配する時代にしていきたいですね」 「古川さんも、頼もしい跡取りが見つかって、心強いですな!」 「次代の静岡茶の、改革者ですかな!」  二人の茶園経営者が去った後、西城は大介に言った。 「この辺では、親が子供の結婚相手を探さなきゃならないほど、競争が激しいんですか?」 「いやね。それだけ若い子達が、一度東京に出ちゃったら戻ってこないってことなんだよ。僕達もね、陽子がもし帰ってきたら、静大の子を探してあげなきゃって思ってたしね」 「オレじゃダメですか? いい機会をみてお話しようと思ってたんですけど、機会なんて待ってる余裕ないみたいですね。陽子さんと結婚させてください」 「まぁ、それは、陽子次第だね」 「お義母さんは、どう思っておられるのかな?」 「僕も敦子も、キミのことが好きだから。彼女には僕から言っとくから」 「よろしくお願いします」 「銀行、ホントに辞めんの?」 「辞めます。十二月いっぱいで」 「いいの?」 「いいんです。未練はありません」 「もったいないね」  西城は大介を無視して一人ごちた。 「じゃ、指輪買わなきゃな。サイズ調べなきゃな」 「陽子の持っている指輪を店に持って行って、これと同じサイズのくださいって言ったらどう?」 「お義父さん、流石です。そうします」 「いや、僕もね、敦子にあげた最初の指輪は、そうやって買ったから」  そう言って大介は、下向き加減に嬉しそうに微笑んだ。 (誰かに似てる?)  大介の面長な横顔を見ていて、西城は気付いた。 (東大ヤローか!)  西城は、陽子の元カレを東大ヤローと呼んだ。 (陽子が細っちい男にイカレルのは、この人のせいか。クソっ!)  西城は心の中で、誰にともなく呟いた。  いよいよ、今年初めての茶摘みが始まった。例年、茶摘みには、要領のいい大介でさえも人出を確保するのに苦労した。しかし今年は、雇用問題で頭を悩ませる必要はなかった。西城が「#古川茶園」のSNSで人手を募った。遠方からの労働者は、陽子の実家に泊め、西城が食事を作った。  西城の一橋での相棒、片岡は、司法試験を数週間後に控えて自分は手伝えないが、陽子を慕う妹のカノンが参加したいと言っていると連絡してきた。今年、津田塾に入学したカノンは、小柄な十八歳で、ユマニテ(一橋大学津田塾大学合唱団)の部員を数名連れて、泊りで茶摘みに来た。後輩思いの陽子は、度々OGとして、母校の藤沢女子中高の合唱部に差し入れをしていた。やはり陽子を慕う何人かの部員が、茶摘みを手伝いたいと申し出てきた。津田を同時に卒業した、瞳とモクと琴音も来た。豊なロングヘアが自慢の瞳は数学科を出て、今は東京でシステムエンジニアとして働いていた。会社の愚痴を聞いて欲しいと言ってやってきた。帰国子女の瞳にとって、日本で働いていくのはかなりキツイことらしかった。陽子とはロシア語ゼミで一緒だった、色白でぽっちゃり型のモクは、地元の浜松で、ヤマハに就職した。カレシもいないし、ゴールデンウイークは暇だから、と言って茶摘みに参加した。清楚系の琴音は、藤沢女子の合唱部のOGで、津田でも陽子と一緒に学んだ。現在は静岡県庁に就職し、観光部で活躍していた。陽子が塾講をしていた、国分寺の予備校の男子生徒だった、佐々木も泊まりで来た。  しかし、初日から最終日まで、連日フルで働いたのは、フィリピン出身のメアリー∙ルーだった。メアリー∙ルーはジーンズの似合う小柄な女性で、親切そうな丸顔とクリっとした大きな目が特徴的だった。  陽子とメアリー∙ルーは、陽子が津田塾時代に、海外労働者を支援するNPOでボランティアをしていた時に知り合った。人手が足りなくなると、メアリー∙ルーは、彼女独自のフィリピン仲間のネットワークを使って、人を集めた。その速さには西城も驚いた。大介によると、こんなにスムーズに運んだ茶摘みは、陽子が生まれて以来初めてだったそうだ。  茶畑で、ユマニテ組がまた歌っていた。藤沢女子組もコーラスに加わった。西城と陽子は、茶木の畝をはさんで、向き合って茶葉を摘んでいた。西城は言った 「結婚しね?」 「いいよ」 「じゃ、これ付けとけよ。変な虫つかねーよーに」 西城は、ジャージのポケットから指輪を取り出し、陽子の左手の薬指にはめながら言った。 「うわー、ピッタリ! 何これ? プラチナ?」 東海の春の青空に手をかざしながら、陽子は聞いた。 「ああ」 「いいの? こんな高いの」 「ああ」 「ありがとう!」  陽子は、西城の首に、長い腕を回して抱きついた。 「どういたしまして。オレ、子供沢山欲しい」 「いいよ。何人?」 「四、五人」 「そんなに!」 「だから自営業の方がいいんだよ。子供育て安いし」 「そうだね」 「じゃ、子供のために、でっけー家建てよーな」 「うん。あたし幸せ」 「オレも」  二人は茶を摘む手を一瞬止めて、茶木の畝を挟んで唇を重ね合った。  メアリー∙ルーが叫んだ。 「イチャイチャしてる暇あったら、お茶摘んでくださいよ!」  畑にいた皆が笑った。  陽子は店番よりは配達が好きだった。運転しながら好きな音楽に合わせて歌った。得意先のほとんどは、陽子を赤ん坊の頃から知っていたので、陽子が来ると自分の子供が訪れたように喜んだ。配達先で、つい長話をしてしまうことも多々あった。  配達の途中で、必ず母方の祖父を訪ねた。大工だった祖父は、最近妻を亡くして以来、めっきり弱くなり、家にこもりがちだった。  陽子は、陽気が良い日は、祖父を引きずり出して、車で十五分ほど離れた寺にある、祖母の墓を詣でた。伯父夫婦は姪の訪問を喜んだ。伯父夫婦も大工見習中の従兄も工務店業で忙しく、ゆっくりと祖父の相手をしている暇がそうそうなかった。  皆が新茶摘みの疲れからまだ回復しきっていない平日の夜、西城と陽子は、実家で夕食を食べた。西城が天ぷらを揚げた。 「今日のトピックはですね」  食卓で西城が始めた。 「あら、家族会議は金曜日じゃなかった?」 「お義母さん、茶摘みで忙しくて、もう二週間以上も会議してませんでしたよね」 「敦子、臨時会議だよ」 「今日のトピ何?」 陽子が聞いた。 「お茶屋」  ついにお茶屋について話す時が来た。先日、大介が資金を調達する目途が立った、と西城に報告した。西城は彼の制作した資金繰り表に目を通した。西城の見積もりによると、あとは彼が上野の両親から融資を受けられさえすれば、お茶屋は建った。早くても二年以内に。 「野外能楽堂を建てましょうよ!」  敦子が提案した。 「富士山をバックに、駿河湾を見ながら薪能! 最高でしょ?」  陽子は大賛成だった。 「きれいだろうな、悲劇の能面美女……」  陽子はうっとりとした様子で言った。大介は、そんな妻と娘を、微笑みながら黙って見ていた。 「お義母さん、冗談もいい加減にしてください。雨降ったらどうすんですか? 次の日に延期なんてできないんですよ。能楽師の人達だって、その日のうちに東京へ戻って、次の日にまた舞台に出なきゃなんないことだってあるでしょ? 時は金なり、ってご存じないんですか?」 「あらあら……」 「敦子、西城君はかなり大きな駐車場を作る予定だから、いつか仮設の舞台を設置して……」 「誰がすんですか、そんなこと?」 「西城君、ほら、ロカルノ∙フィルム∙フェスティバルとかだって野外じゃん。お母さん、いつかできるよ」 「じゃ、能楽堂の話はひとまず置いといて……」 「あら、お茶入れなきゃ」 (またか……!)  西城は心の中で呟いた。 「お母さん、手伝うよ」  陽子も席を立った。  西城は大介に聞いた。 「どうしてこう、仕事の話になると、注意力散漫なんですか?」 「僕のせいかもしれない……」  大介は下を向いて呟いた。 (よくこれで教員なんかやってられるな。生徒がすっげー可哀そー)  西城は思った。  西城は、テーブルにお茶とどら焼きが並ぶのを待って続けた。 「お茶屋のコンセプトなんですが、和洋折衷で。平屋ですが、かなり天井を高くしてロフトにします。中央玄関から左側がお茶室、右側がお茶屋になります。お茶室は三つくらいつくりたい。もちろんお茶屋側の方が少し長くなります」 「そんな大きい建物作るの?」 「ああ」 「西城君、あたしは一人でできるような小さなお茶屋さんでいいの。あたしは、そんなに、子育てしながらガツガツ働きたくないってゆーか」 「オマエ、この期に及んでまだそんなこと言ってるのか? 小さなお茶屋で、抹茶アイスのパフェ出してるだけじゃやってけないだろ。わざわざ、山崩して、駐車場まで作るんだ。採算取れなきゃ破産するぞ」 「なんか、凄いことになってきちゃった……」 「陽子、マーケティング次第では成功する。圭悟君は抹茶で勝負したいんだ。だから茶室を作るんだよね?」 「その通りです。先週お送りした文化庁の茶道調査書、読んでいただけましたか? オマエにも送ったろ?」  西城は陽子に聞いた。 「うん。ざっと目通したよ」 「高齢化で、茶道人口が激変しています」 「うん。最近は、気軽に茶道を体験できる場所も機会もないって、書いてあったね」 「ですから、オレ達は陽子がいれば、英語と日本語で、内外の全世代に茶道を広めることができる。自家製の最高級の抹茶を使って。お茶山を、この辺の茶道の中心地にしたいんです。経験の無い人達が気軽に遊びに来て、茶会を楽しめるような」 「具体的には?」 「春や秋のいい季節には、野点を頻繁に企画したいです。あと、花見と紅葉の季節には大寄せ茶会を。これは毎年したいです」 「どのくらいの規模で?」 「七、八百人は入れたい。だからお茶屋のトイレは大きめにします。敷地周辺には、大量の桜と紅葉を植えます。当日は、車の乗り入れは禁止します。今のところは、送迎バスを用意する予定ですが、いずれは静鉄と交渉して、市バスを通してもらいます。お義父さん、頼りにしてますよ。静大茶道部のOBなんだそうですね」  家族全員が大介を見た。 「いや、圭悟君、僕はそんな大規模なお茶会は、見たことも聞いたこともないよ」 「お父さん、静大と藤沢女子大の茶道部に、コラボしてもらおうよ」 「陽子、いい考えだ。オマエは市内の茶道の講師のリスト作ってくれる? 流派は関係ないから」 「分かった」 「勿論、経験者にもお茶山に来て楽しんでもらいたい。炉開きや口切りの茶事は、茶人をターゲットに開催します。お茶屋のイベントは、全て英語と日本語で宣伝します。修学旅行中の生徒や、富士山狂いの海外からの観光客や、老人ホーム向けの宣伝も展開します。オレは客呼びは得意なんで、その辺は心配しないで下さい」  しばらくは誰も口を利かなかった。 「じゃ、質問がないんだったら、次、行きます。お茶屋のメニューなんですが、懐石中心で」 「コンセプトが茶道と抹茶だったら、懐石だろうね」 「懐石弁当なんていいわね。京都の仕出し弁当みたいで」 「お義母さん、いいアイデアです! 弁当形式だったら、外国人観光客も注文しやすいですし」 「西城君、あたしは美味しいおにぎりとお味噌汁、とか考えてたんだけど……」 「緑茶に合うもんだったら、基本、なんでもいいと思います。蕎麦とかでも。ただ、高い物も出さないと、採算取れませんよね。あと、酒。酒は絶対に売らないと」 「そういうもんなの?」 「そうですよね? お義父さん?」  大介は娘に頷いた。 「じゃ、今の段階では、いいメニューのアイデアが浮かんだら、オレに連絡下さい。どんなに馬鹿馬鹿しいのでも結構ですから。みんなで試行錯誤していきましょう。来年には地鎮祭を、二年後には落成式ができるように。その頃までに、自作の抹茶を世に出すことはできませんから、オープンしてから最初の二、三年は、不本意ながら、京都の抹茶を使うことになりますけど」 「圭悟君、二年後というと? 資金繰り表、見てもらえたかな? まだ資金が少し足りない。二年後という見積もりの根拠は?」 「オレの両親に融資してもらいます。まだ、確定してませんが。陽子と頼みにいけば、ほぼ間違いなく貸してもらえます」 「鹿児島の、お義祖父様の山のお金じゃ足りないの?」 「あれは、畑買う資金にして、オレ、余った金で起業したいんだ。オマエに言ってなかったな。銀行辞めた後は、不動産業で独立したいんです。農業しながら」 (また犬が遠のいた)  大介は思った。  大介は、犬を飼うのが幼い頃からの夢だった。大の犬好きだったが、父親に諭された。 「店や加工工場に入れては不衛生だ。犬は諦めろ」  大介は、近所に住む幼馴染のヤスシとは、幼稚園から大学まで一緒だった。