小説なんか嘘っぱちじゃないか

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上を見上げると、水色の空を薄いすじ雲が切り裂くように浮かんでいた。春の暖かさが感じられるようになった季節のこと、僕は漸くのこと彼女の墓参りに行くことにした。彼女を喪ってから何年経つか分からなかったけれど、兎角それは長く感じられた。  手桶に溜めた水を柄杓で掬うと、それを墓石に掛けた。水は彼女の名前が彫ってある凹みに着地すると、そのまま重量に従って下へ垂れていった。 「よう元気か?来るのが遅くなったよ。ごめん。何せこの墓地は入り組んでてさ。」 『小田巻家之墓』と書かれていた墓石に、僕は独り言い訳するように、あるいは自分に言い聞かせるようにそう呟いた。 「思えばさ、僕があの部室の戸を叩かなければ、始まらなかったんだな。」 そう、僕と小田巻さんは高校での部活で出会った。担任に勧められて入った文芸部の部室はとても狭く、しかも彼女1人という廃部にされても仕方のない様相を呈していた。その部室に、僕と彼女は2人きりだった。 「それでも僕は国語はからっきしだったからからさ。小説家もまともに読めなかったけ。それでも君の本は本当に読みやすかったな。」 僕はライターで線香に火を灯すとそれを墓石に供えた。そして、その煙を手で扇ぐようにしながら続けた。 「いつかさ、小説について議論したことがあったよな。小説はどういうものかって。僕は確か『人の心を動かすもの』って言って、逆に君は『嘘だらけの自己満足』だって。君はもう覚えてないだろうけどね。」 事実、当時の僕も彼女の小説によって心を動かされた人の1人だった。それでも彼女は頑なに、それは読者が勝手にそう思っただけと否定し、受け入れることはなかった。彼女の小説に努力は必ず報われるだとか、ヒーローが助けに来るだとか書かれていたが、彼女曰く、自分の理想を小説として描いているだけだそうだ。 「そんなヒーローに僕はなりたいって言ったら、君黙りこんでいたよな。本当はこう言いたかったんだよ。君のヒーローになりたいってね。」 そんなくだらないディスカッションの数日後、彼女は自殺した。違う学年だから詳しくは知らなかったけれど、原因はいじめだとか噂されていた。僕は部活をともにしていて、そのことについて、何一つ分からなかった。ただ喪失感とやるせない気持ちが溢れていた。 「そう思うとヒーローになりたいだなんて、馬鹿げたこと言ってたよな。隣にいた部員の1人も救えないなんて。」 手が震える、頭が痛い。それでも彼女に言おう。 「ディスカッションで言ってた君の意見はそういう点では正論だったよ。小説家は小説の姿をよく捉えていた。」 ヒーローなんか居ない、だからヒーローがいるべきだという自分の世界に逃げ込んだ。努力しても報われない、だから努力すれば報われるべきだという自分の理想を小説に入れていた。理想が叶う世界、自分の思い通りの世界をただ描いていた。 「なぁ、あの日以来僕学校に行けなくなったんだよ。留年して、大学も進学しなかったよ。軽蔑するだろうな、ごめんよ。」 ただ、それでも最後に…… 「なぁ、先日僕の家に本が届いたんだ。君の両親かららしいんだ。僕の住所わざわざ調べてくれたのかな。」 その小説は、彼女が唯一僕に見せなかった小説が載っていた。何故なのか、教えてはくれなかった。 「君にしてはえらく、不器用な作品だと思ったよ。文体も展開も何一つ君らしくない汚い作品だよ。だけどいい作品だった。」 それはいじめられっ子の女の子を男の子が救って、それからは何気ない会話で過ごすという平和な物語。ヤマもオチもそんなへったくれもない、起承転結もない、本当に陳腐でありふれている作品だった。 「確かにこの作品も、架空で、妄想で、偽物で、嘘っぱちだ。君の言う小説の姿だった。そしてこの作品に現実逃避した。それでも1番好きな作品だよ。」 いつしか、線香の煙が消えていった。僕の言いたいこと、言わなければいけないことが削れてなくなるように。 「なぁ、僕もそろそろそっちへ行くんだ。成人してから、やけ酒してさ。手足の先が震えて、呂律も回らなくなって、多分これが最後の外出になると思うんだ。だからお願い聞いてくれないか、一生のお願いだ。もし、僕がそっちに行ったらこの作品の続きを読んでくれないか。あの頃みたいに。」
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