先生、このまま円安が続けば海外で売春婦になる日本人は増えますよね?

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風薫る5月から梅雨の6月への季節のうつろいは、一年の中で最も倦むべきものだと誰かが言っていた。予報では明日からは雨。いつ梅雨入りしてもおかしくはない。 水際小夜子(みぎわさよこ)は大学での講義を終えて、条件反射のように白山通りに沿って歩いた。都営三田線の千石駅の入り口に差し掛かった時に、ふと六義園(りくぎえん)の存在を想い出した。 「仕事で近くまで行きながら、六義園でつつじを見なかったの? もったいない」と、少し前に駒込駅前のこの庭園の存在を教えてくれた友人の呆れ顔を想い出した。庭園というからには、四季を通じて楽しめる場所には違いないが、「桜もつつじも季節は過ぎて、次は紅葉」と言われてしまうと、なんとなく紅葉までは我慢した方がいいような変な暗示にかけられる。とりあえず、今日は場所の下見をもしよう。そんな思いでGoogleマップを見ると、六義園はそれなりの広さがあり、一番近い端まではこの場所からあっという間なのだと理解した。 単なる思い付き、あるいはただの暇つぶし。 しかし、これこそが科学の歴史にさまざまなブレイクスルーをもたらせたセレンディピティ、彼女の大好きな言葉だ。いままでの人生で彼女の身に起きたセレンディピティが科学の歴史に貢献したことは一度もないが、ささやかな偶然は何度か彼女の人生に喜びをもたらしてきた。 思いついた時は。あれこれ考えずに行動する、―それが博士号を持つ研究者として大手素材メーカーで仕事を続けていた彼女が常に大事にしてきたことだった。 このあと7時から仕事関係者との定期的な飲み会がある。場所は丸の内。小夜子は昔からまったく酒が飲めなかったが、飲酒を強要されたこともなければ、社会人として下戸であるデメリットを感じたこともなかった。周囲の酔っ払いに合わせて、自分は素面のまま、まったくストレスを感じず楽しく会話をすることができたし、だいたい今流の言葉で言えば二日酔いほどタイパが悪いものはない。気がつけば若者が酒を飲まなくなり、自分は少し時代を先取りしていたと言えないこともなかった。 集まるのは同年代の人間ばかり。毎回、必ず誰かしらの口から役職定年の話が持ち上がる。今当たり前の既得権益が1,2年のうちに取り上げられるという現実が親しい人々に迫りつつある中で、彼女は今年度から初めて大学で週一コマの講義を担当することになった。この年齢でも新しいチャレンジを与えられ、知的好奇心を刺激される。人生はいつだって楽しい。今までも、そしていつまでも。結婚は40を過ぎてからした。子供を産むことは、全く考えなかった。お互い仕事の忙しい夫婦で、休日は一緒に過ごすことが多いが平日はちらっと顔を見るだけのことも珍しくない。それでも、それぞれの研究が片時も頭から離れることのない二人にとっては、理想的な夫婦生活と言えた。お金の苦労もなく、欲しいものがあればためらうこともない。運動をすることはほとんどないが、夫婦そろっていまのところ病気もない。仕事の間できるだけ椅子に座らず立つことを心掛けているのがいいのだろうと信じている。 小夜子は昔から童顔で、いまだにアラフォーで通用する。初めて実年齢を知った人間はたいてい、こちらが恥ずかしくなるくらい大げさに驚いてくれて、長い付き合いの人間が傍らにいると「小夜子さんは詐欺師だから」とお約束のようなツッコミをいれてくれる。 子どもは好きだったが、自分が母親になる姿を一度も想像できなかった。想像できないことは、現実にはならないと言うが、振り返ればまさにその通りだ。でも、初めて大学で講義をした時、出席していた学生たちを自分の子どものように思えた。どうやら私にも母性本能はあるらしい、それが大学の教壇に立った時の最初の発見だった。 千石一丁目の交差点から不忍通りに折れると、すぐに六義園を示す標識が見える。2ブロック先を左手に入ると、右側の土地が高い塀に囲まれている。 ここまで近いとは…、友人の呆れ顔の意味がわかった気がした。 駒込駅方面に向かって、庭園に沿って防護柵のある歩道を歩いた。向かいから首元にストールを巻いた背の高い女がゆっくりと歩いて来る。女は派手な顔をしていた。