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湊人の住んでいる高級マンションで暮らすようになってから、早くも二ヶ月が経とうとしていた。
寮つきのアルバイトも辞めて、その前に暮らしていた部屋はきちんと引き払い、荷物は全て業者に頼んだ。
必要な立ち会いは、憐の代わりに全て新田がやってくれた。
憐に与えられた部屋に、元々所有していた荷物を全て押し込んだのだが、それでも前の部屋より広くて、憐は思わず苦笑する。
不在の間に届いていた三脚は、大家が保管していたらしい。連絡があって、憐の代わりにこれも新田が取りにいった。
スマホは湊人の名義で新しく契約し直して、収録は今の所まだ休んだままだ。
すぐ仕事を探すとまた同じ事になるだろうと話し合い、憐は家の中で炊事と家事をしながら湊人の帰りを待っていた。
——そろそろ帰ってくる時間だな。
夕食の支度を終えたところで、インターフォンが鳴る。モニターで確認すると湊人だった。
「鍵持ってるんだから入って来れるだろ」
「だって憐に出迎えて貰いたい。家に帰って憐がいるって最高。幸せ。それだけで仕事頑張れる」
「大袈裟だな」
「え、包み隠さず本心だけど?」
湊人のマンションに来てから二か月間、毎日がこんな調子だ。
本当に幸せそうに笑った湊人を見て、気恥ずかしくなった憐はそっぽ向いた。
「顔赤いよ憐。照れてるの?」
「……うるさい」
「可愛いね」
更に揶揄われて耐えきれなくなった憐は、湊人の鳩尾に軽く手刀を入れる。
「憐ちょっと力強くなった?」
「へ? ごめん、痛かったか?」
ニンマリ笑った湊人が屈んで顔を近付けてきた。
唇が触れそうな程に近くてドキリとしたが、何もされる事なく離れていく。
「痛くないよ。近くから憐を堪能したかっただけ。憐の顔ってば真っ赤でかーわいいから」
ふふっと笑い、上機嫌の湊人が姿勢を戻すなりリビングに歩いていく。
——揶揄われた。
左手の甲で顔を覆って俯いた。
あの無駄に出まくっている色気と甘い言葉はもう少し抑えて欲しいと切実に願う。供給過多で心臓が持ちそうにない。
湊人に遅れてリビングに行くと、二人でテーブルを囲んで食についた。
「何かこうしてると新婚さんみたいだよね」
食事が終わって食後にコーヒーを飲んでいると、湊人がそう言った。
熱視線を感じて、憐はとっさに視線を逸らす。
「湊人の言葉はいつも直球だから……恥ずかしいんだよ。やめてくれ」
「そう? だってホントの事だし。ぶっちゃけオレ、憐が好きすぎてどうにかなっちゃいそうなんだよ。この気持ちがせめて半分くらいは憐に伝わればいいのに。あ、ダメ。ドン引きされそうだからやっぱりヤダ!」
——どっちだよ。
訳の分からない事を言い出した湊人を見つめる。
「何で……。湊人は俺のどこがそんなに良いんだよ。厄介なだけで、良いとこなんてどこにもないと思うんだけど。それに湊人なら選びたい放題なんじゃないか?」
「それって端的にオレがイケメンって事?」
湊人の顔が輝いた。
「もういい。真剣に聞いた俺が馬鹿だった」
そっぽ向くと湊人がケラケラと笑う。
「ごめん、拗ねないでよ。オレ、憐以外に興味ないんだよね。どうでもいいの。それと、憐のどこって言うより全てが好き。一個ずつあげようか? 顔も声も髪も仕草も歌も、ぜーんぶ好き。自分の事より他人の幸せ願えるとことか、照れるとすぐ顔が赤くなるとことか、普段クールっぽいのにホントは可愛いとことか、他人に興味無さそうに見えるけどよく周りを見てて気遣い上手なとことか。見た目儚い系の美人なのに全然自覚ない……「ストップ。やめてくれ。ごめん湊人、もう無理だ。俺が悪かった。これ以上喋らないでくれ。キャパオーバー過ぎた」……」
頭が沸騰寸前だ。
湊人の言葉を遮ったのに、ふふふ、と笑いを溢す湊人が憎たらしい。自分も湊人の照れる顔をいつか見てやろうと憐は心の中で決意した。
その後、ポツリポツリと別の会話をして、風呂に向かった湊人におやすみを言ってから与えられている自室へと行った。
中に入るなりベッドに転がる。
湊人の言葉を思い出してしまい、憐はまた赤面してしまった。
幸せ過ぎてどう受け止めていいのか分からない。
湊人との暮らしは今までの一人暮らしと異なり過ぎてて怖い。
嫌なわけじゃない。逆に居心地良すぎて、離れられなくなりそうなくらいの中毒性を孕んでいるからだ。
——あまり甘やかさないで欲しい。
慣れていなくて胸が苦しい。それと同時に熱くて痛いくらいの温かい鼓動を刻む。
全身が不具合を起こしているようだった。
——湊人も俺みたいにドキドキしたりするのかな?