大介が家業を継いで以来、二人は毎晩六時に、大介が店を閉めてから、ヤスシの犬と散歩に行った。陽子が結婚して茶園を継いだら、母屋は若夫婦に譲り、自分たちは近所に小さな家でも買って、犬を飼うのが夢だった。 (犬は、また当分お預けだな)  大介は呟いた。  その夜、陽子がシャワーを浴びて、口笛を吹きながら寝室に入ると、西城はまだベッドで何かを読んでいた。 「西城君」 「あ?」 「明日も早いんだよね。もう寝ないと」 「ああ」  西城は常にビジネスの事を考えていた。 (頭休める暇あんのかな?) 陽子は思った。  西城は、ベッドに入ってきた陽子を抱きしめて言った。 「野外の茶会さ、オマエに亭主として仕切って欲しい」 「え? あたし?」 「ああ」  西城は、思わず強く陽子を抱きしめた。 「茶室もオマエのために作るんだ。古川茶園の抹茶で、若女将が教える茶道教室。すっげー良くね?」 「西城君、あたし免許持ってないよ」 「あ?」 「あたし教えらんないよ」 「でも、オマエ、お祖母ちゃんが師範で、ずっと習ってたって」 「うん。そうだったんだけど∙∙∙∙∙∙」 「だったら∙∙∙∙∙∙?」  言いにくそうに、陽子は話始めた。 「あたし正座できないの。幼稚園の時から少しずつ、母屋のお茶室でお祖母ちゃんに教えてもらってたんだけど、その頃はもちろん正座しなくてもよくて。でも、小学校二年生くらいから、正座してごらん、ってなって。どうしてもできなくて、痛くて痛くて、毎回泣いちゃってたの。で、お祖母ちゃんも、もうしなくていいよ、って諦めてくれて」 「諦めた?」 「うん」 「オレも祥ちゃんも正座できんぞ。できねー、なんていおーもんなら、祖父ちゃんにぶん殴られた」  西城と兄の祥梧は、幼い頃から祖父に柔道の手ほどきを受けた。道場ではもちろん正座だった。 「あたしはダメなの。足が痛くなると、我慢できなくなって泣いちゃうの」 「じゃ、どんな稽古してたんだよ」 「だから、ずっと足崩してて、お茶をいただく時だけ、がんばって正座してたの。お祖母ちゃんもそれでいいって。大切なのはお客様をもてなす心だからって」 「でも、茶道っつーのは、人をもてなすにも『型』を守りながらやるんじゃねーのか?」 「だから正座以外は『型』に忠実にやってたよ」 (正座ができなくて、免許が取れない? お茶園の娘だろ?)  西城は言葉を失った。 「そんなに失望されちゃったの?」  陽子は西城の肩にすがった。 「してねーよ。ただ以外だっただけだよ」 「だから、あたしは茶道脱落組なんだって。で、中一の時に出たお茶会に、お祖母ちゃんの先生がいらっしゃって。その人に無理矢理正座させられて、痛くてまた泣いちゃったの。お父さんがお茶室まで来て、あたしを抱っこして母屋に運んでくれたの。あんなに痛くて、恥ずかしかったの生まれて初めてだった」 「お義父さんはオマエには甘いからな」 「それでお祖母ちゃんのお茶の先生が、凄い怒っちゃって、お母さんのこと責めたの。躾がなってない、って。お父さんとお祖母ちゃんにはなんにも言わなかったのに……」 「そこは、まぁ……」 「で、お母さんの方のお祖父ちゃんが、立礼式用のテーブルといすを作ってくれたんで、それでお祖母ちゃんと練習したの。正座さえしなくてよければ、抹茶もお菓子も美味しかったし、お祖母ちゃんに学校のこととか話して凄く楽しかったの」  西城は陽子を抱きしめた。 「あたしが高一の時、お祖母ちゃん亡くなったんだけど、亡くなるかなり直前まで二人でお茶飲んでたよ。最期の方はあたしが点ててた」  西城は陽子の頬に右手を置いた。 「じゃ、正座は無しだ。でも、免許は取ってくれ。お茶会で師範級を十何人も雇って、必要以上に出費したくねーから」 「うん。でも、立礼式で師範の資格くれるお教室なんてあんのかな?」 「オレがみつける」 「カナダに留学してた時ね、あたしが帰国するってんで、寮の子達が集まってくれたの。レノックスホールってとこ住んでたんだけど。で、ダウンタウンの日本食のスーパーで、抹茶と最中買って、電気ポットでお湯沸かして、あたしがお茶点てて、みんなに飲んでもらったの。みんな、面白がって喜んでくれた。抹茶も最中も美味しいねって。あんな安物だったのに」 「オマエ、やっぱり免許取れ。英語で外人にも教えられるし。大使館とか外資系企業でもお茶会開けるし。日本の文化を広めるためとかなんとか言って。海外の展示会でも、茶道できるとまた違うだろ。宣伝力倍増するぞ」 「そうだね」 「もう寝よう」 「うん」 「おやすみ」 「おやすみ」  二人は手を握り合ったまま、互いのカラダを離した。  五分後、西城が囁いた。 「陽子?」 「なに?」 「まだ起きてるか」 「うん」 「なんか、眠れねー」 「そんなに、あたしに幻滅したんだ?」 「幻滅っつーか、まぁ、そうかもな。オマエ、正座できねーってどういうことだよ?」  陽子は西城の肩にすがりついて、呟いた。 「無理にさせないで」 「させねーけど。セックスしていい?」 「今?」 「ああ」 「ちょっと遅くない? あたし達もう寝ないと」 「オマエ、明日は店開けるんだろ?」 「うん」 「じゃ、ここ八時に出ればいいじゃね?」 「そうだけど。六時に起きて、ジョギングしたい」 「明日だけジョギングは夕方にできね? セックスして寝れば、オレ、何もかも忘れっからさ」  確かに西城は怒る時は怖いが、決して根に持たなかった。次の瞬間には、もう爽やかに笑っていた。 「やればオレ、いつも熟睡するし」 「そういうのにセックス使うの?」 「ダメか?」 「ダメじゃないけど∙∙∙∙∙∙」 「気に障ったら悪い」 「なんか、人が忘れたいことがある時、お酒飲むのと一緒じゃない?」 「確かにな。でも、していい?」 「いいよ」  次の朝、西城は、いつものざっくばらんな彼で、忙しい一日を前に、茶道のことなどすっかり忘れていた。  陽子の茶道の教師は、大介がみつけた。彼の母親の茶道友達だった。  新茶摘みが終わった頃、西城の東京本社での新入社員研修も終わった。赴任先の静岡支店では、彼の希望通り不動産部門で働けることになった。  西城は仕事が速かった。仕事ができない先輩行員たちに、酒の席でからまれることもあった。 「西城君、何で来たの? 静岡くんだりまで」  女に、来ないと別れると脅された、と適当に言っておいた。  静岡に来て、西城が最初に任された仕事は、住宅ローンが払えなくなった顧客の対応だった。いつの間にか、ややこしいケースは全て西城に回ってきた。例えば、裁判所から競売開始通知が届いてから、初めて銀行に相談に来る顧客のケースなどだった。  ある日、西城が電話でそんな顧客と話していた。 「奥さんはまだご存じないって、一体どういうことなんですか? もう六ヶ月もたってるんですよ? 私どもからも四ヶ月前から幾度か通知させていただいてましたよね? こういう大事なことはですね、ご夫婦でしっかり話し合っていただかないと……」  部署の者が皆、西城の会話に耳をそばだてていた。課長は頭を抱えていた。  西城が電話を切るのを見て、課長はオドオドと西城に近づき囁いた。 「西城君、うちは銀行でカウンセリングはやってないから」  西城は詫びた。 「申し訳ありません。行き過ぎました。以後、気を付けます」  別の、やはり競売開始通知を受け取った顧客には、電話でこう言っていた。 「世間体、世間体、って住む家がなくなるかもしれないって時に、そんなこと気にしてる場合じゃないんじゃないですか?」  この時も課長は頼んだ。 「西城君、西城君、お客様にはもうちょっと、お手柔らかに」  二人が一緒にいると、どちらが上司で、どちらが部下なのか分かりかねた。この時も西城は頭を下げた。 「申し訳ありませんでした」  そんな西城だったが、顧客には人気があった。指名を受けて、一日が顧客とのアポで埋まることもあった。  競売を避けるには、任意売却という逃げ道があった。任意売却で住宅を売れば、大抵の場合は競売よりも高く売れたし、銀行との交渉次第では、引っ越し代も捻出できた。借金が少しでも減るというわけだ。しかし、西城達は、顧客に任意売却については言及しないようにと指示されていた。任意売却より競売の方が銀行としては儲かるからだった。  住宅ローンが払えなくなった顧客は、二種類の客層に別れていた。怪我、病気、リストラなどでローンが払えなくなったケース。もう一つは、キャバクラ通い、酒、博打で身を持ち崩したケースだった。西城は顧客が前者の場合は、さりげなく任意売却というオプションがあると伝え、静岡市内の仲介業者のリストを渡した。 (この世に、不必要に不幸な人間を増やして、何になるんだ?)  西城は自分を納得させた。感謝する顧客には念を押した。 「これ、私から聞いたって言わないでくださいよ」  女、酒、ギャンブルで身を持ち崩した顧客には、任意売却を使う手は教えなかった。  しかし、小さな静岡支店だ。西城が何をやっているかに、皆が気付くのは時間の問題だった。西城にとって幸いだったのは、吉住で西城に強く出れる者はいない、ということだった。彼の父、明彦は銀行の幹部だった。祖父、邦彦は長くニューヨーク支店長を務めた。邦彦の祖母は吉住財閥の祖の孫だった。邦彦は政財界にも顔が利いた。  西城は、住宅ローン関連の業務に就いて以来、ネットで不動産競売物件情報サイトを検索するのが習慣になった。  ある週末、陽子と敦子が店に出ている間に、市内の競売物件を一件だけ一人で見に行った。小さな一戸建てだったが、外見は新築同様だった。何よりも将来性のある人気エリアにあった。残念ながら競売物件は内部を見ることはできなかった。 (どーすっかなー……?)  迷ったあげく、学生時代にインターンをして貯めた金を頭金にして入札してみた。落札した。  購入手続きを済ませ、内部を点検した。幸い、外部と同様に極めていい状態だった。この物件を、西城は数ヶ月間寝かせておいた。市場に出す直前に、メアリー∙ルーのつてで雇ったフィリピン人の掃除請負人に、内部を隅から隅まで磨いてもらった。自分でも、窓に鳥の糞が落ちていまいかと、確認に行った。猫の額ほどの小さな庭の芝生は、自分で大介から借りた草刈り機で刈った。  物件は、西城が落札した額の四倍で売れた。 (マジか?)  西城は信じ難かった。  以来、祖父から相続した山を担保に借りた金で、これぞ、と狙いを付けた競売物件を、どんどん落札していった。メアリー∙ルーに、簡単なペンキ塗りや修理のできる人手を探している、と問い合わせると、自分の夫のジョニーを行かせるというラインが返ってきた。  ジョニーはフィリピン人というよりは、中国人のような風貌で、大工ではなかったが、簡単な修理なら一人でこなしてしまった。母国のフィリピンでは、幼い時から親戚一同で、家を建て合ってきたという。大抵の物件は、内壁や外壁のペンキを塗り替えるだけで、見違えるほど良くなった。  中には、内部がおぞましいほどに汚れている物件もあった。そんな場合も、ジョニーと彼のフィリピン∙チームが、数時間で一切のゴミと汚れを取り除いた。内部が酷く痛んでいる物件は、西城はジョニーと話し合い、床、内壁、天井の全てを取り換えることもあった。  時には、窓やドアを見た目のいい物に取り換えることもあった。流石にジョニーと彼のフィリピン∙チームには、屋根の修理は無理だろう、と西城はふんでいたが、ジョニーは片言の日本語で言った。 「オッケーっすよ」 (なんなんだ、この人材の宝庫は?  なんでこう次から次へと、技術もったヤツが出てくるんだ?)  西城は感嘆した。  ジョニーのチームには、マニラでは庭師だったという者もおり、彼は西城に言われなくとも、庭の手入れをした。彼の手に係ると、チンケな庭も見違えるほど良くなった。  ジョニーの手に余る修理は、陽子の伯父に依頼した。可愛い姪のカレシのため、ということで、彼の工務店は、どんなに忙しくとも西城の依頼を優先した。  西城の読みは大抵当たり、彼は確実に不動産で利益を上げていった。起業するという新しい目標ができた。西城は、仮に抹茶がポシャった時、陽子に不自由な生活だけはさせたくなかった。そのために備える目途も立った。  西城の母、西城綾子は息子が吉住銀行に内定した時、やっと彼も上野の実家に帰ってくるだろうと楽しみにしていた。  綾子と夫の明彦は、長男の祥梧と次男の圭悟が幼い頃、仕事を優先させ、子育てにまでは、手が回らなかった。吉住銀行で出世街道をまっしぐらに走っていた明彦には、家事や子育てに携わる気力や意思や時間がなかった。