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わたしはハッと目を覚まし、辺りを見回した。
そこは白い部屋だった。
壁も床も四方八方すべてが真っ白い壁。わたしはどうやら中央に置かれたベッドで眠っていたようだった。
――自分がどういう経緯でこの部屋に来たのか、さっぱりわからない。
部屋にはドアはあるが、窓はない。一戸建ての一室か、集合住宅の一室か。それすらもまるで見当がつかなかった。
「……お腹空いた」
ふと自分が空腹であることに気がつくが、部屋には当然のように何もない。わたしはベッドから降りると、引かれるようにしてドアに近づいた。
真っ白なドアノブに触れたところで、わたしはその冷たさに驚いた。ドアの向こう側は、随分と気温が低いようだ。
きいい、と一歩下がりつつ、ドアを手前側に引きながら開ける。
「さむっ」
思った通り、ドアで仕切られた向こうは、ひどく寒い部屋だった。それも、エアコンで冷やしていたというレベルではない。まるで冷蔵庫のような冷ややかさだった。……しかも、とても暗い。
わたしはそっと、上半身だけ乗り出して、暗い部屋を覗いた。
そこで、息を飲んだ。
「嘘……」
暗く寒く狭い部屋の奥。
小ぢんまりしたベッドの上に、血まみれの少女が横たわっていた。
「え、な、なに。なに……」
少女は頭を怪我しているようだった。
いや、怪我をしている、どころの騒ぎではない。完全にとはいえないものの、一部頭が潰れてしまっているようだ。先程からピクリとも動かない。
――まさか死んでいる?
わたしはうっ、と呻くと、開け放した扉をそのままに、何歩か後ずさる。何が何だかさっぱりわからない。そもそもここはどこなんだ。警察か救急車を呼ぼうにも、この場所に電話があるとは思えない。
「嫌だよう」
ふと、暗い部屋から声が聞こえた。少女の声だった。「嫌だよう。死にたくない」と、か細い声で泣いている。
――何が何だかわからないが、生きている。ひどい怪我で、泣くことしかできないようではあるけれど。
わたしはほっとして、彼女に駆け寄ろうとして、そこで思わず蹲った。
驚きで忘れかけていたが、いつの間にか空腹感がひどく強まっていた。飢えのせいで、ぐらぐらと視界が揺らいでいる。
『大丈夫。あなたは死なない』
ふと、どこかから声が響き渡った。
ここにある二部屋には、わたしと少女の他に人の気配はない。どこかにスピーカーでもあって、そこから聞こえてきている声なのだろうか。
『そうさ。ここでお別れじゃない』
『あなたはこれからも、あの子の中で生き続けるのよ』
声に応えるように、少女はか細く慟哭する。
「嫌。嫌だ……わたしはそんなの絶対嫌。わたしは普通に生きたい。死にたくない」
悲痛な声に、思わずわたしは顔を歪ませた。
けれども駆け寄って慰めることはできなかった。いよいよ空腹感が、耐え難い飢餓感に変わろうとしていたからだ。
『さあ……』
「嫌だ! 殺さないで! いやあああああ!」
少女の絶叫。
それはあまりにも苦しげで悲しげな叫びで――、わたしは思わず耳を塞いだ。
何が起きているんだ。
ここはなんなんだ。
強烈な飢餓のせいで揺れる視界。今まさに殺されようとしているらしい重傷の少女。
異様そのものだった。わたしは目を瞑って顔を伏せる。
そこでふと、少女の絶対がぷつりと途切れた。
『あなたのものです』
声がして、わたしはそっと瞼を開けた。
――いつの間にか足元には、銀の皿があった。添えられているのは、銀のナイフに銀のフォーク。
そして皿の上に載せられているのは、どくどくと脈打つ――、心臓、のようだった。
目を見張った。
心臓らしき赤いものを見て、わたしの飢餓感がさらに強さを増す。
いや、しかし。まさか、これは、少女の――。
『あなたの糧にしてください』
声、が。鼓膜を打つ。
わたしは気づけば、ナイフとフォークを手に持っていた。
だって、あまりにも空腹だった。糧にしてくれと言うのならば、すぐさまそうしたかった。
たとえそれが、今まさに命を失った少女の心臓だったとしても。
わたしは手を合わせた。
深々と頭を下げ、暗い部屋に横たわっているであろう少女に言う。
「――いただきます」
自然と、涙がこぼれた。
*
わたしは目を覚ました。
そこは真っ白な部屋だったが、今度はすぐに自分がどこにいるのかを理解した。ここは病室だ。
わたしは長らく重い心臓の病を患っていた。臓器移植ができなければ助からないとされていた。
けれどもわたしは運良く、交通事故で大怪我を負い、脳死判定がされたばかりの少女から臓器提供を受けられることが決まった。
――わたしは今の今まで、その手術を受けていたのだ。
「手術は成功です。おめでとう」
手術を担当してくれていた先生が、涙まじりにそう言う。
交通事故で脳死となった少女は、臓器提供に関して意思表示をしていなかったそうだ。そのため、少女の両親が臓器提供を決意した。このまま死んでしまう運命なら、他の子の身体の中ででも、娘が生き続けて欲しいと願って。
「娘もきっと、あなたの役に立てて喜んでいるはずです」
少女の両親はそう言って涙した。
――喜んでいる。
本当にそうだろうか。
ならば、わたしが見た夢はなんだったのだろう。死にたくない、殺さないでと絶叫していた、あの少女は。
脳死、だったのなら――心臓を取り出されたその時は、彼女はまだ。
(ああ……)
わたしの心臓は動いている。正常に。今までの自分では信じられないほどに。
それはわたしが、あの夢で少女の心臓を喰ったからだ。
生きることと、食べることは直結している。
わたしも彼女も、生きるに飢えていた。
けれども今、喰って生きたのはわたしだった。
わたしは彼女の命を戴いて生きていく。
彼女の慟哭を忘れずに、彼女の心臓の鼓動をずっと、響かせていくのだ。
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