雨の女と魔法少女

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「げ、雨」  バイト帰り、外に出て初めて知ったらしい大学の同期が声をあげる。知らなかったの、とリュックから折り畳み傘を出しながら僕は笑った。天気予報で夜から雨だと言っていたのに同期はチェックしなかったらしい。 「オレは家近いから良いの。お前は気をつけて帰れよ。雨の日には人が消えるらしいからな」 「それ、これから雨の中を歩いて帰る人にする話?」  まぁまぁ、と同期は笑った。別に僕だってそういう類の話を信じてはいない。でもじとりと暑くなってきた初夏の夜に聞くには、不気味な話題だと思った。  僕らが入るホテルの宴会バイトは割は良いが体力仕事だ。動き回るし重たい物は持たされるし、結構くたくたになる。自宅からひと駅離れた場所にあるホテルに僕は自転車で来ていた。バイト代に交通費が含まれているなら自転車で移動する一択だ。今日は雨だと言うから自転車はやめたけど、これくらいなら問題なかったな。それともこれから本降りになるだろうか。 「でも最近この市内で行方不明者が出てるの知らない? 決まって雨の日だって、ネットで言ってるやつがいてさ」  同期はこの宴会バイトに僕を誘った張本人だ。同じ学部で同じ共通の講義でたまたま近くの席に座った。それだけだしサークルも違う。でも妙に馬が合う。別に四六時中一緒にいるわけでもないから同じバイトでも良いかと思ったのだ。宴会が入りやすい曜日は決まっているから他のバイトとの掛け持ちだってしやすい。 「そうなの? 何で雨の日?」  六月に入って雨は多くなっていた。あまり梅雨とは関係がないこの地域でも年々多くなっていると思う。最近ってどのくらいの期間のことを言うのだろうか。その中で雨の日はどれだけあっただろう。  同期を途中まで傘に入れてあげながらお互い傘に入らない方の肩が濡れた。でもしっとりとTシャツが湿るくらいの雨だ。傘がなくても風邪をひくようなことはないだろう。 「お前さ、『雨の女』って噂、知ってる?」 「雨女ってこと……?」  外出時には雨が降る確率が高い人のことだろうか、と思って尋ねれば違う違うとにべもなく否定された。そういう噂話があるらしい、と教えてもらう。 「雨が降った時にしか出ないんだと。その女の傘に入ると、消えちゃうんだってさ」 「知らない女の人の傘に入るって何があったらそんなことに?」  想像して首を傾げた。さぁ、と同期は笑う。それ考えたら確かに、と続けるから想像しなかったらしい。 「まぁ消えてるのって男が多いって話だし、とんでもない美人とかそういうのなのかもな」 「実は美人局で消えてるってこと? なるほど、怖い話だね」  やれやれ、と僕は肩をすくめる。まぁ噂話なんてそんな風にして生まれるのかもしれない。話の最初と最後を繋げただけで間が語られなければ怖い受け止め方をする人も出るだろう。もしくはもっと単純な、そうだったら怖いな、という程度のものに盛大な尾ひれがついただけとも考えられる。人の想像力って逞しいな、と思うと笑いが出た。 「僕は傘持ってるから誰かの傘に入ることはないけど、此処からは傘ないんだからキミこそ気をつけなよ」  同期との別れ道でそう言えば、へーきへーき、と同期は笑った。パーカーのフードをかぶって軽く手足を解す様子を見るに此処から先は走って帰るつもりでいるらしい。 「一心不乱に走るから差し出してくる傘なんて見えない」 「前は見なよね」  はは、と同期は笑って片手を上げた。入れてくれてありがとな、と言って浮かべる表情の明るさは昼間のようだ。うん、と僕は頷いて小さく手を振った。同期も振って、それから走り去って行く。運動部の脚は速い。あっという間に雑踏に消えて行って、僕も帰路を辿った。  宴会をするようなホテルは駅が近くて賑わったところにあるのが定石だ。其処から離れて帰るということは、暗さに向かって進んでいくことと同義になる。けれどそれが日常だったから、特段何かを思うようなことはなかった。人の気配が少ないのも、車通りが減るのも、深夜に近くなればなるほど当たり前だと思っていた。  だからといってわざわざ狭くて暗い道を選ぶこともない。いつものように大きな通りに面した道を歩いた。徒歩だから自転車で通うよりも時間がかかって遅くなるのも仕方ない。何も、気にしていなかった。誰も歩いていないことも、誰も通らないことも。  ただしとしとと雨が降る。傘に当たっても大きな音を立てるほどではないけれど、耳元で鳴るからやけに静かなことに気づかなかった。  等間隔で並ぶ街灯の下、誰かが屈んでいるのが見えた。すらりとした足が街灯に反射して眩しさを覚える。細身の女性だ。後ろ姿だけれどスーツと大きなカバンで、就活生だろうかと思った。それともまだ新人の社会人か。街灯の柱に手をついて片足立ちしている。目を凝らして見れば、足元に転がったパンプスのヒールが折れているようだ。  傘はなく、しとしとと降る雨の細かな粒子が長い髪の毛にくっついている。それが光の反射で見えるくらいまで近づいて、僕は気まずさに俯いた。避けては通れない。だからといって見知らぬ大学生に声をかけられるのも迷惑だろうし、僕だってかけるつもりはなかった。絶対に不審者だと思われる。 「……あの」  だから声をかけられて驚いた。思わず足が止まる。聞き間違いかもしれないけれど、立ち止まってしまった手前ただ無言でまた歩き始めるのも変かもしれないと悩んだ。失敗した。立ち止まるつもりなんてなかったのに。