小夜子と較べたら、彼女は客観的にかなり年上に見えるかもしれない。すれ違う直前に、小夜子は二人の間の年齢差はほとんどないと直感した。そして、あんなにしっかり化粧をしたことなど、人生で数えるほどしかないと気がついた。女が去った後には何かを隠すような強烈な香水の匂いが残る。名前は知らないが、この香りにはどこかで嗅いだ覚えがある。 広い本郷通りに出て左に歩けば通りの反対側の駒込駅が目に入る。道沿いを駅の方に進めば、階段を上ることもないまま、青い欄干のある駒込橋の上に立つ。下を山手線がくぐった。巣鴨方向に向かう電車で追いかけていると、古い二階建てアパートの端の数分の一だけを切り取ったような、クリーム色の建物の気がついた。正面には赤い郵便のマーク。駒込駅前郵便局。 先ほどまで講義をしていた場所は、彼女の感覚では大学というよりオフィスビルに近い。この場所の方が、よほど自分が学生の頃の匂いが残っている気がした。 まだ時間もあるし、この界隈を離れてしまうのがなんだかもったいな気がする。 小夜子は郵便局の前を通って来た道を引き返した。 すぐ近くに、いかにも昭和の喫茶店という洋風の建物があった。サンプルの飾られたショーケースにはチョコレートパフェとプリンアラモードが並ぶ。古びた感じはまったくない。入口のドアにはステンドグラス。小夜子は引き込まれるように中に入った。 Tシャツ、ジーンズにエプロンをした金髪のウェイトレスが「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」と笑顔を見せた。今まで自分の講義を聞いていた大学生の一人でもおかしくない、そんな見た目だ。フィールドワークが始まれば学生の顔と名前をそれなりに覚えるとは思うが、講義だけの段階では無理だろう。一応努力はしているけれど。 小夜子が大学入試の追い込みをしている時に、年号が昭和から平成に変わった。一人で喫茶店に行けるになったのは平成になってからで、昭和の喫茶店で一人で勉強をしたことはない。それなのに、外観も、内装も、昭和という言葉を連想させる。二本の通路を挟んで両側に四人掛けのボックス席が整然と並んだレイアウト。奥にカウンター席。椅子にはすべて濃紺のベルベッドが張られている。初めて入った店なのに懐かしさしかない。金髪のウェイトレスの存在だけが、令和をつなぎとめているような気がする。 ふと横を見るとひとりで座っていた若い男がこちらを見上げていた。テーブルの上には英語の本が置かれている。小夜子はその顔を数時間前に見ていた。 「あ、先生」若い男が立ち上がった。上はオーバーサイズのブルーの半袖シャツ、下はオリーブ色のカーゴパンツ、背丈は頭一つ小夜子より高かった。 こういう時はどう反応すしようか考える間もなく、「あら、生徒さんよね」と自然と言葉が出た。 「はい、坂井(さかい)といいます、待ち合わせですか?」 「いいえ、ひとりよ」 「ご迷惑じゃなければこちらいかがですか、先生にお訊きしたいことがあって」 「勉強のお邪魔じゃないかしら?」 「そんなことありません」 坂井はボックスシートの通路側に座り奥側にリュックを置いていた。 「じゃあ」と言って小夜子は、坂井のはす向かいになるように奥側に座り、手前にトートバッグを置いた。坂井は小夜子が着座するのを待って、腰を下ろした。彼の前に置かれたアイスコーヒーのグラスが小夜子の目に入る。さすがにこれでチョコレートパフェを注文するのは無理、彼女はメニューに手を伸ばした。 「先生、ここのおすすめはチョコレートパフェです、甘いもの大丈夫でしたら」 「坂井君、甘いもの好きなの?」 「はい」 「だったら一緒に食べましょうよ、ご馳走するわ」 「いいんですか?」 若者らしくていい反応だ、小夜子は思った。「いいわよ、遠慮しないで」 小夜子が坂井の顔を記憶していた理由は、彼に好感をもっていたからだ。 彼女が担当しているのは「女性のリーダーシップと企業文化」という講義で、100名ほど入れる教室には男子の姿は多い時でも5人。その中で最も出席率が高いのが坂井だった。 小夜子は理学部で修士課程を修了し、大手素材メーカーに研究職として就職、その後論文を提出して博士号を取得した。