津田塾卒の綾子は綾子で、長男が四歳の時に、大手の自動車メーカーの営業部に再就職したばかりだった。  長男が生まれて、専業主婦になってみて初めて分かった。 (自分はキャリアが欲しい! 仕事がしたい!)  彼女に、仕事を辞めて子育てに専念して欲しいという夫とは、いつも口争いが絶えなかった。二人の息子は、そんな両親に嫌気をさして、鹿児島の綾子の祖父母の元で生活するために、東京を離れた。長男は中一、次男は小二だった。  以来息子達とは、彼らが高校を卒業するまでは、学校が休みの間のみ、共に生活した。長男は東大へは実家から通ったが、一橋に進んだ次男は国立に下宿した。  この四月、工学で博士課程を終えた長男は、ポスドク研究員としてアメリカに渡った。同時に一橋を卒業した次男は、恋人が地元就職した静岡に引っ越した。  明彦と綾子は、次男の卒業式で、陽子に初対面した。 (単位落として、留年しかかって、ストレスで休学? 就職活動ほったらかしてカナダに留学? 東京の企業でバリバリ働きたくなくて地元就職? 本当に津田なの? 最近、女子大のレベルが落ちてきたと言われているが、これほどまでとは!)  綾子は、一体どういう時代になったんだと、母校を危惧した。  卒業式の直後、明彦と綾子は、兼松講堂の前で、片岡の家族と和やかに歓談する次男と陽子を遠目に見ていた。 「陽子さんは、実家のお茶園を手伝うことにしたんだろ?」  明彦が聞いた。  「なんか、津田っぽくない子ね」 「TOEIC 970点らしい」 「本当なの?」 「圭悟が言ってた。なんでも中学に上がるまでは、夏休みは、毎年カナダの親戚の家で、過ごしてたんだそうだ」 「それなら、ネイティブ並みね」 「ああ。案外ああいう、おっとりしていてもできる子がいると、職場にとってはいいんじゃないか。彼女みたいな子は、どんな女子とも仲良くやっていけるだろうし、男子は元気が出るだろうし」 「元気が出るの?」 「出るんじゃないか」 「圭悟とは気が合うみたいね」 「ああ」  それでも彼女の次男には、もっと野心的で自信に溢れた子の方が合うんじゃないか、と綾子には思えてならなかった。  西城が静岡に行って数ヶ月が過ぎたある夏の土曜日、明彦と綾子は上野に自宅にいた。西城は、事前に、陽子と婚約したので挨拶に来たい、古谷茶園の事業の件で借金もしたいと、両親に伝えていた。  西城は実家の応接間で、これまでのお茶屋企画の経過を両親に報告した。 「公務店の目途もついています。陽子の伯父さんが棟梁をしている所で、腕は確かです」 「プロに見てもらったのか?」 「はい。うちの不動産部で取引している建築事務所で、住宅診断してもらいました。二件診てもらって、一件は店舗、もう一件は通常住宅です。報告書送りましょうか?」 「頼む」 「で、お茶屋の話に戻りますけど。父さん、哲郎小父さんに建築お願いしていいですか」  哲郎小父さんというのは、明彦の古い友人で、世界的に有名な建築家の黒田哲郎だった。 「テッちゃん、最近はずっとチューリッヒだからな。オマエから頼んでみろ」 「そうします。陽子、ここからは、オマエも知ってる話だから、席外していいぞ」 「いいの?」 「ああ」 「陽子さん、ピアノ弾くのよね?」 「はい。ピアノあるんですか?」 「廊下を左に曲がった突き当りに」 「あの、祖父ちゃんが小さい時、ぼっとん便所だったってとこ?」 「その昔の便所をふさいだ場所の戸の前だ」 「祥梧が幼稚園の頃に、習わせていたことがあって」 「半年も続かなかったがな」 「どんなピアノか見てみたいです。じゃ、失礼します」  陽子は礼をして席を外した。  陽子がピアノを見つけたようだ。音が聞こえてきた。 「ホント、上手よね」 「なんか、音ずれてませんか」 「もう二十年以上も調律してないからな」 「ところで、ご飯食べてくでしょ? おめでたい日だから、なんかいいものとらない? あなた、なんにする?」 「圭悟が好きな寿司でいいだろ。時間はあるんだろ?」 「はい。あと、あの、やっぱり、吉住は辞めます。今年いっぱいで」 「やはりそうなるか」 「ここまで話が大きくなると、両立は無理よね」 「はい。申し訳ないんですけど」 「お茶園一本か?」 「いいえ。兼業農家です。不動産業やりたいんで」 「不動産も静岡で?」 「はい。軌道に乗るまでは。もちろん最終目標は関東ですけど」 「できるのか、オマエに」  父親は聞いた。 「できます。一橋で五年間やってきたことが、なんでやってきたんだか初めて分かってきました。今やっと、全部つながったって感じです」 「そうか」  西城はさりげなく付け加えた。 「あと、オレ達、子供沢山欲しいんで、静岡に拠点を置いた方がいいんだと思います。地方だと子供も育てやすいんで。古川のご両親も、子育てに全面協力してくれるみたいですし」  西城の両親は、快く融資に応じた。西城は目的を果たせて、ひとまず安心した。  出前が届く間、西城は陽子を探しに行った。陽子は、家の一番端の廊下の突き当りで、ピアノを弾いていた。 「陽子」 「西城君、このピアノ、音が目茶目茶」 「ああ。調律しなきゃな。物はどうなんだ?」 「中の下かな」 「そうか」 「なんか、悲しいね。こんな、家の隅に押しやられて。誰にも弾いてもらえなくて」 「ああ。オレも祥ちゃんも、音楽はからっきしだったしな。ところで、金借りれたぞ」 「ホント? 凄いお金持ちなんだね、西城君ち。たかが銀行員のお宅だから、お金持ってないって決めつけてた」 「うちの家族は、誰も金持ってるようにゃ見えねーからな」 「ご両親、貯金魔なんだね」 「投資魔って呼んでやれよ」 「それより西城君、いつお祖父ちゃんと伯父さんの建てた家、見に行ったの?」 「ああ。オマエに言わないで行って、悪かったな。なかなか時間とれなかったから、出先から行ったんだ」 「また、お昼休み返上して行ったんでしょ? いつもお昼抜いて仕事して。しかも、うちのお茶屋のことで。銀行の仕事だって大変なのに」 「ちゃんと食べてるって。オマエが心配するこたーねーよ」 「あたしには、いつもしっかり昼休み取れってうるさいのに。土日だって、いつもお茶園のことで、ゆっくり休む暇もないのに」  陽子の目に、涙がジワッと溢れてきた。  寿司が届いたので、綾子は若い二人を呼びに廊下に出た。角を左に折れようとするも、二人の話し声が聞こえてきたので、立ち止まった。彼女の次男は、陽子を抱きかかえて慰めているようだった。 「オレのことは、心配しなくていいから。健康管理くらい自分でできるから。オマエが思うほど働き過ぎてねーよ」 「でも、うちの家族があんまりしっかりしてないから、全部西城君がしなきゃなんなくて」 「そんなことねーだろ。オマエだって頑張ってんだろ?」 「でも、西城君がカラダ壊したりしたら、あたし、どうしたらいいか∙∙∙∙∙∙」 「オレは、オマエさえ元気でいてくれれば大丈夫だよ」  明らかに、陽子は西城の広い胸に寄りかかって鼻をかんでいた。 (これが、いつも両親にはそっけない圭悟だろうか? 彼女にはこんなに優しいのか? あたしも、ああやって明彦さんに泣いて頼ればよかったんだろうか? あたしも陽子さんみたいに可愛い女だったら、明彦さんも少しは折れてくれたんだろうか?)  ワンレンボブの右側を耳にかき上げながら、綾子は考えた。 「オレのことより、自分のこと心配しろ。まだ、ちゃんと食べられるようになって、一年もたってねーんだぞ。体重だって、会った頃よりはねーだろ?」 「運動してるから、前よりしまって見えるだけだよ」 「オマエ、走りすぎなんだよ。オレは昔の、少しぷっくらしてたオマエの方がいい」 「そうなの?」  明らかに、二人は唇を重ね合い始めた。綾子は二人に聞かれないように、といっても、夢中な彼らには、何も聞こえていないようだったが、猫のように静かに台所へ戻った。 (少なくとも、自分達もあの二人のように、恋愛が最高潮に上手くいっている間に、色々と将来の事を話し合っておくべきだった)  綾子は気を取り直して、声を上げて彼らを呼んだ。 「お寿司、届いたわよー」 「はい。今行きます」  西城の持ち前の涼しい声が、返ってきた。  綾子と明彦が、台所で取り皿や箸を出している間、陽子は顔を洗ってきた。目が少し赤く腫れているが、もういつもの陽子だった。 「お茶、お入れしますね」  四人は食べ始めた。 「陽子さん、ピアノは調律しておきますから」 「場所も移した方がいいんじゃないですか?」 「そうね。今は弾ける人がいるわけだから」 「オマエが今度来た時、一緒に応接間に移すか」 「あの、二、三人じゃ、重すぎてとても無理です」 「そんなに重いの?」 「はい。五、六人はいないと」 「どうやって、あそこに移したんですか?」 「もう、あんまり昔のことなんで覚えてないわ」 「誰か、雇ったんですよね?」 「だと思うが、まるっきり記憶がない」 「自分たちで動かそうとして、腰痛めたりしないでくださいよ」 「あなた、じゃ、引っ越し屋さんか誰か雇いましょう」 「そうだな」 「ところで、陽子さん、あたしの古い着物いらない? 母からもらったのもあるんだけど」 「いいんですか?」 「ええ。もう着ないの。宝の持ち腐れなの」 「助かります。今、着物にお金かけてる余裕はありませんし」 「着付けは御自分でなさるの?」 「今、着付け教室に通ってるんですけど、どんなに頑張ってもすぐ着崩れしちゃって」 「オマエはやる気がないだけだ。いつも面倒くさいって思ってるから、なかなか上達しないんだ」 「でも、本当に、超面倒臭いですよね」  そう言って陽子は、人懐っこそうに微笑んだ。  いつの間にか夏が終わり、十月に入った。  古川茶園は「世界お茶祭り」に参加した。静岡県コンベンションアーツセンター∙グランシップの、ワールドO-CHAメッセ会場にブースを設け、世界中から集結した茶園業者と共に、古川の製品を展示、販売した。  陽子は茶を売るのが上手かった。  西城は観察した。 (コイツ、もしかして売るの天才?)  遺伝かもしれなかった。陽子の母親も売るのが上手かった。ブースで敦子と陽子が着物姿で並んでクスクス笑いながら話していると、自然と客が集まってきた。  敦子はよく客に言われた。 「親子なんですか、姉妹かと思いました」 「まぁ、お客様、お上手ですねー」  敦子はケタケタと笑って、客の茶碗に美しい緑の茶をつぎ足した。  陽子は、面倒くさいと文句を言っていた着物の着付けも、いつの間にか完璧にこなしていた。敦子が、夏休み中に、陽子を特訓したためだった。こんなに風情のいい若い女に、着物姿で、一服いかかがですか? と、いかにも売るのに興味はございません、という口調で問いかけられると、断れる客は皆無だった。  西城は広大な会場を丹念に視察した。 (だめだ! これじゃ。全然だめだ! このままじゃ、古川は生き残れない。敦子と陽子がいくら愛嬌で売っても、買ってくれるのは、顧客だけだ!)  日本の、世界の茶業者が、自慢気に勧める有機の新製品や、環境を考慮したパッケージングや製造法を目の辺りにし、西城は決意を新たにした。 (環境、有機、抹茶、輸出、茶道、お茶屋、オンライン商法。普通のことをやり続けてりゃ生き残れないのは、どの業界でも同じだろ?)  ワールドO-CHAの二日目の晩、西城はブースを守っていた。着物姿の陽子がパタパタとかけて来た。 「西城君、ゴメン、遅くなっちゃって」  陽子は、その午後中、彼女の茶道の講師と共に、「世界大茶会」で、立礼式で茶を点てていた。 「疲れただろ?」 「うーうん。大丈夫。どーお? お客さん来てる?」 「オマエがいねーと全然売れねー」 「そんなわけないでしょ?」  陽子は、西城に目を細めて笑いかけた。 「ここは、あたしが見てるから、行ってきなよ。まだ、視察したいとこ一杯あるんでしょ?」 「ああ。悪いな」  西城は陽子に微笑むと、素早く人込みに消えた。  暫くして、若い男女の一団が古川のブースに足を止めた。 「一服いかがですか?」  陽子が微笑みながら声をかけた。 「あー、やっぱり古川さんだ!」 「陽子ちゃん、久しぶり!」 「着物凄い似合う!」  藤沢女子中高時代の級友達だった。彼女達は、吉住銀行の西城の同期でもあった。女子達は、物凄い速さで喋り始めた。  「西城君、今、他のブース見に行っちゃったの。ラインで呼ぼうか?」 「いい、いい。陽子ちゃんに会いに来ただけだから」 「うちのお茶飲んでってね。