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シュッ!…
弓道場の入口に近づくと静寂を切り裂く乾いた音がした。
桐山先生が放った矢が的の中心部のほど近くに刺さったのが見える。
先生は部活が終わるといつもひとり残り、自分の練習をする。
春休み中の今日は17時に部活が終わると部長を引き継いだ後輩に聞いて、時間を合わせやって来た。
10月の大会を最後に部活を引退してから5ヶ月ちょっと。
先生と同じあの場所に立っていたのがもう遙か昔のような気がする。
袴姿の先生がまた弓を構える。
弓を引く腕に筋が現れる。
矢を放つより先に切れ長の目で的を射抜く。
その眼差しに胸が高鳴る。
大きな口をさらに引き結んで一瞬で力を解放する。
無駄な動きが一切無い。
最低限の音しかしない。
入学してすぐの部活見学で魅了された一連の所作はずっと変わらない。
まだ子供だった私は大人の男性の静かな情熱を初めて見た。
動機は不純だったけど、迷わず弓道部に入部した。
先生が弓を下げ一息ついたところで入口から見ていた私に気が付いた。
『おー藍川。
どうしたんだ、こんな時間に?』
近づきながら挨拶した。
『こんばんは。
ちょっと学校に用事がありまして。』
嘘ですよ。用事なんて無い。
『そうか。
今日あたり大学の入学式じゃないのか?
私服だとずいぶん大人に見えるな。』
『入学式は明後日です。
もう高校も卒業したし、ジャージでは出かけませんよー。』
『あはは。
そうだよな、成長したよな。
最初は頼りなかったけど、勉強の成績も落とさず最後は立派な部長になったもんな。』
私は桐山先生の一番近くにいられる部長になる為に、自分で言うのもあれだけどかなり努力した。
そして信じたとおり部長としての壁にぶち当たるたびに先生は一緒に考えてくれた。
いつまでもこんな時間が続けばいいと思う反面、早く卒業して大人になりたかった。
大人に見える、だけじゃない。
大人になったんですよ、先生。
卒業したら言おうと決めていたことをこれから口にする。
決めていたから落ち着いて言えると思っていたけど、いざとなると体に力が入り頭がガンガンする。
それでも今日言わないと…。
『桐山せんせー』
『ん?』
私の言葉を待つこの優しい空気を、いつまでも覚えておこう。
『好きです。』
困惑しながらも私にかける言葉を探していたであろう先生は、今日が4月1日だと気が付いて心底ホッとしていた。
『…あ!エイプリルフールか!
コノヤロー!
大人をからかいやがってー!』
『あはは、バレたー!』
よかった。
やっぱりこれでよかったんだ。
『そうそう、せんせー、6月に結婚するんでしょ?』
『え!?なんで知ってんの?』
『卒業式の前の日に職員室に行ったら、小谷先生と川上先生が大きな声で話してましたよ。』
『うわぁ、あのお喋りおばちゃん達かー。』
急に口が悪くなり遠慮が無くなった。
…さっきまでは大人として対等に扱って欲しかったくせに、今となっては胸が苦しい。
『あらためてOBみんなでお祝いしに来るね!』
『嬉しいけど、何もしなくていいぞ?』
照れながら言う先生は…ただ幸せそうだった。
『じゃ!せんせー、またね!
ほんと、お世話になりました!』
『おー!気をつけて帰れよ!』
足早に弓道場から飛び出た。
立ち止まり空を見上げる。
夕方から夜になりつつある空に現れた三日月が霞んでる。
…霞んで見える。
先生の結婚話を聞いた時に涙は出尽くしたと思ったんだけどな。
校庭の方からサッカー部が片付けている声がした。
人が来る前に帰ろう。
歩き始めた時、弓道場横の体育館の入口から出てきた人に『よお!』と声を掛けられた。
同級生で同じ部活、そして副部長をやってた広瀬くんだった。
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