彼女の研究は社内では日の目を見なかったが、学会や異業種交流のイベントなどに数少ない女性研究者として社を代表して参加する機会に恵まれ、その流れで知り合った大学教授の推薦で今年度から非常勤講師として大学の講義を担当することになった。 学生時代の彼女は、今の坂井とは正反対の、95%が男子という環境で日々を過ごしていた。学生時代の彼女の発見の一つに、「マイノリティは迫害されるか溺愛されるかのどちらか」というのがある。幸いにして、たいていの男子は彼女に優しかった。似たようなことが今、目の前の男子学生の周りで起きている。女子彼はなかなかかわいい顔をしていて、彼がいるといないとでは教室内の女子学生の空気が違う。明らかに彼女たちの何人かは、正面の小夜子ではなく、窓側に座る坂井の横顔をうっとりと眺めていた。そんな光景を垣間見ることができるだけでも、大学で講義ができることを幸せに感じられる。しかも、彼の苗字は坂井。坂井とは境、境界、中心とは外れた場所。そして自分の苗字は水際、みずぎわ、やはり中心からは外れた場所。彼の苗字を知ってよけいに親近感が湧いた。子どもを持たない自分は、女性としては中心から外れた生き方をしていることは自覚している。悩んだ時期はあるが、今となっては自分にはマイノリティの生き方が会っていたのだと納得していた。目の前の若い男もおそらくマイノリティとして楽しく生きるのだろう。小夜子は子供を見守る母のような気持で眺めた。 この若者と話したいことがたくさんある、でもうまくやらないと、…ハラスメントと受け取られかねないから。 若い世代にハラスメントだと受け取られないためには、こちらの考えを押し付けないこと、こちらの話につきあわせないことが大切だ。彼らは常に時間に追われている、タイパが大事。こちらがよかれと思うことが、貴重な時間を奪い苦痛を与えるハラスメントでしかないことが往々にしてある。手を差し伸べたくても、相手がその気になるまでは何もしてはいけない。この2か月そう肝に銘じてきた。「先生に訊きたいことがある」と言われたとき、手を叩きたいほど嬉しかった。 「お待たせいたした」ウェイトレスがパフェを二つ、機敏な動きでテーブルに並べる。 「いただきましょう」小夜子は坂井に言った。 「いただきます」坂井はチョコレートのかかったクリームを無邪気にスプーンですくい、口に運んだ。小夜子もスプーンを手に取った。パフェを一口、口に入れて目を閉じて「美味しい」と言葉を発して幸せを噛みしめる。眼をあけると端正な顔立ちの若者が待ち構えていたように本題に入った。 「先生は彼女たちを導いているつもりですか? 彼女たちって、先生の授業に出ている女子のことですけど」穏やかな表情、穏やかな口調、それらにそぐわない言葉、小夜子は少し戸惑った。 「え? どういうこと?」 「つまり、先生は彼女たちのロールモデルになろうとしているのでしょうか?」 「ああ、女性のリーダーシップ何て講義をしてるからね、別に私みたいになれというつもりはないわ、そもそも私はリーダーでもないし偉くもない、ただこういう生き方もあるって部分は伝えたいかなあ」 「先生が学生の頃って、理系の女子が珍しかった時代ですよね?」 「そうね」 「だったら、競争は激しくなかったってことですよね?」 「否定はできないわね」 「先生は留学されたんですか?」 「いいえ、チャンスがなかったわ」 「それでも今の地位がある、先生にはロールモデルがいたんですか?」 「女の先輩はいたけど、ロールモデルなんて思ったことはないわ、というより学生の頃はロールモデルという言葉も知らなかった」 「今はリケジョ多いですよね?」 「そう、隔世の感があるわ」 「先生が歩いた道は、多少は広がったのかもしれませんが、結局そこに人が殺到するようになりかえって狭くなったとも言えますよね、彼女たちが、数十年後に今の先生のポジションに就くためには、最低でも留学をして箔をつけるくらいは必要じゃないでしょうか? でも、この円安ですよ、海外で一年生活するのにいくらかかります? そのお金どうやって捻出すればいいんしょうね? それこそ、この円安が続いたら、海外で売春婦になる日本人の女の子がどんどん増えるだけじゃないですか? 日本人の女の子はグローバルでモテるみたいだし、競争が激しくなる前に先に海外に出ちゃった方がたくさん稼げると思います、アムステルダムの有名な飾り窓にはドミニカ共和国出身者が多かったらしいですね、この国もドミニカ共和国みたいな売春婦の輸出国になるかもしれないですよね?」 