今日のお茶請けは嶋村の豆大福なの」 「わー、来たかいあった!」 「西城君どう? ちゃんと仕事してる?」 「してるよー。陽子ちゃん凄い人みつけたねー」 (やっぱり銀行でも凄いんだ)  陽子は思った。 「うちらより一個上だし、MBA持ってるし、なんか同期って感じしないよね」 「だよね」 「先輩達にも一目置かれてるしね」 「上司にもエラソーな口きくし」 (同期の人達は、西城君がもうじき退行することを知っているんだろうか?)  陽子は思った。  女子たちが大福を食べている間に、陽子は西城の同僚の男子達にも、茶と大福を勧めた。 一人、一際背の高い男に、見覚えがあった。 「あの、古川さんですよね」  男が聞いた。 「はい。どこかで前にお会いしましたっけ?」 「オレ、松田弥生の弟です。合唱部の」 「あー!」  松田弥生は、陽子が高一の時の合唱部の部長だった。 「道理で! 弥生先輩は今どうされてんです?」 「新潟で大学事務してます。まだ、歌ってますよ」  そう言って陽子を見降ろした松田の笑い顔に、陽子は懐かしい先輩の面影を見た。  西城が現れた。 「なんだ、オマエら。来るんなら前もって知らせろよな!」 「陽子ちゃんに会いに来ただけですよ」 「西城君、吉住の静岡支店って、藤沢女子の子しか採らないの?」 「巣窟だよな」 「確かに」 「だから静岡支店は美女ばっかりで、全国で一番基準が高いらしいっすよ」 「上手いことゆーなぁ、オマエ」  陽子の入れる、古川の透き通るような緑の煎茶を飲みながら、男女は歓談した。  その夜、静岡県コンベンションアーツセンターからの帰りの車の中で、西城は言った。 「細っちい、へなっとした、気取った男にばっか媚売りやがって」 「はぁ? あたしが?」 「東大ヤローとか佐々木とか。さっきだって、松田とか」  西城は、陽子の元カレを東大ヤローと呼ぶ。佐々木というのは、陽子が講師をしていた予備校の生徒だった年下の男だ。 「松田さんに媚なんて売ってないよ。彼のお姉さんが、あたしの二個上の合唱部の先輩で……」 「いい加減、認めろよ」 「何を?」 「ああいう、なよなよしいヤサ男が好みだって」 「好みって、そんな!」 (でも……。え? ちょっと待って! もしかして、そうだったのかな? 藤沢女子の合唱部の野木先輩のお兄さん、憧れてたな。あとは、えーと、及川ピアノ教室の三年上にいた林さん。大阪芸大に行ったんだっけ。あれっ? みんな細くて背が高い)  陽子はいつの間にか赤面していた。 「人に言われて気付いてんのかよ?」 「……!」 「だからオレのことなんて、何年も眼中になかったんだろ?」 「だからだったの?」 「そうだろ。オマエ、男が十人かたまってると、細長いヤツのことしか見てねーよ」 「やだ、いやらしい! そんなわけないじゃん。たまたま、あたしに話しかけてくる人が、細長いってだけなんじゃないの?」 「オマエが見るからだろ」 「見てないよ」 「見てるだろ」 「∙∙∙∙∙∙」  陽子は気を取り直して聞いた。 「じゃ、どうすればいいの?」 「どうするも何も、オマエはもうオレのだかんな。手遅れ」 「分かってるよ。西城君だって、あたしみたいなのが好みってわけじゃないんでしょ?」 「∙∙∙∙∙∙!」 (コイツ、何でこう鈍いんだ。何年たってもまだ分かんねーのか)  西城は、呆れて言葉も出なかった。  その夜、陽子は先にベッドに入っていた。陽子は、髪をふきながら浴室から出てきた西城に聞いた。 「そもそも、何であたしのこと好きになったの?」 「またその話題? 顔とカラダが好みだった」  西城が初めて陽子と出会った場所は、二人が塾講師として働いていた、国分寺の予備校の廊下だった。  西城は、スーツの上からも陽子の腰がくびれているのが分かった。顔を見て決めた。この女にする、と。 「外見だけじゃん!」 「それ、オマエがゆーのかよ? 外見で人好きになって何が悪いんだよ?」 「悪かないけど、でも、それだけじゃ∙∙∙∙∙∙」 「あー、もー、めんどくせーなー、女は! 初めて会った時、オマエ口笛吹いてたろ?」 「うん」 「いつも、オマエの口笛、聞いていたいって思った」 「なんの曲だったか覚えてる?」  覚えていないという西城を無視して、これだったけ、あれだったけ、と、陽子は思いつくままに、口笛を吹き始めた。 「覚えてねーつってんだろ」  西城は、猫が獲物に跳びかかるように、陽子に抱きついた。陽子は、西城の腕から逃れようとあがきながら、口笛を吹き続けた。 「やめろよ」  それでも、陽子は止めなかった。  西城は彼女の手首をベッドに抑え込み、彼女のとんがった唇を吸おうと躍起になった。二人は笑いながら、そうやって子犬のようにじゃれ合った。笑い疲れると、二人は互いの腕の中でゆっくりと唇を吸い合った。 「あのね、西城君の外見が嫌いだった、とかじゃないの」 「ああ。女なら、オレの外見が嫌いってことはねーだろ」 「外見よりも、ほら、あたしが一番辛かった時、静岡にもカナダにも電話くれたでしょ。あと、国分寺から、いつも下宿に車で送ってくれた。あんなにおでこ汚かったのに」 「おでこ? ああ、ニキビのことか」  当時、陽子の額一面は、心因性の醜いニキビに覆われていた。西城は、それにはすっかり慣れてしまって、汚いとも醜いとも思わなかった。ただ、彼女の赤茶色にゴツゴツと膨れ上がった額を見る度に、可愛そうで、愛おしくて、その額にそっと唇を這わせたい衝動が止まらなかった。付き合い始めたのは、彼女のニキビが治った後だったから、それはできなかったのだが。 「じゃ、外見より、オレの中身に魅かれたってわけか」 「うん。いつも側にいてくれた」 「オレはただ、オマエが欲しくて、周りをウロチョロチョロしてただけだよ」 「西城君の動機がどうあれ、あたし的には、時々感謝の気持ちが溢れ出て、止まらなくなるの」  陽子の陰部を押した西城の指に、愛液がほとばしり出た。 「溢れ出してるのは、感謝の気持ちだけじゃねーようだな」 「……お願い、そんなに強く、押さない、で∙∙∙∙∙!」  陽子は困惑しながら喘いだ。  西城の指は、そのまま愛液の源に吸い込まれていった。陽子の全身から濃い甘い香りが立ち昇った。 「やだ、指入れないで!」 「何でだよ?」 「怖いの」 「落ち着けよ。カラダ硬くなってんぞ」 「指は怖いから入れないで」 「オレのチンポより細いだろ?」 「分かってんだけど、指はいや」 「やさしくするから」 「お願い、止めて!」  陽子は思わず、西城の首に両手で飛びついた。 「しゃーねーな。じゃ、ほら、来いよ」  西城は陽子をヒョイと持ち上げて、自分の上に乗せた。そして、男根を固定させ、陽子の中に入れた。 「あっ」  陽子は短く叫んだ。  西城の物が陽子の愛液に誘われるように、彼女の中に浸っていった。西城は両手をそっと陽子の腰に置いた。 「自分で動いてみ?」  陽子は戸惑うように動き出した。 「やだ、見ないで。恥ずかしい」  陽子の全身の肌から、さらに甘い花香が香り立った。彼女の花香が、部屋中に濃く蔓延した。 「やだ、止まんない」 「止まるわけねーだろ、この角度で」 「止めてよ。そういうこと、言うの」 「今、止めるなよ。すっげー気持ちいいから」 「西城君が?」 「ああ」 「嬉しい!」  陽子は喜んで、また彼の首に飛びついた。  「世界お茶祭り」が終わりきや、陽子は、及川音楽教室の秋の発表会の準備に大忙しだった。今回のトリは、及川と陽子のデュエットだった。二人は「Time to Say Goodbye」を歌うことになっていた。陽子は実家のミニグランドで猛練習した。  発表会を二週間後に控えていた土曜の朝、陽子がジョギングから帰ってくると、玄関には淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。西城は台所で朝食を作っていた。 「いい匂い! 何? スクランブルエッグ?」 「すぐ、できるぞ。早くシャワー浴びてこいよ」 「土曜なのに、早いね」 「静岡駅行くぞ。コンサートの服買いに」 「えー、いいよ。あるから」 「オマエ、舞台に立つ時くらい、まともな服着ろよ」  センスのいい西城は言った。 「でも、あたし、三時から、チビちゃん達のリハ手伝わないと」 「オレも物件視察しに、清水区に行く」 「忙しいじゃん、二人共」 「だから、今朝しかねーんだよ。買い物する時間あんの。いいから、早くシャワー浴びてこいよ」 「シャワーの後、ストレッチしないと……」 「今日は超特急でしろ」 (そんなぁ! 超特急でしたって効果ないし……)  そう思いながら、陽子は浴室に急いだ。  静岡駅への車の中で西城は言った。 「ホントは、東京に連れ出してやりたかったんだが……」 「今どき、東京にしかないものなんてないよ、西城君。どこ行ったって同じ物買えるし」 「それもそうだな」  一時間後、陽子はあるデパートで、西城が選んだバーガンディのドレスを試着していた。更衣室から出てきた陽子に西城は言った。 「スッゲーいい!」 「やだ、こんなステイトメントが一杯詰まってるようなドレス!」 「いいだろ、似合ってんだから」 「やだ、こんな短いの。膝出ちゃったらどーすんの?」 「オレはオマエの膝が見たい」 「やだ、西城君!」 「今回ぐらい、オレの希望聞いてくれたっていいじゃねーかよー」 「でも、こんなセクシーなのだめだよ、及川の定期公演会で。銀ちゃんが何て言うか」 「聞いてみろよ」  西城は、陽子の写真を及川に送った。陽子は彼に電話した。 「最高じゃない!」  及川は興奮していた。そして、西城と替わって欲しいと言った。西城は及川と話し、電話を切った。 「それ、包んでもらえ。行くぞ」 「どこ?」 「次。黒のハイヒール買いに行く」 「黒のハイヒール?」 「及川先生が、そのドレス着る時は、黒のハイヒールじゃなきゃダメだって」 「はぁ?」  陽子は慌てて、及川にかけ直した。 「これは、短すぎます!」 「大事な彼氏がこれ着てほしいって言ってんだから、あんたもちょっとは折れてあげなさいよ」 「そんな! あたしの希望とかはどうでもいいの?」 「今回だけだから。ね?」  買い物の後は、西城はそのまま車で清水に向かい、陽子はバスでリハの会場へ行った。  今年の及川音楽教室の秋の発表会の会場は、八百人収容の葵区民会館だった。  陽子は及川音楽教室のイベントには、なくてはならない存在だった。幼い生徒達を観客席に迎えに行って舞台裏に連れて行くのも、生徒達を舞台裏から親達の元へ届けるのも、親達の質問に辛抱強く答えるのも、彼女の仕事だった。  当日、陽子は、朝から目まぐるしく働きまわり、もうすぐ自分の出番だというのも忘れて、人気のないロビーで、 「間違えちゃったぁー!」  と、自分の肩に泣きじゃくる中学生の女子を慰めていた。 「気付いた人いないよ。上手く胡麻化して、冷静に弾き続けたから偉いよ」  そこへ、西城が舞台裏から走ってきた。 「及川先生が探してるぞ。オマエの出番だろ? いつまでもガキのデブリーフィングにつきあってんじゃねーよ」 「もう行かなきゃ」  陽子は中学生に言い残すと、サッと踵を変えて、舞台裏に走った。  及川は黒のフォーマルで決めていた。ストレートの長髪が肩にかかっていた。陽子は及川が女言葉を使って話す、数少ない人間の一人だった。 「あんた、どこいたの?」 「ロビー」 「化粧直してきなさいよ」 「そんな時間ないよ」 「もー、しょうがないわねっ!」  及川はフォーマルのポケットから口紅を取り出すと、陽子の細いあごを左手で支え、口紅を塗り始めた。 「動かないの!」 「動いてないよ」 「喋んない! 真っ赤な唇が大きく開いてりゃ、上手に聞こえんのよ」  そして、陽子を上から下まで見下ろして言った。 「Gorgeous!」 「嘘ばっかり!」 「ホントだって! なんであたしがあんたに嘘つくのよ!」  陽子が言い返す間もなく、 「ほら、行くよ!」  と言って、彼女の腕を取ると、妹のような愛弟子と、舞台の中央へ出て行った。  及川と陽子の「Time to Say Goodbye」は大成功だった。会場が大拍手で湧く中、一階席の後方で動画を撮影していた西城は、長身の男が速足で会場を出ていくのを見た。 (まさか……!)  西城は三脚から外したカメラをスーツのポケットに入れながら、男を追った。  男は、ホールのドアから外へ出て行くところだった。右手で両目を覆っていた。 (間違いない!)  