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雨の匂いを鼻で吸って、口からゆっくりと息を吐いた。「いつもの公園、11時に。」と淡白な文面で彼に送ったメッセージには既に既読がついていた。律儀な人だなと感心する。だからこそ、そんな彼に恋していた。彼の全てが好きだった。
彼との出会いは、数年前の大学の飲み会だった。当時から人見知りだった私とは対照的に彼は誰に対しても笑顔で会話できる人だった。平等に、それは私に対してもだった。友達、ましてや異性と話すことなんてなかった私は、簡潔に言えば一目惚れしていたと思う。だから猛烈にアタックした。恋の右左も知らない私はそれでも彼に振り向いてもらえる努力をした。そして、それは報われた。
公園のベンチはさっきまで降っていた雨が水溜まりを作り、私はその水溜まりを服で吸うようにしてベンチに腰を掛けた。
約束の10分前になって、彼は公園に現れた。清潔感のある服装で身を固めた彼の姿を見て、やはりかっこいいという印象を抱く。
「待たせた、ごめんね」
「ううん、私の方が早く来すぎただけだから。」
かぶりを振って、私はベンチの隣の部分をポンポンと叩いて彼に座るよう促した。彼はありがとうと言ってその場所に腰を下ろす。
「今日はどうしたの」
そう切り出してきたのは彼だった。私はそれに言葉を詰まらせた。優しい彼は私の沈黙をいつまでも待ち続けるだろう。それほどまでに……
いつか付き合い始めたある日のことを、私は今でも思い出す。その日、私は彼が他の女の子と話しているところを目撃した。後から問い詰めてわかったことだけれど、その女の子とはただの友達でそれ以上ではなかったらしい。
それでも、他の誰かと話している彼が嫌で、耐えられない私は意地悪にもこんなことを言ってしまった。
「私だけを特別扱いして。」
今にして思えば、重たくて面倒くさい女だなって自分ながら感じるのだけれど、当時は必死だった。少なくとも誰に対しても平等な男に惚れた女の発言ではなかった。
「うん、分かった。」
彼は一言だけ言った。決してイエスマンだった訳じゃないと思う。けれども私を傷つけたその罪に対して許しをこれでしたかったように思える。そんな贖罪に似た声色だった。
(私はそこにつけ込んでしまったことを今でも後悔している。)
彼が変わったのはそこからだと思う。優しくなった、気がきくようになった。髪を切ればすぐ褒める、電話にはすぐ出る、疲れた顔みせれば心配する。怖いくらいに従順で優しくなった。それは全て私のせいだった。
沈黙の後、私は告げた。
「ここさ、初めて貴方からプロポーズされたところだったね。」
「そうだね、懐かしい。」
この公園はここの街並みを凡そ見渡せる小高い山にある。街を見渡せば、ここの思い出が蘇ってくる。あのパン屋は彼と初めて一緒に行った店で、あのレストランはクリスマスに一度いったところ、あの書店は最近まで二人でよく通っていた。おかしいくらいに、思い出すのは全て彼との思い出しかない。
「私ね、ずっと考えていた。
もう潮時なんだろうって。もう別れよっか。」
風が公園のブランコを押すと、きぃと甲高い音が鳴る。その音が響き終わると彼はため息を吐いて言った。
「そっか。君の意見なら尊重するよ。」
私は改めて思う。この人は既に自分の意見や考えを捨てているんだ。私の我儘に怒ることをしなかった。私がそうさせてしまった。
「ちなみに最後に1つ聞いていいかな?僕のどんな所が嫌いになったの?」
「なんでも従順に聞いてしまうところ」
違う、私がそうさせた。
「私に優しすぎるところ」
違う、そんな彼が好きだった。
「貴方の全てが大嫌いだった」
貴方の全てが大好きだった。
「そうなんだ、今まで気づかなくてごめん。君のことだから、もう意見を変える気はないんだよね。」
私は彼の顔を見れなかった。いつの間にか視線を自分の足元に移していた。足元に冷たい風が刺さる。
「大好きだったよ。」
彼は消えそうな声で確かにそう言った。
「そっか、ありがとう。じゃあ」
「「さようなら」」
2人の声がハモった。私達はそれぞれの帰路につく。私は自分の家に着くまで前が向けなかった。きっと辺りを見渡せば、その街の景色が彼との思い出で染めらていることを思い知らされるから。それを思い出しては泣きたくなるから。だから下しか向けなかった。
家に帰った私はすぐに泣いてしまった。どれほど自分がわがままな人間だったか、自分がどれだけ醜い人だったか、いかに優しい人を傷つけてきたか。
「ごめんね、ごめんね。」
と、私は1人で何度も謝った。
次の日、私は彼とのトークルームを削除した。だけれど、ブロックは未だにできずにいる。
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