伸明 8

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 ナオキからの連絡はなかった…  いくら、待てども、連絡はなかった…  私は、意を決して、連絡すべきか、否か、悩んだ…  これまで、32年生きてきて、おおげさでなく、これほど、悩んだことも、なかった…  ただ、私から、ナオキに連絡をすれば、いい…  しかし、それが、できなかった…  さっきも、言ったように、ナオキから、連絡がないのは、ナオキが、私に連絡する必要がないと、思うから…  あるいは、私に連絡をして、私に、心配させるのが、嫌だから…  私は、そう、思っていた…  私は、そう、信じていた…  だから、電話できない…  だから、メール一本送れない…  私から、連絡をすれば、私とナオキとの信頼関係が、崩れると、思っていた…  私とナオキの信頼関係が、崩壊すると、思っていた…  もちろん、これは、私の一方的な思い込み…  ナオキが、私をどう思っているのか、わからない…  が、  私は、ナオキを、そう、見ていた…  藤原ナオキという男を、そう、見ていた…  だからこそ、出会ってから、十五年も、いっしょに過ごしてきた…  プライベートもパブリックも、いっしょ…  そして、時間の経過と共に、プライベートはなくなったが、パブリックは、続いた…  会社で、社長と、社長秘書という関係で、続いた…  だから、この十五年、ナオキと、離れ離れで、いたことはない…  離れ離れでいたのは、私が、オーストラリアに癌の治療に行ったとき…  そして、会社を退職した今の次期だけだった…  それまでは、意識することなく、二人で、過ごしてきた…  プライベートで、あるいは、パブリックで、共に過ごしてきた…  だから、ある意味、私の人生は、藤原ナオキと、いっしょだった…  本名の矢代綾子ではなく、寿綾乃として、生きてきた、私の人生の伴走者だった…  私は、ナオキといっしょに生きてきた…  その自負がある…  その自信がある…  だからこそ、誰よりも、ナオキのことを、わかっている自負がある…  そんな私が、ナオキから、連絡がないからといって、自分から、ナオキに連絡を入れるのは、私とナオキの信頼関係が崩れる…  そんな気がした…  もちろん、ナオキが、どう思っているのかは、わからない…  極端な話、私のことを、どう思っているのか、わからない…  もしかしたら、なんとも、思っていないかも、しれない…  空気のように、当たり前の存在だと、思っているのかも、しれない…  なぜなら、ずっと、近くにいるから…  これは、誰でも、同じだろう…  親でも、兄弟でも、夫でも、妻でも、ずっと身近にいれば、空気のように、当たり前の存在だと、考える…  そして、やがて、いなくなって初めて、その存在の大きさに気付く…  これは、同じ…  誰でも、皆、同じだ…  だから、もしかしたら、ナオキは、私のことを、空気のように、当たり前の存在だとしか、思ってない可能性もある…  いや、  これは、私も、そう…  同じだった…  これまで、ナオキのことを、真剣に考えたことは、なかった…  なぜなら、ナオキは、私の近くにいて、当たり前の存在…  私は、これまで、社長秘書として、社長のナオキの身近にいた…  だから、近くに、ナオキのいない生活は、考えられなかった…  もちろん、ずっとこのままというわけではないということは、わかっている…  が、  先のことは、考えたくないというか…  刹那的ではないが、今が、楽しければいい…  きっと、心のどこかで、そう、思っていた可能性も高い…  正直、自分のことでも、よくわからない…  そんな先のことは、考えたことが、ないからだ…  ただ、漠然と、将来は、結婚したい…  子供も産みたい…  と、思っていた…  が、  あくまで、漠然と、だ…  32歳にもなる女が、漠然と思っていたというのは、おかしいが、事実だった…  具体的に、どうのこうのは、ない…  それは、なぜか?  それは、毎日が、充実していたから…  だから、考えなかった…  それに尽きるだろう…  毎日が、充実していていれば、誰もが、先のことは、考えない…  考えることは、あっても、漠然と考えるだけ…  これは、一般的なサラリーマンも同じだろう…  仕事が、充実しているサラリーマンが、先のことを、考えることは、あまりない…  会社が潰れたり、自分が、会社からリストラされて、初めて、自分の人生を考える…  それと、似ている…  私も同じ…  私の人生は充実していた…    おおげさに言えば、私が、いたから、ナオキは、成功した…  ユリコが、失踪してから、私が、ナオキの身近にいなければ、ナオキは、成功しなかった…  そんな自信がある…  そんな自負がある…  