陽子の元カレの、豊永忍だった。西城は後を追った。 「おい! オマエ! どういうつもりだよ?」  西城は忍に追いつくと、彼の胸ぐらを掴んで、人目につかない会場の横手へ引っ張って行った。 「乱暴だけは、止めてください!」  西城はやっと忍を離した。忍は、フッと笑った。 「何がおかしいんだよ?」 「あなたは、僕と正反対なんだな、と思って」  泣いていたのか、彼の痩せこけた頬が湿っていた。 「何で、あんたがここにいる?」 「遠くから見てただけです。あなた達の邪魔はしない」 「そんなのいいわけないだろう?」 「コンサートに、客として来るだけでもダメなんですか?」  忍は震える声で懇願した。 「そういうのをストーカーつーんだよ」 「∙∙∙∙∙∙!」 「ダメに決まってんだろ? 分かんないのか?」 「∙∙∙∙∙∙」 「陽子が知ったらどう思う?」 「お願いです、彼女には言わないでください」 「陽子には言わない。だが、警察には通報する」 「∙∙∙∙∙∙!」 「あんたら、別れてからそろそろ二年だろ? もう終わったんだろ? 『Time to Say Goodbye』だろ?」  忍は、その大きな骨ばった右手で両目を覆い、すすり泣き始めた。 (こいつら、泣き方までそっくりだぜ)  西城は思った。 「いい加減、あきらめて次行けよ。あんたくらいなら、他にいくらでもいるだろう?」 「忘れられないんだ……」 「オレの女だぞ!」 「分かってます! 分かってます!」  西城は目の前の忍を見た。変わった。以前から痩せていたが、今は骨と皮だけだ。  ホールの外壁に寄りかかった長身は、今にも風に吹き飛ばされそうに細かった。目は窪み、こけた頬は以前の甘いマスクを台無しにしていた。 「あんたも食べれねーのか?」 「僕は……。……眠れないんです」 (どいつもこいつも! どーしてこーメンタル弱ぇーんだ?) 「そんなに好きだったんなら、なんで浮気なんかしたんだよ?」 「なんにも、分かってなかったんです。陽、彼女のことも、自分のことも。なんにも、理解してなかった」  忍は嗚咽しだした。  西城は、ため息をついた。 「陽子にも警察にも言わねーよ。でも、これっきりにしてくれ。次見かけたら、ホントに通報する。いいな?」  忍は目をつぶったまま、頷いた。そして、聞こえるか、聞こえないかの声で、失礼します、と言うと、一礼してその場を去った。 (ホント、生きるの下手な、バカなヤローだぜ。陽子は、あんなへなちょこにイカレてたんか?)  西城が客でうずめくホールに戻ると、陽子が、歓談する客たちをかき分けて駆け寄ってきた。そして西城の広い胸に飛び込み、彼を見上げて聞いた。 「どうだった?」  頬が上気して、ほんのり赤くなっていた。 「よかったよ」  西城は、いつものように爽やかに笑いながら言った。 (オレの女だ! 苦労してやっと手に入れた、オレの女だ!)  西城は陽子を胸に抱きしめた。  そこへ、琴音、片岡、片岡の妹のカノン、佐々木が現れた。三脚を取りに会場に戻った西城を待って、一行は、打ち上げパーティーが開かれる及川宅に移動した。  三年後、十月のスポーツの日がある週末の土曜日、西城と陽子は片岡樹(いつき)∙琴音夫婦と合同で、落成して間もないお茶屋で結婚披露宴を催した。陽子は二十五歳、琴音と片岡は二十六歳、西城は二十七歳だった。  西城の後輩の片岡は、西城と陽子を訪ねて度々静岡に来ているうちに、琴音と付き合うようになった。片岡は、この二年ほどは、東京の叔父の法律事務所で、弁護士として働いていたが、結婚を機に独立し、静岡市に事務所を構えた。  幸い天候にも恵まれ、富士山と真っ青な駿河湾が客を迎えた。披露宴はブッフェ式で、お茶屋の広大な駐車場で執り行われた。オープンしたばかりのお茶屋の宣伝も兼ねていたので、料理は懐石だった。  陽子は、メアリー∙ルーを客の一人として数えていたが、彼女はこういう日こそ役に立ちたい、と言って、ジョニーと共に給仕役として活躍した。  メアリー∙ルーは小柄で、人懐っこい顔は丸く、黒髪はいつもポニーテールにしていた。ジョニーは目の大きい、中国系のフィリピン人で、メアリー∙ルーよりは四、五歳年下だった。  お茶屋の落成を期に、西城と陽子は、メアリー∙ルーとジョニーを古川茶園の社員として雇った。メアリー∙ルーはお茶屋で給仕役を、ジョニーは清掃とメンテナンス全般と庭の管理を担当することになった。  当日は、車の乗り入れは禁止されていたので、客は静鉄バスで次々と到着した。車で来た客は、駐車場手前の道路沿いに駐車し、お茶山の頂上まで歩いて登った。  西城と片岡は、揃いの灰色の光沢スーツで決めていた。陽子と琴音は膝丈までの、光沢感のある白いドレスを着ていた。花嫁達のフレンチ風に編み込まれた髪は、今朝メアリー∙ルーが、カスミソウの飾りを使ってアレンジした。  客がほぼ各自のテーブルに着いて食べ出した頃を見計らって、西城、陽子、片岡、琴音のそれぞれが、客に礼を述べるスピーチをした。  西城はスピーチを結んだ。 「本日に限り、お茶屋のお土産コーナーが、十パーセント引きとなっておりますので、この機会にどうぞお寄りください」 「先輩、こんな日にも商売ですか?」  片岡はからかった。 「親戚縁者を利用しなくて、誰を利用しよーっつーんだよ?」  西城は応じた。  陽子は報告した。 「西城君が一年半に渡って交渉して、なんとお茶山に静鉄バスが通るようになりました。誰もが、バスで市内のどこからでも、お茶屋に簡単に来れるようになったのが嬉しいです」  中高大と、西城の後輩だった片岡は、眼鏡の似合う、落ち着いた雰囲気の男だった。チェロを弾き、クラシック音楽が好きで、陽子とは昔から気が合った。  片岡は述べた。 「本日は食事の後にデザート∙ブッフェが始まり、そして駐車場の中央にダンスフロアが設けられます。及川先生ご推薦の、静大のジャズバンドに合わせて、思う存分踊って下さい」  琴音は宣伝した。 「私は静岡県庁の観光部で働いています。皆さまには、十一月上旬に開催される『大道芸ワールドカップ∙イン∙静岡』にも是非足をお運びいただきたいです。楽しいことは間違いありません! ボランティア大募集中です」 食事中は、陽子と琴音が、及川の電子ピアノに合わせて、オペラ「ラクメ」から「花の二重奏」を歌った。彼女らに続いて藤沢女子高合唱部が 「Happy Days Are Here Again」を歌い、全国一の歌声を披露し客を楽しませた。及川も愛弟子の陽子のために、ラモーの「ボレアド」から独唱した。続いて、津田塾でユマニテ(一橋大学津田塾大学合唱団)に所属している片岡の妹、カノンが、数人のユマニテの部員と共に、ワーグナーの「ローエングリン」から「婚礼の合唱」を披露した。これも客に大いに受けた。  余興が終わり、客はデザートを食べ出した。大半の客は、飲み物を片手にテーブルを移り回り、歓談していた。食べ物をすくねようとカモメ、鳩、スズメがテーブルに接近してきた。そんな鳥たちを見て笑っている客もいた。海からの潮風が心地よかった。思い出深い披露宴となった。  ジョニーと助っ人達が、駐車場の中央にダンスフロアを設置し始めた。食事は和食だったが、デザートには和菓子と洋菓子が用意されていた。陽子の茶道仲間達が立礼式で抹茶を入れだした。メアリー∙ルーが、お茶屋から大量のプラスチックの抹茶茶碗を持ってきた。そろそろ、ダンスが始まる頃だった。静大のバンドがチューニングを始めた。  陽子と琴音は、抹茶を飲みながら話していた。正直なところ、「花の二重奏」のリハで、連日及川にしごかれていたので、やっと公演が終わり、二人はホッとしていた。 「高三の夏にさ、陽子ちゃんちで、合唱部の特訓合宿したじゃん」 「あー、したね」 「陽子ちゃんがさ、うちのお茶山の頂上まで、発声練習しながらジョギングしよう、って言いだして」 「そうだったね。みんなスッゴク嫌がってたよね」 「当たり前だよ。五時起きでさ、太陽出ちゃうと暑いから。走るのもさ、もう辛くて、辛くて」 「で、獣道の祠にお詣りして、ここに来て歌ったんだよね」 「そう、富士山に向かって歌えば、日本の頂点に立てる、とかなんとか言って」 「アハハ! あたしって高校生の時から、発想が単純だよね」 「いいよ。単純で。結局日本一になったんだし。そのお茶山が、こんなに変わっちゃったなんて!」 「うん。西城君と変えちゃった」 「時代も人も景色も変わるんだね」 「みんな、いい方向に変わっていってほしいよね」 「うん」  陽子がデザートを取りに行くと、西城と佐々木が立ち話をしていた。 「佐々木君、来てくれたんだね!」 「もちろんです」 「オマエも最近は忙しいからな」  佐々木は、陽子と西城が塾講師として働いていた、国分寺の桐宝予備校の生徒だった。今は東大医学部の四年に在学中だった。  佐々木は、西城より頭一つ背が高く、痩せていた。ストレートの茶髪を首の後ろの生え際で、ゆるく束ねていた。陽子のために新調した紫色の大胆なスーツが、よく似合っていた。  佐々木は陽子に言った。  「今、西城さんにも話してたんですけど、彼女に振られちゃって……」 「えっ? あんなに仲良かったのに」 「オマエのせーなんかよ?」 「違いますよ。サークルの先輩に取られちゃったんですよ」 「マジか?」 「大丈夫?」 「大丈夫じゃなかったです。つい最近まで」 「オマエ、振られてばっかだな」  陽子は、佐々木に向いて言った。 「今日は女子大生、一杯来てるから、ここでだれかいい子見つけて、ダンスして帰りなよ」 「オマエ、そう簡単に見つかるもんじゃねーだろ?」 「ほら、カノンちゃんのテーブルに連れってってあげるから。行こう!」  陽子は、佐々木の腕を取って、グングン歩き出した。  佐々木は、陽子と腕を組んで歩いていることが嬉しかった。陽子は、佐々木の初恋の女だった。 「凄いですよね、西城さん。商才あって」 「そうなの。西城君の出す物は、何でも飛ぶように売れちゃうの。そのうちあたしも売りに出されちゃうかも」 「あー、僕、買います、買います!」 「やだ、佐々木君!」  陽子は目を細くして笑った。  佐々木は誰にも話さなかったが、東大で、ごくたまに陽子の元カレの忍を見かけていた。最後に彼をみたのは、数ヶ月前だった。サークルの友人達と本郷キャンパスを歩いていた時、忍が化学館から出てきた。数学科の友人が聞いた。 「あれ? アンドリュー∙ワイルズ先生、来日してたっけ?」 「金髪じゃねーだろ。よく見ろよ」 「あの人、日本人だよ」 「誰、あれ?」 「吸血鬼?」 「有機D3の豊永さん」 「なんであんなに瘦せてんの?」 「ガリガリだな」 「なんでも、全身全霊で尽くしてた彼女に振られて、不眠症になっちゃったんだって」 「へー」 「残酷な女」 「どこの子?」 「津田」 「なっとくー!」  佐々木は最初、彼が誰だか分からなかった。陽子と付き合っていた頃の「忍君」は、痩せてはいたが、健康的で幸福そのものだった。その時、佐々木は思った。 (振られたのは、古川先生じゃなかったのか?)  このままずっと、陽子と腕を組んで歩いていたい、と思いながら、佐々木は聞いた。 「幸せですか?」 「幸せだよ」 「よかった!」 「だから、佐々木君にも、幸せになって欲しい」  陽子は、カノンのテーブルで、佐々木を現役の女子大生達に紹介した。  ダンスが始まるのを見て、陽子はお茶屋に入り、中でくつろいでいる客の給仕をした。窓際のテーブルには、津田の先輩の吉田百花(ももか)と婚約者のダニエルが、富士山と駿河湾を見ながら緑茶を飲んでいた。  百花は、目鼻立ちのはっきりした、稀に見る美女で、津田塾時代は、授業に出ないことで有名だった。百花は卒業後、ドイツでインテリアデザインを学んだ。現在はサザビーズと並ぶ高級不動産業界の老舗、フォン∙ザッハジンガーで、インテリアデザイナーとして働いていた。  ダニエルはフォン∙ザッハジンガーの御曹司で、淡い金髪とアクアマリンのように淡い青色の目を持った男だった。よほど暑くない限り、スウェードの背広に蝶ネクタイというファッションを好んでいた。  三人は英語で話した。 「先輩、ダニエルさん、お食事はどうでした?」 「あー、美味しかったよ。御馳走様」 「あんな美味しい懐石だされちゃ、ホント、食べすぎちゃうよ」 「よかった!」 「僕はね、ホントは来ないはずだったの。アメリカに出張してたはずだったの」 「でも、このお茶屋はクロダが設計したんだよって言ったら、じゃ、行くって。