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「今日はエイプリルフールって奴ですよ、楓さん」
美濃さんは珈琲を口に含み、使い慣れないパソコンと格闘している。大学生なら授業やレポートの為に否が応でも使わないといけないのに、今は濡れそぼった猫のように頼りない顔でキーボードを叩いている。沢山置かれていたミキサーはメルカリで取り敢えず売り飛ばしたので、少しは風通しも良くなっていた。
「スープでも作りましょうか?」
「無視!? ちょっとは構ってくださいよ」
「残念、作るのは嘘でしたー。これでいいですか?」
「もっと有意義な嘘が良いです!」
「有意義な嘘って何ですか。初めて聞きましたよ」
美濃さんは摂食障害を患っていて、液体以外を体に取り入れる事が難しい。メロンパンの衣を齧った時から少しづつ症状は改善されてきてはいるが、一緒に同じ食事をする目標はまだ到底果たされそうに無かった。私も喫茶店で正社員として働く傍らで美濃さんをサポートしているが、まだまだ問題は山積みで、重荷は取れそうに無い。
「折角お付き合いし始めんですからもっと楽しみましょうよ。意外とこういうのが思い出になるんですから」
「毎日が思い出なので別に大丈夫ですよ」
「……エイプリルフール?」
「ノンエイプリルフールです」
でも、その重荷を一緒に背負ってくれる人と出逢えたから後悔は無い。時々死ぬほどイラつく事もあるし、未だに改善されないお粥の味に大人げなく難癖もつけそうになるが、その全てを引っ括めて美濃さんだから、仕方ない。仕方なく愛おしい。愛おしいから美濃さんだ。
「いつか必ず結婚しましょう」
「……へあっ?!」
「じゃあ私は外出するので、出る時は戸締りをちゃんとして下さいね」
「いやっ、これってエイプリルフールだからですか!? それとも……ねえちょっと待って!」
戸惑う美濃さんを余所に置いて外出の手筈を整える。キーボードの音が止まり、鶯の可愛らしい鳴き声が微かに響く。扉を閉めてベージュのロングスカートの端を摘みながら逃避行する。息を切らしながら、頬を赤く染め上げながら。
来年はもっと喜ぶ嘘でも考えておこう。
思い出は何個あっても、足りない物だから。
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