ナオキは、私を頼っていたし、頼られた私は、やりがいを感じていた…  そういうことだった…  私とナオキは、そういう関係だった…  私は、今さらながら、そう思った…  そう、振り返った…               そして、連絡は、突然、来た…  思いがけない形できた…  それは、ユリコだった…  私の宿敵のユリコからの連絡だった…  私が、ナオキからの連絡もなく、家で、悶々(もんもん)と悩んでいたときに、ユリコから、連絡があったのだ…  私のスマホに連絡があったのだ…  「…寿さん…お久しぶり…ユリコ…藤原ユリコです…」  と、連絡があった…  私は、家にいても、スマホの電源は、いつも、入れていた…  ナオキから、連絡があれば、すぐにでも、出れるようにと、思って、入れていた…  が、  連絡があったのは、ユリコから…  ナオキからでは、なかった…  だから、一瞬、どうしようか、考えた…  どうしようか、悩んだ…  出るべきか、出ないべきか、悩んだ…  が、  結局、出ることにした…  なにしろ、暇だ…  それに尽きる…  そして、ユリコからの電話だ…  なにか、知っている可能性がある…  情報を握っている可能性が、高い…  そう、気付いたのだ…  ただし、ユリコは、食わせ者…  本当のことを、言うのか、どうかは、わからない…  ひょっとすると、私を騙すかも、しれない…  だから、話半分…  真剣に聞いては、いけない…  そう、肝に銘じて、話を聞かなければ、ならない…  どこまでが、ホントの話か、わからないからだ…  私は、ユリコからの電話に出る、わずかの間に、そんなことを、考えた…  そんなもろもろのことを、考えた…  そして、電話に出た…  「…ハイ…寿です…」  私は、言った…  「…良かった…寿さん…いたんだ…」  と、ユリコが、電話の向こう側から、言った…  私は、なんと、答えていいか、わからなかった…  「…ハイ…いました…」  と、答えれば、いいか?  それとも、  「…」  と、なにも、言わなければ、いいのか?  悩んだ…  そして、もし、  「…ハイ…いました…」  と、でも、答えれば、ユリコのことだ…  「…誰かからの電話を待っていたんでしょ?…」  と、でも、カマをかけるのが、わかっている…  だから、それを、思えば、答えられなかった…  「…」  と、沈黙するのみ…  まさに、沈黙は金…  これが、一番だからだ…  が、  それは、ユリコにバレバレだった…  ユリコが、電話の向こう側から、笑いながら、  「…寿さん…ひょっとして、誰か、別のひとの電話からだと、思った?…」  と、聞いてきた…  「…どうして、そう思うんですか?…」  「…だって、電話をかけたら、すぐに出たから…」  笑って、ユリコが言う…  図星だった…  まさに、私の心の内を突いてきた…  私は、絶句した…  文字通り、絶句した…  そして、一呼吸おいて、  「…そんなことは、ありませんよ…」  と、言った…  思っていることと、別のことを、言った…  もちろん、ユリコのことだ…  私の心の内など、とうに、お見通しなのかも、しれない…  が、  ユリコは、なにも、言わなかった…  おそらくは、わかっているが、あえて、聞かなかったのだろう…  ユリコが、なにを言っても、こちらも、本当のことは、言わないし、それは、ユリコも同じ…  なにしろ、天敵だ…  大昔の言葉で、言えば、ともに天を戴かずとでも、いえば、いいのだろうか?  わかりやすく言えば、なにがあっても、この女といっしょに、いることは、できない…  ともに、同じ部屋の空気を吸うのも、嫌だということだ…  だから、そんな女の言うことなど、なに一つ信用できない…  なに一つ信頼できない…  そういうことだ…  そして、それは、同じ…  たぶん、ユリコも同じ…  同じ目線で、私を見ている…  当たり前のことだった…  「…この前の会見を見た?…」  ユリコが、突然、言った…  本題に入った…  私は、のらりくらりと、かわそうかとも、思ったが、それでは、面倒臭いというか…  いずれ、この話題に入ることは、わかっていた…  この話題=つまり、FK興産と、五井との業務提携の話…  これが、世間に出たから、ユリコから、電話が、来た…  それが、真相だろう…  だから、素直に、  「…ハイ、見ました…」  と、告げた…  その方が、ウソがないからだ…  「…そう、見たんだ…」  と、ユリコが意味深に言った…  実に、意味深に言った…  それから、ユリコが、  「…あなたもすっかり、五井に手玉に取られたのね…」  と、言った…  実に、意味深に言った…                <続く>
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