調子いいよねー」 「うちのチームがどんなに頼んでも、仕事引き受けてくれないのに……!」 「西城の父親とクロダが幼馴染なんです」 「羨ましい!」 「ダニエルがね、このお茶屋、丸っと買いたい、って西城さんに言ったら、笑い飛ばされてた」 「アハハ!」 「ホント、いいね、この絶景!」 「外の風景も最高ですけど、先輩のお陰で、内装も素敵になりました。ありがとうございました」  陽子は、百花に頭を下げて礼を言った。お茶屋の内装は、百花が請け負った。 「ホントは自信なかったんだよね。和洋折衷のコンセプトが、いまいち自分でも分かってなくて」 「あたしも西城君も気に入ってます」 「それなら、よかった!」  ダニエルと西城は、共同で企画を立てるようだった。西城が、東海地方の海の見える物件を、フォン∙ザッハジンガーのために見積もるらしかった。二人共、不動産に情熱をかける男だったので、話が合った。  百花とダニエルは、陽子の実家に泊まっていた。二人は、明日は富士山に向けて発つ予定だった。  陽子は、ダンスは遠慮させて欲しいという百花とダニエルを残して、口笛を吹きながら、西城と踊るために、お茶屋を出た。  陽子の津田のゼミ友達が、ダンスフロアからほど遠くないテーブルに座って話込んでいた。披露宴に参加したのは、葵、加奈、渚、モク、そして美緒だった。  ポニーテールが似合う葵は、メーカーに就職したが、最近弁護士になるために退職し、法学院の学生になった。陽子より背の高い加奈は広島の県立高校で英語を教えていた。黒縁の眼鏡の渚は貿易関係のNPOで、色が白くぽっちゃり型のモクは浜松のヤマハの人事部で働いていた。脚線美が自慢の美緒は、保険会社の営業部で働いていたが、もっと条件のいい職場への再就職を考えていた。 「いいね、こういうブッフェ式のカジュアルな披露宴」 「会社の上司の長ったらしいスピーチも、両親への手紙とかもないしね」 「入学した頃は、一橋の男子なんて、って肩で風を切って歩いてた陽子ちゃんが、結局一橋の人とくっついちゃったんだね」 「一時はどうなることかと思ったけどね」 「ああ! 誰だったけ?」 「あの東大のピアニスト」 「いたよね、そんな人」 「でも、陽子ちゃん、立ち直った後は、結構ケロっとしてたよね」 「ホント、よかったよ。西城さんとまとまって」 「だよねー」 「でも、あたしはいつも思ってたよ。陽子ちゃんは、適齢期ごろ結婚するんだろうなーって」 「なんで?」 「だって、子供欲しいって言ってたもん」 「でも、子供はまだ作らないらしいよ」 「そうなの?」 「うん。なんでも、抹茶の収穫が上手くいかないことには、子供どころじゃないらしいよ」 「一筋縄じゃいかないんだね、農業って」 「実家のお茶園手伝いながら、お婿さんもらって、気楽に英語とかピアノとか教えるのかと思ってたら……」 「本人もそのつもりだったんでしょ?」 「今は、お茶の先生と農業とレストラン業か」 「でも、英語はかなり使ってるよね。SNSもバイリンでやってるし」 「茶道も英語で教えてるんでしょ?」 「流石だよね」 「方向変えたのは、陽子ちゃんだけじゃないよね」 「葵も今は、法科大学院の学生だし」 「陽子ちゃんみたいに、早めに方向変えときゃよかったって、後悔してる」 「いいじゃん! サラっと変えられるだけ凄いよ」 「そうだよ。法曹になる頃は、まだ三十でしょ?」 「余裕、余裕!」  皆が楽しんだ披露宴も無事に終わり、西城と陽子は二人の忙しい日常に戻った。  西城は実に商売がうまかった。次々と面白い企画を出してきた。  大晦日から元旦は、二十四時間営業で、客は、お茶屋から駿河湾に昇る初日の出を堪能できた。成人の日、ひな祭り、子供の日、母の日、父の日、七夕、七五三、バレンタインデー、ホワイトデー、クリスマスには、季節にあった懐石料理と和菓子を、抹茶と共に提供した。七夕には大きな笹の木を、クリスマスには巨大なクリスマスツリーを、駐車場の中央に飾った。すでにお茶屋は、市内の観光の名所に挙げられていた。  陽子を亭主として、花見と紅葉の季節に催される大寄せ茶会は、大成功だった。陽子と四十人ほどの茶人が、同時に立礼式で茶を点てる周りに、数百人余の客達が集い、カジュアルに歓談しながら、茶と菓子を楽しんだ。まるで源氏物語絵巻を見ているかのような、華やかさだった。格式張っていない茶会ということで、毎回各メディアで紹介されていた。  お茶屋の正面玄関を入ったロビーには、小さなギャラリーがあり、売り物の茶道の道具が、製造者の名前と共に展示されていた。茶碗の品揃えもなかなかだった。お茶屋の会計場の横は、土産物コーナーになっており、古川茶園の茶はもとより、茶碗、箕臼、テイーポット、重箱、箸、扇子、高級あられ、和菓子などが売られていた。西城のアイデアで、雛祭りには、海外からのバイヤーを意識して、お内裏様とお雛様だけの、コンパクトな雛人形を売った。コケシのような立ち雛を見て、陽子は聞いた。 「どっからこんな可愛いの見つけてくんの?」  西城は褒められて嬉しそうだった。土産物コーナーやギャラリーで売られる全ての商品は、もちろんネットでも買えた。  満月の夜は「満月の茶会」と銘打って、夜中の十二時まで店を開けた。客は富士山の肩に乗った満月を堪能しながら、デザートに付いてくる和菓子と抹茶を楽しんだ。抹茶は陽子が点てた。採算の取れない日もあった。特に宵から曇りだした夜などは。しかし、西城は、「満月の茶会」を辞めなかった。 「満月の夜は、オレがオマエと二人でいたいから」  ガラにもなく、ロマンティックなことを言って陽子を感激させた。  真夜中に二人で店を閉め、片付けを済ませ、オフィスのソファで性交することも多々あった。大きな窓の外に、手が届くくらい近くに輝く満月が見える時などは。  オフシーズンには、修学旅行途中の生徒や、慰安旅行中の老人ホームの住人が、バスで次から次へとお茶屋にやって来た。 (どうして誰も彼もが、西城君に説得されちゃうんだろう?)  陽子は不思議だった。彼は営業をするために生まれてきたような男だった。  陽子は、メアリー∙ルーと、できる限りお茶屋で給仕をしたかったが、年々外での仕事が増え、そうもいかなくなった。西城は陽子に、立礼式で茶を点てる仕事をドンドン入れた。陽子は、小中高等学校、各大使館、外資系企業に出張し、茶道を紹介し茶会を開いた。「世界お茶まつり」、「全国お茶まつり」、「日本お茶フェス」などの主要なイベントでも、ボランティアとして茶を点てた。  お茶屋の西棟は茶室になっており、ロフトに畳の入った通常の茶室が三部屋、下の階に大きめの立礼式の茶室が一部屋、用意されていた。茶室は、陽子が使用していない時は、常に貸し出されており、いい収入源になっていた。西城は茶室を、中高大の茶道部や地域の団体にはタダ同然で貸した。立礼式の茶室は会議室にもなり、地元の企業に人気があった。通常の茶室も、必要とあればフローリングマットを敷いて、簡単に立礼式の茶室に変身させることができた。西城が望んだように、古川のお茶山は、静岡の茶道の中心地になりつつあった。  来年は、奥静岡に、抹茶を製造する工場を建てる予定だった。再来年には、ついに抹茶用の茶木が成長し、初めて収穫が可能になるはずだった。それまでは、不本意ながら、宇治や西尾の抹茶を使って凌がなければならなかった。 「オレ達、ここからが正念場だ」  西城はよく言った。  陽子が二十七歳、西城が二十九歳の春に、古川茶園は、ついに自家製の抹茶を販売した。飛ぶように売れた。もはや、陽子の茶道用の抹茶や、お茶屋で出す抹茶や抹茶デサートに、他所の製品を使う必要もなくなった。  奥静に建てた工場では、五百個もの石臼が、コンピューター制御で稼働し、碾茶を挽いた。帰国して、日産で電気自動車を作っていた祥梧が、休みの度に静岡を訪れ、工場建設の工程をチェックした。  古川家は、工場の落成を期に、母屋の横に建つ加工工場を閉め、抹茶以外の茶の製造も、奥静の工場に移した。西城は空になった加工工場を、自分と陽子と未来の子供達のために改装した。設計はもちろん、スイスの哲郎小父さん、こと黒田哲郎が受け持った。陽子は新居の写真を、百花とダニエルに送った。  陽子の両親は、近所に小さな家を買って引っ越した。母屋は事業に利用した。茶会を開いたり、季節労働者を宿泊させたりした。通信販売部の発注作業は、陽子と両親が母屋で担当した。  西城は大介に言った。 「お義父さん、もう犬飼ってもいいんじゃないですか?」  大介は、花子という秋田犬を飼い始めた。大介と花子は、毎晩六時に、ヤスシとタケシと連れ立って散歩に出た。  近所の、大介が子供の頃からの顧客も、めっきり年を取って少なくなった。西城は、陽子の両親と杉山が退職する頃合いを見計らって、ゆくゆくは本店を閉める計画だった。  その年の秋の大寄せ茶会が終わり次第、西城と陽子は、ヨーロッパを飛び回り抹茶を売った。  コペンハーゲンの食品展示会では、スイスの卸売り業者と提携し、古川の抹茶が、高級百貨店グローブスやスーパーの最大大手ミグロで売られることになった。  陽子達は、デンマークから、ハンブルグに車で移動し、百花とダニエル宅に泊った。ダニエルはフォン∙ザッハジンガーの本社を案内し、現在自分が手掛けている、ハンブルグの物件を見せた。 「なんか、桁が違うね」  超高級不動産の世界を垣間見て、陽子は呟いた。百花がからかうように言った。 「クロダが設計した家に住んでる人が、何言ってんの……!」 「そうそう、彼が一般住宅の仕事したの、初めてなんじゃないかな」  ダニエルも羨ましそうに言った。  二人は、彼らを引き留める百花達に別れを告げて、車で南下し、チューリッヒで哲郎小父宅に泊った。西城の父とはスキー友達でもある哲郎小父は、西城と陽子をダボスの彼のチームが建てたホテルに招待した。  恐縮する陽子に小父は言った。結婚式には仕事で出られなかったから、これくらいはさせて欲しい、と。西城と哲郎小父は、リゾート物件について話が尽きないようだった。三人はダボスで二日間スキーを楽しんだ。  遊んでばかりいては抹茶は売れなかった。次はケルンのANUGA食品見本市で、二人は古川茶園のブースを出した。ここでは古川の抹茶が、嗜好飲料部門で金賞を受賞した。陽子達は、ケルンでイギリスのセルフリッジズのバイヤーと意気投合した。彼はカナダのバンクーバーの出身で、幼い頃はそこに住む聖子おばの元で、毎年の夏休みを過ごしていた陽子と話が弾んだ。ウィスラーが好きな西城を交えての雑談が、いつの間にか商談となり、なんと、セルフリッジズ主催のオリエンタル∙フェアで、期間限定で、古川の抹茶が看板商品として売られることになった。 「どうしたんだよ、これは? オマエが着物着てっからか?」  西城にも、予想外の展開だった。  次の仕事場は、SIAL主催のパリの国際観光見本市だった。陽子は着物姿で抹茶を点て、TORAYA PARISで揃えた羊羹やどら焼きと一緒に、視察客をもてなした。古川茶園のSNSには、連日かなりのフォロワーが付き、ネットや電話での、各国からのバイヤーの注文や質問が殺到した。それらには陽子が英語で応対した。  展示より視察に燃える西城は、初日が終わると宣言した。 「奥静の茶農家と提携して、抹茶の生産、倍増するぞ!」 「倍増? 大丈夫なの?」 「ああ。畑が足りねーんだよ。売れ行きが良すぎて。あと、今年は間に合わねーが、来年から、おせちや、土用の丑の日のウナギや、粒あんや練あんを、真空パックでネットで売ろうぜ」  これ以上、通販部を拡張するのか? と陽子は素直に喜べなかった。彼女は、今でさえネットでの受注、発注に追われ、年末には店に立つこともままならなかった。 「人手がないよ。年末はお茶屋も混むし。いつもお父さんとお母さんに発注手伝ってもらって、いっぱい、いっぱいでやってんのに」 「そうだな。子供が生まれたら、益々忙しくなる。帰国したら、すっげー敏腕のマネージャー雇おうぜ。前からそのつもりだったし。年末はもっとパートも入れよう」 「これって、上手くいってんの?」 「オマエ、上手くいってんなんてもんじゃねーぞ。大繁盛だ。頑張ってきたかいがあったな」  西城は、いつものように爽やかに笑った。 (ずっと側についてきてくれた。この人は、なんでこんなに真っ直ぐなんだろう?)  陽子は、思わず西城の手につかまった。西城も陽子を広い胸に抱きしめた。  