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「春が嫌いなの」  小さい頃から、春が嫌いだった。  春になると周りの大人たちが妙にざわつき始める。  大人だけではなく世の中のざわざわが自分の中に入り込んできては私の心をかき乱す。  そして何かとてつもない焦りを感じて、自分をリセットしたくなるのだ。 「小学生になる時にね、ランドセル買ってもらうじゃない」 「うん」  落ち着かない春は今年も私の心をかき乱し始めていた。 「嬉しくてそのランドセルをずっと触ってたら、自分の体より大きいから、何でも入るんじゃないかって思って、そこら辺の物を詰め込んだの」 「ああ、確かに、一年生の体にはランドセルって大きいよな」 「お人形とかオモチャとか本とか、たくさん荷物を入れたら私、このままどこへでも行けそうな気がしてきて」  学生の頃から付き合い始めたから、もう六年になる。  私は一緒に暮らしている彼に別れを切り出していた。 「そうだ、家出しよう、と思ってランドセルを背負ったら、それがすごく重くて」 「うん」 「家出はやめた」 「……それで? 俺は別れる理由を聞いたんだけど?」 「昔からそうなの。春になると落ち着かなくて心がそわそわして、何もかも投げ捨てて逃げ出したくなる」  そう話している間も、私は部屋の中をキョロキョロと見ては自分の私物を確認していた。  あれは彼と二人で買った物だ。あれも、これも。  こうやって見ると自分の荷物は衣類とメイクボックスくらいだった。 「もう春だもんな……」  彼は悲しそうに呟いた。 「今までお世話になりました。ありがとうございました」  私はそんな彼に無情にもそう言って頭を下げた。 「美緒が決めたことだし、言い出したら聞かないことも知ってる。俺が何言っても無理なんだろ?」 「……ごめんなさい」 「いや、俺も最近は美緒に何もしてあげれなかったし。それは反省してる。ごめんな。ありがとう」  三月の終わり、私は彼と別れた。  一度実家に戻った私はそれから十日も経たないうちに地元を捨て、何のあてもなく一人で都会へと旅立った。  往路だけの飛行機のチケット。  しばらく戻ることはないと思うと少しだけ寂しくもあった。  夢があるわけでもない。  やりたいことがあるわけでもない。  ただ都会に住んでみたかっただけなのかもしれない。  ただ退屈で、ただ何かを求めていた。  彼との生活に不満はなかった。  なのに穏やかに緩やかに過ぎてゆく毎日がしんどくなった。  全て私が悪い。  春に抗えなかった自分のせいだ。 「ここにします」  まずは漫喫でのアパート探しからだった。  彼と別れるちょっと前に仕事は辞めた。  少しの蓄えと有給消化分のお給料がある。  それでなんとか暮らせる部屋を見つけて仕事も探さなければならない。  寂しいなんて感じている余裕はなくなった。  あらかじめ目星をつけておいた、都会のど真ん中でも比較的家賃の安いアパートを見に行った。  幸い学生らや新社会人らの引っ越しのピークは過ぎていて、部屋は思っていたよりスムーズに決まった。  私物はほとんど実家に残すか捨てるかして、持ってきた荷物はボストンバッグだけだった。  何もないワンルームの部屋に愛用のパソコンを繋げてもらい、とりあえずカーテンと寝具を注文した。  それから近所を散策してみようと思い外へ出た。  知らない街を歩くのは緊張した。  アパートからの道を忘れないようにしながら慎重に進まなければならない。  知らない街の知らない人たち。  私を知る人はきっと誰もいない。  妙な解放感が気持ちいい。 「アハハッ」 「キャハッ」  すれ違う女の子たちの笑い声。  いかにも買ったばかりですなリクルートスーツを着ている。  希望に満ち溢れているのだろうな。  社会人への一歩を踏み出したばかり。  これから見るだろう新しい世界に目を輝かせている。  そんな姿を見ると自分の心の中に焦りが現れてくる。  自分はいったい何をやっているのだろう。  わざわざ幸せを捨てて逃げてきた。  こんな大きな都会でこんなにも小さな私にいったい何ができるというのだろうか。 「わ……」  突然目に飛び込んできたのは満開の桜並木だった。  そうだ、こちらに着いてからやたらと桜の木が目に入る。  地元では桜を見るためにはどこかの公園や山の方へ行かなければ見ることが出来なかった。  こんな都会で桜をたくさん目にしたことが意外だった。  普通に道沿いや線路沿いにも桜の木があるし、駅前や大きなマンションの周りにも植えられていた。  私は立ち止まってこの桜並木を写真に撮ろうとスマホを取り出した。  画面を覗くとメッセージが届いているという吹き出しマークがあった。  先日別れたばかりの彼からだった。  開いて見ると『会社恒例の花見中』と題して桜の写真が貼ってあった。  そういえば昨年も場所取りをしなきゃだとか言っていたのを思い出した。  写真をスクロールするとやけに長文のメッセージが現れた。 『俺考えたんだけどさ、美緒は何もかも捨てて逃げるって言ったけど、たぶんそれは逃げたんじゃないと思う。だって逃げるって言ってたった一人で知り合いもいない都会に行くとかすごいじゃん。そんなの誰にも真似出来ないよ。それで今桜を見てて思ったんだけど、春になるとそわそわするって桜みたいだなって。桜もさ、早く咲かないかなってみんなに注目されてきっと落ち着かないと思うんだよね。咲いたら咲いたでまたみんなに見られるし。もしかしたら、本当は桜も春が嫌いなのかもしれないな』  桜も春が嫌い……か。  私は顔を上げて桜の木を見上げた。  こんなに綺麗に咲くのなら、きっと春が待ち遠しいだろう。 『周りがいくらざわざわしてもさ、桜はちゃんと毎年こんなに綺麗に咲くんだから、美緒も周りは気にせず、自分のやりたいようにやっていけばいいと思う』  そうか……確かに私は周りを気にしていたのかもしれない。  新年度で環境が変わり新しい道を歩く人たちを見ていると、自分があまりにもつまらない人間だと感じていた。 『ほら、ランドセルが重かったって言ってただろ。美緒は今、ひとりなんだし自由なんだから何も背負ってない。もしこれから何か背負ったとしても、重かったら下ろせばいい。これからはもっと心を軽くして頑張れよ。春はけっこういいもんだぞ。じゃあな』  メッセージを読み終えると不思議と体が軽くなったような気がした。  いや、体ではなく、きっと彼のこの言葉のおかげで心が軽くなったんだ。  私は桜並木を写真に納め『ありがとう』のひと言と一緒に彼に送信した。  さあ、これからやらなければならないことがたくさんある。  身の回りの物を揃え生活スタイルを整えながら仕事を探さなければ。  それからゆっくりとやりたいこと、自分に出来ることを探そう。  もう周りは気にしない。  私は私だ。  これからどんなことが待っているのだろうか。  この胸の高鳴りは、ランドセルを買ってもらったあの時の嬉しさと似ているようだ。  私は桜を見ながら思い切り深呼吸をした。  この桜たちも、春になるとそわそわしていたのかもしれないと思うと自然と笑みがこぼれた。  何がどう、とかはわからないけれど、自分の中で何かが変わった気がした。  ああ、そうか。  私は今、初めて春を気持ちいいと感じているのかもしれない。             完
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