「そんなデータ、どこかに存在するの?」 「データがなければ見ないふりですか?」小夜子の質問に、坂井は間髪をいれず別の質問を返した。相変わらず、言葉が口調にも表情にも合わない。 答えを探しているうちに、小夜子は日本銀行の調査統計局にいた知人の顔を想い出した。データというものは目的があるから収集される。本当に為替レートと海外で売春をする女性の数に相関関係があるなら、それこそ絶対に収集されることのない不都合なデータということになる。 「先生、学費を稼ぐ為に風俗で働いている大学生がどのくらいいると思ってます? 先生の講義を聞いてる中にだっているかもしれない、先生はきっと道を拓いてきた方なんでしょうね、でも先生の授業を聞いている女子全員が通れるほど、先生が開いた道は広くはないですよね?」 なかなか痛いところをついてくる、小夜子は思った。でも、問題は自分の方にある。この手の質問が出てくることくらい想定しておくべきだった。学生たちともっと話がしてみたいと思っていたのに、この程度で答えに詰まるなんて…。それにしても、なぜこの表情でこんなことが言えるのだろう? 小夜子は理解に苦しんだ。彼の表情に小夜子を糾弾しようとする意志は少しも感じられない。好奇心旺盛な子供のようにわくわくしながら彼女の答えを待っているように見える。 「そうねえ、二つに分けて考えてみましょうか、コロナの辺りからかな、確かに風俗で働く若い女性の報道が増えてきたわよね、奨学金を返すために風俗で働かざるを得ない女の子たちの話もよく聞く、もちろん胸が詰まる話よ、ただ、実は私が学生の頃もたぶんそういう子は確実にいた、ただそれが報道されることもなかった、SNSもなかったから隠し事ができたのかもしれない、それを寛容と呼んでいいかはわからないけど、隠れていた問題が徐々にあぶりだされてきた印象を持っている、いやしくもジェンダー論を教えている身としては避けて通れない現実よね、指摘してくれてありがとう、それから、もう一つは私のことだけど、今まで多くの人たちに支えられて今の私がある、私の力ではないのよ、だから私の生き方に再現性があるかと訊かれたら、ないと答えるしかないわ、だってたまたま。計画性があったわけでもない、小さなセレンディピティの連続というか、たまたまそうなっただけ」 「セレンディピティ?」 「偶然の連続ってことかしら、私の場合はそうね、理系の女性がマイノリティだったから競争が少なかったというのは事実、そうなると、私の経験から伝えられることはこっちかもしれない、競争の少ない場所に居場所を見つけるのは一つの生存戦略かもしれないわね、でもそれが誰にでもできることとも思えないわ、気質の問題もあるのよ、私はマイノリティでいることに居心地の良さを感じられた、でも居心地の悪さを感じる人が実際は大多数だと思う、そうじゃなかったらマイノリティにならないから、それにマイノリティであることはたいていの場合楽なことじゃない、正当な扱いを受けなかったり、差別されたり、迫害されたり…、私はそういう経験をほとんどしないですんだ、やはりたまたま運がよかっただけね、…そうね、坂井君に訊かれて腑に落ちたわ、私は私の経験ではなく私が得た知識を伝えなければいけない、ただ、女性がリーダーシップを積極的にとれるような社会になれば幸せな人が増えるって私は信じているわ」 「それは男と女の両方にとってという理解でいいですか?」 「もちろんよ」 「よかった、これからも先生の講義が楽しみです」 これは社交儀礼かと訝しみながらも、「どうもありがとう」と小夜子は答えた。 彼の意図は何だろう? 私の答えを本当に求めているか、あるいは私の答えなどどうでもいいただの自己顕示欲か、それとも私を困らせようとしているのか…、 安っぽい幸せそうな笑顔がメディアに溢れ、小夜子自身は幸せな毎日を送っているが、幸せを享受している人は実は一握りなのかもしれない。それでも、研究者は研究に没頭しないと成果は出せない。壁一枚隔てて、部屋の外、建物の外には心を痛める現実がうめき声をあげていても、興味があるものだけを見て、聞いて、自分の世界に没頭するのが研究者で、不幸な人を憐れむ時間があるなら、自分の研究を完成させる方がよほど世の中に貢献できると思って今までやってきた。 