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踵を返そうとする明椿林は、思いがけず抱き留められる。
強ばる身体を、寒花も閉じるほどの冷たい指先が触れた。
明椿林は取り上げられた腕に身動きを封じられる。男の利き手が、すっと、流れるように首筋を掠めて、深く刻まれた傷口をなぞった。
肌を走る痛みにたまらず、明椿林は吐息を震わせる。
「――ッ!」
「明四」
耳に聞こえるのは蒲弧垂の痛ましげな声。
「蒲……」
――蒲五。なぜ私をおいていった。
きつく瞼を伏せて、その苛立ちを吐き捨てるように払いのけた。
「晨羅寒! よくも霍石英を!」
明椿林はたとえ相手が賊徒であっても、きれい事といった霍石英の言葉が彼らを貶めるものだと信じていた。
手を叩かれた彼は布面を掲げ、鋭利な双眸を斜へ逸らしている。そしてそっと口元に指を添えていう。
「ついてきて」
想像もしなかった返答に言葉がつまる。李西を占拠し、多くの人々を虐げ、さらには霍石英を殺めた賊徒。それなのに、内に沸き起こるべき恨みや恐怖は、彼に抱いた親しみに侵されていた。
顎を決る彼の示す先は陰った回廊。賊徒が隠れていてもおかしくはない。踏みとどまり、腰に帯びた短刀をやにわに握りしめる。それを見抜いてか、晨羅寒が立ち止まった。
「殺すつもりなら、昨日のうちに仕留めていた」
「仕損じたから殺しに来たのではないのか」
「明椿林。何を信じる?」
「私が信じるのは官吏の神だけだ。それから、筆の力」
質問の意図が掴めず戸惑う明椿林の前に、晨羅寒が立ち塞がる。まるで風のように、ひらりと裾を靡かせて、一瞬のことであった。明椿林が気付いたとき、彼は短刀を握る手に自らの手を重ね、包み込むように握りしめた。そして抜き放った刀身の先に自らの腹を押しあてた。
刃の先から伝わる晨羅寒の体重に、ぞっと悪寒が駆け抜ける。
「何を――!」
必死に逃れようとする手を、晨羅寒は決して離さない。後退る明椿林の踵がついに壁につきあたり、退く隙もなくなった。
尚も被さる晨羅寒は青ざめる明椿林を目にかけて、もたれるように囁く。
「私の命を、明椿林、……お前に握らせる。刃を向けて、突き刺すのは簡単なことだろう」
彼は自らの命をかけて信用を得ようというのだ。もし彼の言葉に偽りがあったのなら、そのときは明椿林の手で――。
そんなこと、できるはずがない。
「私は誰も殺さない」
「……明四。蒲弧垂の身体は事細かにお前のことを告げてくる」
「……は」
夜半に語り交わしたかつての声色と少しも違わない。しかし、彼の顔色は肩口に隠れて、重なる手だけが逸る心を抑えきれず赤く染まっていた。それを知られまいとして柔らかな手つきが名残惜しそうに離れていく。
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