パリを後にして、二人はカレーから車でイギリスに渡った。予定を変更して、ロンドンで、新しい取引先のセルフリッジズを訪問し、陽子達の抹茶以外の製品を試飲してもらった。西城はお茶屋で上げた利益を投入して、古川茶園の全ての商品を有機化していた。包装には、生分解性プラスチックを使用していた。  緑茶に詳しいマーケティング部の幹部が言った。 「これは、美味い! 間違いなく売れる。オリエンタル∙フェア以後も、取引を続けたい。もちろん抹茶だけではなく、煎茶もほうじ茶も玄米茶も!」 二人はホクホクとした思いで、セルフリッジズを後にし、宿泊先のウィンブルドンに向かった。陽子は西城の隣で口笛を吹きながら、ウィンブルドン∙センター∙コートのポッシュなショッピングモールを意気揚々と歩いた。  ふと、ショウウィンドウに飾ってある、白いセーターに目が留まった。 (なんて素敵なデザインだろう!)  店の名は、Out of Aranといって、アイルランド西部のアラン島の物産、主にセーター類を扱っていた。 「西城君、ここ入っていい?」 「ああ」  陽子は、グングンと店に入っていった。ショウウィンドウのセーターは、アラン島で生産された男物だった。陽子はアイルランド特有の模様編みから目が離せなかった。 (こういうの、西城君に着て欲しい!) 「西城君、これ、あたしから送っていい?」 「オレに? とっくり?」 「ダメ?」 「ダメじゃねーけど」  西城は、試着して一番合うサイズを選んだ。農業と柔道で鍛え上げられたしまったカラダに、白いセーターがよく似合った。店員は西城に、アジア人の男性モデルになって欲しいと誘った。 「お断りします」  西城は、いつものように爽やかに笑いながら断った。 「やだ、西城君、カッコイイ!」 「オマエ、こうゆうんが好きなんか?」 「うん」  陽子から、微かに、あの甘い花の香りが漂ってきた。 (コイツ、セーターに感じてんのか?) 「こういうの着た、アイルランド人の男の後、くっついて行くんじゃねーぞ」 「今、ギュッとして欲しい」 「後でな。店の外で」  西城は、困った奴、というように陽子を見て笑った。  店の外で、西城は約束通り、陽子を力強く抱きしめた。陽子は西城の腕の中で、セーターの胸の網目模様を、細長い指でなぞっていた。 「これ、やっぱり似合う」 「そーか?」 「うん」 「ありがとうな。大事に着るよ」  西城は、いつものように爽やかに陽子に笑いかけた。 「今すぐしたい」 「オレも」 (まただ)  西城は気付いた。陽子から、あの甘い花の香りが漂ってきた。セーターを買っていた時より濃くなっていた。  二人はショッピングモールを出て、ウィンブルドン∙コモンに面したB&Bに歩いて帰った。  二週間のヨーロッパ出張が、もう終わりに近づいていた。二人はロンドンから飛行機でボルドーに飛び、そこから車をレンタルして、アルカッションのホテルに一泊した。大西洋からの風が冷たかった。真冬の、ひっそりと静まりかえった漁村だった。夏場は海水浴客でにぎわい、フランスでも有数の観光地となる所だった。  二人は、車でデュヌ∙ド∙ピラへ行った。西城が、ヨーロッパ最大の砂丘に登って、満月を愛でたいと言った。  真冬の日は短かった。二人は、人っ子一人いない暗い駐車場から、なだらかな砂道を砂丘へと登っていった。聞こえるのは、二人の靴が砂丘を踏みしめる、柔らかい音のみだった。 「すまなかったな。オレの行きたいとこにばっかひきずり回して。オマエ、ヨーロッパ初めてだったのに」 「なんで! 楽しかったよ!」  陽子は、チューリッヒではオペラを観、ロンドンではアルゲリッチのピアノリサイタルに行った。文句はなかった。  目の前に広がる砂丘を見て、陽子は感嘆の声を上げた。 「すっごーい!」 「だろ?」  いつの間にか、かなり高い所を歩いているのに、砂漠の真ん中にいるような錯覚に捕らわれた。右手はるか下に大西洋が、左手はるか下に松の森が、果てしなく広がっていた。満月が、静かな海の上に浮かんでいた。 「標高は?」 「一番高いとこで、百メートルはあるらしい」 「凄いとこ来たね」 「ああ」 「最初は、なんでこんな辺境? って不思議に思ったけど∙∙∙∙∙∙」 「祥ちゃんがさ、去年学会でビヤリッツに行って」 「ああ、そうだったよね」 「学会さぼってほとんどサーフィンしてた、とか言ってたけど」 「アハハ。祥梧さんらしね」 「で、そこで知り合ったフランス人に、ぜってーアルカッションに行け、って勧められたんだって」 「で、ここ来たんだ?」 「ああ。オレも写真見してもらった。で、今度は祥ちゃんが、オレにぜってー行けって、うっせーの、うっせーの。陽子さんに見せてやれって」 「えー、ありがたーい! そういえば、南仏は日本人全然いないよね」 「日本人っつーか、アジア人がいなくね?」 「そうだね。ヨーロッパ人の観光地なんだね」 「どっか特別な所に連れてってやりてーと思って。二人だけの、最後の海外旅行になりそうだしな」 「あ、そーか」  お茶屋も不動産業も軌道に乗った。抹茶の売り上げも上々だった。陽子の茶道家としての未来も明るかった。  二人は、ついに親になってもいい時が来た! と考えていた。  二人は海に向かって腰を下ろし、満月を観ながら、西城がバックパックから取り出したチーズとフランスパンを食べ、赤ワインを飲んだ。 「寒くねーか?」  西城が聞いた。 「うーうん。ずっと砂丘登ってたし」  陽子が歌いだした。青みがかった満月が聴いていた。青い月、青い砂丘、青い海。西からの潮風が冷たかった。  陽子が歌い終わった。耳を澄ますと、砂丘のはるか下から、微かに波の音が聞こえた。潮風に、陽子のウェーブがかった髪が揺れた。 「オマエ、ホント、歌うめーな」 「アハハ。ありがとう。それは、西城君があたしのこと好きだから、そう思うだけだよ」 「誰の歌?」 「大昔のイギリスのロックバンドでEcho and the Bunnymenって人達がいたんだけど、知らないよね?」 「知らねーな」 「あたしも知らなかったんだけど、ラジオでこの曲聞いて、Killing Moon っていうんだけど、忘れられなくて」  ラジオからこの曲が流れてきた時、陽子は奥静で茶畑の間を一人で運転中だった。あわてて車を道路の傍らに停め、携帯で歌詞を検索した。 「オマエがロック聞くの珍しくね?」 「でしょ? でもこの曲は特別」 「どんな意味なんだ?」 「歌ってる人が作詞したんだけど、詩の解釈はみなさんでご自由にって。自分はどう思ってるかとか、絶対教える気ないみたいよ。秘密だって」 「意地悪じゃね?」 「だよね。ファンが色々ネットで考察してて、死を歌ってるんじゃないか、っていう意見が一番多かった」 「へー」 「月が死なんじゃないかって」 「へー。オマエはどー思うんか?」 「あたし?」  陽子は、なぜか一瞬躊躇した。 「男が、愛を取り戻す歌なんじゃないかな」  陽子は、わけもなく赤くなった。自分はなんて妙なことを言ったんだろう? と不思議だった。ワインを飲んでいてよかった。西城に赤面したことは気づかれたくなかった。 「オレにゃそういう深読みはできねーな。でも、満月の晩にはピッタリの歌だな」 「うん。いいじゃん、歌の意味なんて。その作詞した人、イアン∙マッカロクっていう、凄い強情そうなスコットランド系のおじさんなんだけど、きっと死ぬまで言わないよ。で、死ぬ時は、ホントの意味知ってんのはオレだけだぜ、ってニヤッと笑って死ぬんだよ」  暫く二人は無言だった。 「また忙しくなるな」 「そうだね。でも西城君と一緒になってから、忙しくなかった時なんてないよ」 「オレのせいか」 「アハハ。そうこうしてるうちに、赤ちゃんできるかな」 「ああ。すぐできるといいな」 「ほんとだ。凄く忙しくなるね」 「仕事も子育ても、頑張ろうな」  西城は陽子を自分の広い胸にかき寄せた。 「うん。西城君とあたしのコンビでね」 「オレ、子供沢山欲しい」 「あたしも。可愛い子、沢山産もうね」 「ああ」  二人は、海の上を、ゆっくりと天空に昇っていく、青みがかった大きな月の前で、いつまでも唇を重ね合った。  帰国後、西城と陽子はお茶屋のマネージャーを募集した。  吉住銀行を退職後、慶応の商で教鞭をとっていた西城の父方の祖父の命令で、西城は度々、彼の主催するイベントに参加し、飲食業、不動産業、農業について講演をしていた。  お茶屋のマネージャーを募集した折も、西城の経営者としてのカリスマに魅かれて、彼の下で働きたいという者が、履歴書を送ってきた。誰も彼もが、異様に高学歴だった。西城はそんな履歴書には見向きもしなかった。 「オレは、しっかり給仕できるヤツを探してんだよ」 西城は言った。  猛烈な競争を勝ち抜いてマネージャーとなったのは、新井光という、専門出の二十代半ばの女性だった。  新井の実家は、大阪で焼肉屋を営んでいた。幼い頃から店に出て、両親を手伝ってきた。夢は自分のレストランを開くこと。明るくキビキビしていて、動きが物凄く速かった。何よりも、客を喜ばせようという精神に溢れていた。そして陽子のように、物を売るのが上手かった。 (いるんだよな、物売る天才って)  西城はそういう天才がほしかった。MBAよりも。  当初、静粛な雰囲気のお茶屋で、新井の、「いらっしゃいませ!」という高らかな呼び声に、西城は戸惑った。 「オレ達のお茶屋っつーか、大阪の居酒屋みてーだな」  陽子はそんな西城を笑った。 「色んな人がいた方がいいじゃん?」  今では、二人もメアリー∙ルーも夜の常連客も、新井の威勢のいい呼び声に、すっかり慣れた。陽子と新井が同時にシフトに入ると、その日は大繁盛だった。  新井が来て、二ヶ月ほどたったある早春の朝、西城は、お茶屋のオフィスで仕事をしていた。陽子は富士宮市の茶会で茶を点てていた。  開店後、一時間ほどして、メアリー∙ルーが郵便物を持ってオフィスに入ってきた。 「手紙ですよ」 「ありがとう。そこ置いといて。どう? 客入ってる?」 「ボチボチです」  と、言いながら、メアリー∙ルーはフロアに戻った。西城は、手を伸ばして郵便物の束を引き寄せた。  仕事関係の郵便物に、白い封筒が混じっていた。差出人は、豊永佐和子。埼玉の大宮からだった。陽子に宛てた毛筆風の字が、妙に西城の目を惹いた。豊永という苗字も、どこかで聞いたことがあるような気がした。 (通販の顧客だろうか?)  西城と陽子は、仕事場に着いた郵便物は共有した。西城は自動的に封を切った。  手紙は陽子個人に宛てた物だった。見事な毛筆風のペン字で綴られていた。  陽子様、  大変ご無沙汰しております。豊永忍の母、佐和子です。聡(さとし)から、陽子さんは実家のお茶園を継がれたらしいと伺い、ネットで検索させていただきました。素敵な旦那様と、お忙しくも充実した日々を送られていらっしゃるご様子、本当に喜ばしく拝見させていただきました。  今のあなたにご迷惑をおかけしたくない、と何度も躊躇いたしましたが、忍の事でお願いしたい事がございまして、思い切って筆を取らせていただきました。  忍は、現在は名古屋大学で研究しておりますが、数週間前、山に植物採集に行った際に、ツタウルシにかぶれました。右腕が炎症を起こしまして、通常でしたら二、三週間で治るものが、悪化する一方です。抗生物質が全く効かず、毎日、高熱にうなされています。  うわ言で口にするのは、あなたのことで、大変申し訳なかった、全部自分のせいだ、というようなことを繰り返し申します。  あの子は、当時は私達には何も話してくれませんでしたが、あの子があなたに何をしたのか、だいたいの察しはついておりました。当時、あなたがどれだけ苦しんだのかと思うと、胸が痛みます。  今日、主治医に、このまま炎症が悪化し続ければ、再来週にも、右腕を肘から切断しなければならないと言い渡されました。  身勝手なお願いだとは承知しております。でも、もしご迷惑でなければ、あの子を見舞っていただけないでしょうか? ほんの少しの時間で結構です。   このような暗い話ばかりで、申し訳ありません。幸い、主人も私も聡も健康にすごしております。  こんな昔の話を今さら、とお思いになるのは、ごもっともです。いらして頂けない場合は、どうぞ、この手紙のことはお忘れください。  陰ながら、ご家族のご健康と、陽子さんの茶道の分野でのご活躍をお祈り申し上げます。 