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〈 光司 〉
解けかけた靴紐を結び直そうと、カメラバッグを地面に置き片膝をつく。くるぶしまである頑丈なトレッキングブーツには不似合いな、桜の花びらが数枚張り付いている。
撮影のため川の浅瀬に入った時にくっついた名残のようだ。光司はそれらを手早く払いのけてしまうと、靴紐をきつく結ぶ。夕闇が追い立てるように迫っていた。
今日一日歩き回って撮影した、「晴れた日で、小川のせせらぎと美しく咲き乱れる桜が一緒に映っていること」という絶対条件をクリアした素材。それらのごっそり入ったビデオカメラの重いバッグをもう一度肩に掛けると、光司は大股で歩き出す。
最後の角を曲がると、商店の多い見慣れた通りに出る。街灯が目に眩しい。思わず目を閉じ、それからゆっくりと開ける。目指す店の前で光司は迷わず足を止める。
剥げかがった銅のプレートには店の名前だけが簡潔に記されている。喫茶ひなた。光司はそこで強ばっていた肩の力をやっと抜くと、勢いよくその店のドアを開けた。
お客の誰もいない店の、カウンターのその向こうで、啓介はチーズケーキをぱくついていた。それだけで今日も妹の香乃が姿を見せたのだと察しがつく。
「それ、三日前のだぜ。」
カウンター席に腰かけながら光司が声をかけると、啓介は一瞬真顔でこちらを見つめてから、再び半分食べてしまったケーキに無言で視線を戻した。
「嘘だよ、ったく。」
啓介はむっとした様子も見せずにコーヒーに口をつける。いつもながらに感情の揺れが少ない人間である。
「妹も妹なら兄も兄だな。」
たしなめるようにそう言うと、ケーキの続きに取りかかった。光司はほっと息を吐いて、長い逡巡の一日が今日も終わったことを知る。とにもかくにも夜がやってきて、啓介は啓介然として、彼がいるべき場所に落ち着いている。
「それ食ったら、俺にもメシ頼む。何かある?」
ゆっくりケーキを満喫していた啓介が眉を寄せて顔を上げる。腕時計でちらりと時刻を確認する。この店には、啓介の腕にしか時計がない。
「何だ、食ってきたんじゃないのか?」
お客なんだったら先に言えよ、とぶつぶつ言いながら、それでも啓介は冷蔵庫に首を突っ込む。その首をぐるりと巡らす。
「ナポリタンなら。」
光司は、上等、と声をあげると大きく一つ伸びをした。
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