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蒲弧垂の身体が、何を事細かに告げるというのか。言葉の真意を突き止めようとするほどに身体は汗ばみ、顔は火をふくように熱くなっていく。
「幽体となった身では、どれほど祈願しても、再び触れることはできない。――明椿林」
どことなく、愁いを漂わせる声に引き寄せられた。
一条の清水に立ちこめる夜霧のような黒髪に、明椿林の指先が触れる。白く美しい手が、彼の耳の縁を謀らず伝い、留め置かれた埃をつまみとった。
蒲弧垂の顔が、生前見たこともない表情を浮かべる。声も身体も、欠けることなく具に目の前にある。
「もし、私の友人を危険に晒すのなら、今すぐ身体を返せ」
艶めく竹のように鮮やかな青い瞳が、決して虚勢ではない明椿林を射貫くようにとらえた。晨羅寒は承諾の意をしめして瞼を伏せる。
「いいだろう。蒲弧垂の身体は傷一つつけることなく墓に戻すと約束する。そのかわり、私の頼みをもう一つきいてほしい。暘国の字で、綴ってほしいものがある」
涼しげな瞳に色を滲ませ、笑みを浮かべるその顔が、これほどまでに胸を塞ぐものか。
通りすぎていった月白の光りのように、お前も私のもとから去ってしまうのかと、嘆いたことさえ遠い昔のよう。
それなのに、どうして再び別れの約束をしなければならないのか。
「私の筆は、国史を綴るためにある」
応じれば、君はまたいなくなってしまうのだろうと、おろす手に、晨羅寒の指はまるで、桜枝を流れる鶯を導くようだった。羽を濡らす春の雨に降られたような思いがして、明椿林はついその指に縋ってしまう。
「春永国の歴史では、明椿林の腕も余ってしまうな」
覗き込むような声に、明椿林は唇を震わせる。
「上帝に背くようなことは……」
覆った口元から、晨羅寒のクッ、と堪えた笑い声が漏れ出す。悪戯な瞳と口元は明椿林の揺らぎようのない忠誠心を生真面目な、とでも思い、笑っているだけ。しかしそれは固い忠誠心を嘲るようではないかと明椿林は思ってしまった。
官吏が上帝を立てず、誰を崇めろというのか。春永国にとっては憎い仇だろうが、明椿林にとっては信じるべき神と等しい。弁を弄しようとして、明椿林は口をつぐむ。
東青の明に照らされた暘国と、西白の沈に没した春永国では、一面に開いた花さえも遍くには遠すぎて、互いに交わることはない。明白なことであった。晨羅寒は決して、明椿林が蠍央を慕う気持ちはわからない。それと同じように、明椿林も晨羅寒の恨みを我がごとのように抱くことはできないのだから。
もし、蠍央を恨むというようなことがあるのならば、晨羅寒の失われた肉体に憐憫を傾けたとき。その心の隙間に蠍央に対する若干の無情さを覚えれば、晨羅寒の憎悪と重なることができたのだろうか。
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