時分に言い聞かせるように頭を巡らせていると、なんとなくわかってくる。研究所の外には研究所の中とは別の現実があり、二つの現実はつながっていない。大学での仕事を引き受けた以上、私はいままで目を背けてきた現実と向かい合わなければいけない。 「これ、歴史の本なんですけど」坂井はテーブルの上に広げていた洋書を閉じて、表紙を小夜子に見せた。「中世の魔女狩りに関する記述がとてもおもしろいんです」 「どんな風に?」 「男たちは有能な女を恐れ、自分の地位を守るため魔女として吊り仕上げた。女たちは魔女と呼ばれた女を助けなかった。魔女と呼ばれた女は自分たちにはないものを持っていたから、そう思いませんか?」 「一つの解釈としてならありでしょうね」 「どう考えたって女性の方が男より能力高いと思いませんか? 仕事だって女性の方がよほどきっちりとやる、生物学的にも圧倒的に男の方が欠陥商品が多いって聞いたことがあります、だから男は認めちゃえばいいんです、女性には敵いませんって、そうすれば魔女狩りに加担することもない、それに女の人は優しいから、ダメな男のこと放っておけないじゃないですか? みんが一生懸命自分のスペックを上げて競争を激化させているなら、僕はダメな人間として楽しく生きようと思います、僕はマイノリティを志向します」 「マイノリティはいいとして、私はあなたはダメ人間だなんて少しも思わないけど」 「どうしてですか?」 「だってあなたと話してる間に、私はいろいろなことに気づかされたわ」 「ほら、やっぱり先生は優しい、僕の長所を無理に探してくれるじゃないですか?」 「無理なんかしていないわ」 「先生の顔って綺麗ですね、いつまでもかわいいって感じがする」坂井は真顔で言った。 小夜子は本気でドキッとしたが、動揺を隠そうと「大人をからかうのやめなさいよ」とたぶん人生で初めて使う言葉を発して、視線をそらせた。 そらせた視線の先では、先ほどの金髪のウェイトレスがこちらを睨んでいる。 小夜子はピンと来た。彼の耳元で小声で訊いたら彼女を刺激するだけだ。代わりに小夜子は、バッグから手帳とボールペンを取り出し、走り書きをして坂井に見せた。 「あなたの彼女?」 坂井はとぼけるように小首をかしげ、ニコッと笑って言った。 「僕は、先生のやっていることは素敵だと思います」 坂井は掌を上にして、右手をテーブルの上に載せている。知らない世界で小夜子が迷わないように差し出された、見るからにしなやかで柔らかそうなその手。抗えずに小夜子は、坂井の手を握った。 それが合図だったかのように、坂井の姿が眼の前から消えた。 小夜子は平成の初めの学生時代に戻っていた。ノートパソコンもスマホもない。テーブルの上にはコロイド化学の教科書が置かれていた。 月に一度くらい、一人で喫茶店に来て、CDウォークマンで音楽を聴きながら勉強するのが好きだった。あのデバイスはもう捨ててしまったのかな? 少し離れた壁際の席から男と女の会話の断片が聞こえてくる。小夜子はそちらを見た。鎖骨がはっきりと見える丸首の黒いカットソーを着た若い女と、グレーのジャケットにネクタイを締めた大学の教員らしき男が談笑をしていた。二人の姿には、まったく見覚えはない。それでも小夜子は、二人の姿が、勉強に追われていたあの頃の自分の目には入らなかっただけで、自分の周りに当たり前に存在した男と女の光景であることを理解した。 女子大生に溺れる大学の教員も、大学の教員を手玉に取り女子大生も、たぶん当たり前にいたのだ。 大学の教員を手玉に取る女子大生には決してなれなかったけれど、若い男子学生に溺れる大学の教員には簡単になれるかもしれない、 小夜子は他人事のようにそう思いを巡らせながら、黒いカットソーの女子大生を不安そうに見守るバイトのウェイターを探して店内をきょろきょろと見回した。 ウェイターはどこにもいない。 大学の教員風の男は、テーブルに載せた若い女の右手を両手で包み込むように握ると、彼女のすべすべした白い手の甲に、年季の入った指先を慈しむようにゆっくりと這わせる。男の表情は喜びで歪む。若い女の手首から香水が漂った。六義園の脇ですれ違った女と同じ匂いが小夜子の鼻腔に届いた。
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