豊永佐和子  手紙は、佐和子の携帯電話の番号で終わっていた。  西城は素早く手紙を二つに折ると、背広の内ポケットにしまった。そして、ネットで豊永忍の出版物のリストを検索しだした。  陽子と別れた直後から、急に出版数が増えていた。院生時代は、嗜好飲料用の花香(はなが)や香水の原料を、次々と商業用に合成し、数々の特許を取っていた。その後、アリゾナ大でポスドク研究員をしていた時代は、アメリカ原住民が使ってた薬草をもとに、胃炎や皮膚炎に効く薬を開発していた。特許は、各原住民の自治団体と共同で申請してあった。アメリカ原住民の伝統医学というテーマで、何冊か本も出版していた。一昨年から、名古屋大で准教として働いていた。 (名古屋か。近いな)  西城は、セントアルバン高の後輩で、オーストラリアのモナシュ大で化学を研究している男に、忍の膨大なリストのリンクを送った。十分後に、彼から電話が来た。 「知ってますよ。豊永忍。去年、シドニーの学会ではキーノート∙スピーカーでした。オレもプレゼン聞きに行きました。先輩の知り合いなんですか?」 「いや。どう思うよ、このリスト?」 「この人、化け物ですよ。これ、人間技じゃありません。ここ三、四年は、世界的に権威のある学術誌にしか出版してません。この人、この十年間、寝てないですよ」 「恐らくな」  西城は、後輩に礼を言って電話を切った。忍のリストは、西城にとっては不気味な予言書のようだった。  西城は、間髪入れず片岡に電話をした。 「もしもし? オレ。急で悪いんだけど、豊永忍って男のメディカル、全部調べてくれる? ああ。そうそう。陽子の昔の東大ピアノヤロー。そーいやー、オマエ一度会ってるよな。最近までアリゾナでポスドクしてたらしい。今? 名大。ああ。アリゾナ時代のメディカルも、できたら調べてくれるか? 悪いな、忙しいとこ。いや、急ぎで。済まない。ああ。ありがとう。じゃ」  西城は電話を切り、メアリー∙ルーを手伝ってランチ客の応対をするために、フロアに出た。  三時過ぎにランチ客が去り、西城がオフィスに戻って遅めの昼食をとっていると、片岡から電話があった。 「えーっとですね、20XX年だから、陽子さんが留学した年の六月の下旬に、急性アルコール中毒で、救急車で運ばれてます。あと七月に不眠症で通院してます。七月は二回入院してます」 「理由は?」 「パニック障害です。あと、八月に睡眠薬の飲みすぎで、救急車で運ばれてます。この人、この夏に死んでてもおかしくないですね」 (アイツは食べられなくなるし、コイツは眠れなくなるし……)  西城はため息をついた。 「あと、20XX年に、また睡眠薬の飲みすぎで入院しています」 「オレ達が結婚した年か」 「アリゾナ時代はですね、二回、パニック障害で入院しています」 (めんどくせー男) 「どうして今更、豊永さんなんですか?」  それは西城が聞きたかった。 「オマエ、会ってるよな」 「はい。大宮で」 「どんな男だった?」 「それが覚えてないんです。豊永さんは、ただニコニコして、陽子さんにへばりついてるだけでした。弟さんは覚えてます。プロを目指してる人は、流石だなって思いました」 「で、弟さんはプロになったの?」 「なったなんてもんじゃないですよ。今、日本の若手のピアニストの中じゃ、一番実力があるんじゃないかな」 「へー」 「で、豊永さんがどうかしたんですか?」  西城は、人づてに、豊永が怪我で入院していると聞いた、とだけ告げた。 「この人、陽子さんに未だに未練があるとか……?」 「さあな」 「でも、振られたのは陽子さんでしたよね?」 「ああ。そのはずなんだがな」 「……?」 「悪かったな。変な案件頼んで。忙しいのに」 「構いません」  西城は電話を切った。彼に、佐和子からの手紙を陽子に見せる気は、毛頭なかった。  三週間が過ぎた。西城は、佐和子からの手紙はお茶屋のオフィスに保管していた。時折、陽子に見せなければ、と思うこともあった。  西城は、学生時代は、豊永と口をきいたことはなかった。国分寺で、陽子と塾講のバイトを終えて予備校を出ると、たまに豊永が彼女を待っていることがあった。陽子はいつも、忍君! と言って彼に駆け寄り、長い腕を彼の首に巻き付けた。西城は、陽子の髪に鼻を埋めた、至福に酔った忍の顔を、まだ覚えていた。  あれは、真冬の夜、西城が予備校の玄関を出ると、陽子と豊永が、向かい合って早口で語り合っていた。陽子は前腕を豊永の前腕に乗せていた。互いの手は、互いの肘をまさぐり合っていた。西城は思った、まるでつがいのキリンのようだ、と。  二人は、同時に西城に気付いて、澄んだ目を向けた。まるで、自分達以外の人間が、この世に存在していることを、初めてぼんやりと認識したかのように。  西城は、陽子と忍を再会させたくなかった。そもそも二十一世紀に、ツタにかぶれて腕を切断などあるはずがない、と思っていた。  その三月上旬の快晴の朝、西城は九時過ぎに、車でお茶屋に着いた。真っ青な駿河湾に一船の白い漁船が、ゆっくりと入ってくるところだった。  お茶屋の駐車場を囲うように植えられた桜のつぼみが、膨らんできた。再来週はここで、満開の桜のために、春の大寄せ茶会が開かれる。 (また、忙しくなる)  西城は漫然と思った。  ふと、タクシーがお茶山を登ってきた。黒のスーツにバックパックを背負った背の高い男が一人、お茶屋の玄関前でタクシーを降りた。  男は、近づいてくる西城を待っていた。男は西城に礼をすると、凛と通る声で聞いた。 「あの、古川陽子さんにお会いしたいんですが?」  西城は、答えた。 「古川は、今、山菜を摘みながら、獣道を登ってくるところです。あと十五分ほどで着きますが、中でお待ちいただけますか?」  男は、さっと腕時計を見てから、開店前に恐れ入ります、と頭を下げ、こちらです、と歩き出した西城に続いた。  男は好感のもてる顔つきをしていたが、西城とは目を合わせなかった。  丁度そこへ、黄色い花柄のワンピースに薄青いセーターをはおって、薄緑色の大きなバスケットを腕に下げたた陽子が、駐車場の端の桜の木の下から現れた。  陽子は、獣道をフキノトウを摘みながら登ってきた。今日はランチ定食に、旬のフキノトウの天ぷらに、抹茶塩を添えて出す予定だった。  陽子は二人に気づくと、パタパタと小走りに走り寄ってきた。そして、お茶屋の玄関前に来ると、客に頭を下げた。 「いらっしゃいませ」  若い男は、声を震わせて言った。 「陽子さん……!」 「え? え? もしかして……?」 「はい。豊永聡です。お久しぶりです」  聡はまた頭を下げた。 「聡君! 本当にお久しぶりです! お元気でしたか?」 「はい。僕は元気だったんですけど……」  西城がすかさず、誘った。 「ここじゃ何ですから、中で一服いかがですか?」  西城は、聡を窓際の席へ案内した。駿河湾と富士山が一望できた。しかし聡は、目の前に広がる絶景には目もくれなかった。  西城が茶とお茶請けを持って行くと、聡と陽子が話していた。西城は陽子の隣に座った。 「以前にも、フィールドワーク中に漆かぶれになったことはあるらしいんですけど、その時は軽傷ですんで。今回は炎症が化膿して高熱が出て。どんな薬を使っても炎症がどんどん悪化していって」  聡は、今にも泣き崩れそうだった。 「先週、もうこれ以上放っておくと、命にも関わるということで、とうとう、右腕を切断しまして」  陽子は小さな悲鳴を上げた。 「そんな! じゃ、ピアノは?」 「もう、ピアノどころの話じゃないんです」 「あんなに弾ける人が、腕を切断したなんて……!」 「手術後の経過が芳しくないんです。昨日また、出血が止まらなくなって」  涙もろい聡は、目頭を押さえた。 「熱でうなされると、『陽子ちゃん、ごめん』って何度も言いながら泣くんです。『全部僕が悪かった』って。あと、『おでこ、どうしよう?』って物凄く辛そうに泣くんです」  陽子は息を飲んだ。 「ずっと、迷っていました。ここには、来るべきじゃないって。でも、僕、今からコンサートで熊本に飛ぶんです。どうしてもキャンセルできなくて。九州から帰ってきたら、兄はもうこの世にいないんじゃないかと思うと、居ても立っても居られなくなって。御迷惑は承知の上で、来てしまいました。あの、本当に図々しいお願いなんですが、兄を見舞って頂けないでしょうか?」  そこまで言い終えると、聡は、涙を隠すためだろうか、大きな骨ばった右手で、両目を覆いながら、頭を下げた。彼から嗚咽が漏れた。 「もちろんです! 出血が止まらないなんて! いったいなんてこと! 今すぐに参ります。いいよね?」  陽子は、隣に座っていた西城に許可を求めた。 「ああ」  西城は間髪入れずに答えた。 「ありがとうございます!」  聡は初めて西城と目を合わせて礼を言った。切羽詰まった、涙に濡れた目だった。そして、二人に何度も頭を下げた。 「西城君、何時ので行こう?」  陽子は携帯で時刻表を見だした。聡がオズオズと言った。 「あの、僕、この足で、羽田に行かないと。今出ないと、間に合わないな。あの、恐れ入ります、タクシーを呼んでいただけますか?」 「私がお送りします」  西城は、テーブルからすくっと立ちあがった。  西城は、お茶屋をメアリー∙ルーに任せ、陽子と聡を静岡駅へ送った。西城は、駅からお茶屋に戻るやいなや、佐和子からの手紙を処分した。  東京への新幹線の中で、陽子と聡は斜めに向き合って座った。陽子は聡に聞いた。 「あの、忍君は、奥様は?」 「シノちゃんは独身です」  陽子は信じ難い、と言うように聞いた。 「あの、でも、なんで! なんで、忍君はもう十年近くも前のことを、そんな風に思い詰めてるんでしょう? 熱が出て、ただ昔のことを思い出しているだけなんですよね?」  聡はしばらく何も言わなかった。 「シノちゃん、陽子さんと会わなくなって、すっかり変わっちゃったんです。あの人、ここ何年かは、あんまり寝ていない……」 「ここ何年かあんまり寝ていないって、どういうことなんですか?」  聡は、陽子の質問には答えなかった。 「ピアノは? 片腕で、ピアノはどうなるんです?」 「兄さんは、もうピアノ弾かないんです。ここ十年あまり、ピアノに触ったの、見たことない」  そう言って、聡は新たな涙を流した。 「いったい忍君に、何があったんですか? あの……、聡君は知らないかもしれないけど、忍君にふられたのは、あたしなんです」 「兄さんは、何も言わなかったけど、大体何があったか、想像できます。そもそも陽子さんみたいな人に、兄はどうしてそんなことができたのか……! 僕は理解に苦しみます!」  聡は声を震わせた。  陽子は、津田を卒業して以来の、西城との自分の二十代を振り返った。お茶屋の経営と茶園の拡大と茶道の研修と指導で、毎日が目まぐるしく過ぎていった。ここ数年は、忍の存在さえ忘れていた。  陽子は、聡はどうやら忍の私生活についてはあまり話したがらないようだ、と察知し、話題を変えた。二人は東京まで、主に聡の華やかな音楽活動や、彼が共演した著名な音楽家たちについて語り合った。   新幹線は東京駅に着いた。聡は別れ際、また何度も頭を下げて礼を言った。そして、ホームに降り立つや、足早に雑踏に消えていった。陽子は、八重洲中央口のタクシー乗り場に急いだ。  陽子が慈恵医大の受付に着くと、時刻はもう一時を回っていた。  陽子は受付で指示されたように、トイレで手と腕を石鹸で丁寧に洗った後、壁に設置された消毒液で、手をまんべんなく消毒し、三階の忍の病室に向かった。  陽子は忍の個室の前にきた。ドアを開けようとノブに手をかけると、中から、かすれた歌声のようなものが聞こえてきた。 Nulla in mundo pax sincera sine felle; pura et vera dulcis Jesu, est in te  二人が、大宮で共演した時に、忍のピアノに合わせて陽子が歌った、ヴィヴァルディの「Nulla in mundo pax sincera」だった。  忍は途切れ途切れに、息をするのも苦しそうに歌っていた。歌い終わったのか、嗚咽が聞こえてきた。まるで魂を引き割かれた、もはや人間ではないようなものが、辛うじて声を出しているかのように聞こえた。  陽子は、ドアのノブに手をかけたまま、息を殺して、忍の病室の前に立っていた。
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