触ってみたい。実際にこの手で湊人に触れてみたいという欲求が湧き上がってきてしまい、憐は今度は自身の変化に戸惑った。
——触りたいとか……なんか気持ち悪いな俺。
本人に言ったらどんな反応をするだろうか。
嫌がられないかな、とかぐるぐると色んな考えが脳裏をよぎった。
湊人の事で頭がいっぱいだ。今日は眠れそうにない。掛け布団の中に顔ごと潜って、無理やり思考を止めるように目を閉じた。
次の日、夕食を食べ終えた後に食器やグラスを洗っていると、誤ってグラスを皿の上に落としてしまった。
考え事をしていたのがいけなかったのかもしれない。
「あ!」
そう思った時には、ガンと鈍い音を立てて、皿とグラスが割れてしまった。
「大丈夫?」
「悪い、湊人。泡で手が滑って……」
慌てて水で手の泡を流すなり、割れたグラスと皿を片付けようと手を伸ばした。
だけど、割れた破片に届く前に湊人に腕を掴まれて止められる。
「素手で触ると危ないからダメ。憐が怪我する方が嫌……、あ」
ハッとしたような表情をした湊人に掴まれていた腕を離される。
「ごめん! つい掴んじゃった! ごめんね、憐、大丈夫?」
不安気に顔を覗き込まれた。
「へ? あ……うん。大丈夫、だよ」
「それなら良かった。今度から気をつけるね」
言われるまで気が付かなかった。
掴まれても発作が出ない。
——もしかして、症状が良くなってきているのか?
湊人の存在が自分の中で定着していて、慣れ始めているのかも知れない。
そう考えると嬉しくて嬉しくて、つい自分の両手を握りしめた。
「憐? もしかして指切っちゃった?」
「ううん、違う。切ってない。割っちゃってごめん」
「オレも良くやるから気にしないで。憐とこの額縁壊したのオレって忘れちゃった?」
悪戯っ子のように笑んだ後で、ポンポンと頭を撫でられる。
掃除用具を持ってきた湊人と一緒に片付けてから、先にリビングのソファーに腰掛けた湊人の前まで歩いた。
——湊人に、触れてみたい。
そんな考えで頭がいっぱいだった。
湊人の正面に移動して腰をかがめる。恐る恐る湊人の頬を両手で包み込んだ。
「れ、ん?」
湊人はキョトンとした顔をしていた。
「湊人、あの……ごめん。試しに抱きしめさせてくれないか?」
「え? オレなら大歓迎だけど……。え? 大丈夫?」
想定外過ぎた憐からの願いを聞くなり、湊人の目が大きく見開かれた。
カラーコンタクトレンズを外しても、元々色素の薄い綺麗な瞳と視線が交わる。
今の己に出来る精一杯の行動を取る為に、憐は両腕を伸ばした。
抱きしめるというより、肩口に額を預けて胸元に縋りつくと言った方が正しいのかもしれない。
それでもこんな風に他人に触れたいと思ったのは初めてだった。
手のひらに触れている感触が、思っていたよりも弾力がある事に気が付いて顔を上げる。
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