でも無視して歩き去るのも何だかな、と思って僕は振り返った。 「えっと、何かお困りですか。タクシー呼ぶくらいならできますけど……」  スマホを取り出そうとしたら女性は小さくかぶりを振った。 「足を挫いたみたいで……でも家はすぐ其処なんです……肩を貸してくれませんか……?」 「えっ」  思わず驚いた声が出てしまったけど、仕方ないと思う。そんなことを見ず知らずの人に頼むなんて、という気持ちと、見ず知らずの人からそんなことを頼まれるなんて、という気持ちがないまぜになって出てしまった。やましい気持ちは一切ない。むしろ警戒心の方が強かった。でも本当にただ困っているだけなら……此処で断ったら僕はひどい人間だろうか。 「……っくしゅん。すみません……」 「いえ……」  激しい雨ではないとはいえ、いつから此処にいるのだろう。濡れたままでは風邪を引くだろうし、僕は迷った末にその頼みを受け入れることにした。 「家、どっちなんですか?」 「良いんですか……?」 「あなたこそ良いんですか? 僕、ふ、不審者じゃないですけど……世の中には変な人もいるんですし……」  でも此処で立ち尽くしていてもこんな時間では他に人が通るとも思えない。僕が此処で断って、その後に変な人がきてこの人がひどい目に遭ったりしても寝覚めが悪い。 「優しそうな人だと思ったから……助けてくれようとしてるし、本当に優しい人……声をかけて良かった」 「それはえっと……ありがとうございます……?」  長い髪の毛は雨に濡れていて女性の顔に張り付いている。前髪も張り付いているせいで目元はよく見えないけれど、唇が安堵したように緩んだのは見えた。そりゃ見ず知らずの人に声をかけて頼み事をするのは怖いし緊張もするだろう。僕も不審者には見えない程度の人間には思われたらしいし、と思えばホッとした。 「家は其処の角を曲がって少し行ったところにあるアパートです……」  女性が指差す方向は大きな通りから少し外れる。でもアパートが建つ場所なんて大体が決まっている。この大きな通りに面して建つアパートの方が少ない。  分かりました、と頷いて僕は肩を貸すために女性に近づいた。もう雨に濡れてしまっているけれど傘を差し出さないのも変だろう。 「カバン……は、自分で持ってた方が良いですよね。すみません、なるべく何処にも触らないようにするので……」  下手に触ってセクハラになっても困る。女性が歩きやすいように僕を上手く使ってくれれば、と思うからただ傍に寄るだけにした。身長差もあるし少し屈んだ方が支えやすいだろうか。転がっていた靴を拾って、女性が伸ばしてくる片腕を首にかける。雨の中にいたせいか、ひんやりと冷たい。すみません、と申し訳なさそうに女性が零す声が聞こえて、いえいえ、と苦笑した。 「せめてその、靴と傘を持ちます……」 「え、でも……」  カバンもあるし、バランスが取りづらくないだろうか。ただでさえヒールが折れたパンプスを片方だけ履いているわけだし。僕は別に傘を持っていてもそんなに苦ではないけど……と思うと同時に自分の傘を知らない人に渡すことに抵抗感を覚えた。向こうは僕を信用してくれたかもしれないけど、僕は僕でまだこの人を信用しきっていない。名前も知らない人にたかが傘とはいえ自分の物を手渡すのは嫌だったのだ。 「私がもう濡れてるので意味はないかもしれませんけど……雨に濡れてしまうので……」  けれど女性も引かなかった。せめて何か、という気持ちは分かる気がしたし、まぁ傘くらい別に良いか、と思い直したのもある。早いところ女性を家に送り届けて僕も帰りたかった。 「それじゃぁ……」  僕が持っていた靴をまず彼女に渡す。薬指と小指で器用に引っ掛けて、空いた残りの三本の指で傘を持とうと指が広げられた。渡そうとして、僕の耳に同期の声が蘇る。  ──お前さ、『雨の女』って噂、知ってる?  ──その女の傘に入ると、消えちゃうんだってさ。  いや、と僕はそれを打ち払った。変な話を同期に聞いたばかりだし、夜中にこんな特殊な状況で敏感になっているだけだ。第一、僕が傘を差し出した方だし、これは僕の傘だ。この人が『雨の女』だったとしても、この人の傘に入る状況ではない。  でも。  目の前で傘を待っている指を見て僕ははたと思い留まる。日本語は曖昧だ。傘の持ち主が誰かなんて、明言されていない。“その女の傘”とは、その女の持つ傘、が短縮されたものではないのか。もしもそうなら、僕がこの傘を渡せば──。 「あの……?」  怪訝そうな声がすぐ耳元でして飛び上がりそうになった。物理的に近づいているんだから、それはそうだ。あ、いえ、と僕は慌てて口を開く。 「やっぱり靴だけで良いですよ。足も痛いでしょうし」 「どうして……? どうして傘、くれないの……?」 「え」  がし、と首にもう一本の腕が回されて引っ張られた。強い力だ。必然的にお互いの顔が正面にきて僕は息を呑む。  雨で張り付いてよく見えなかった彼女の目が、街灯の光を受けて爛々と燃えているのが見えた。赤い目だ。血走って、真っ赤に染まっている。カッと見開いた目は僕を睨みつけているようで、怒りの形相を湛えていた。今にも開いた口から咆哮が飛び出しそうで、僕はすくんで動けなくなる。  なんだ、なんだなんだなんだ。何をそんなに怒っているのだろうか。何がそんなに気に障ったのだろうか。傘を渡さなかっただけで? 傘を渡すのを拒んだだけで? 「……傘、持ちますよ……?」  す、と怒りの表情を拭い去って人の良さそうな笑みが浮かぶのを見て僕の背筋を怖気が走った。喜怒哀楽の表情がスライドしたような感覚だった。そんなにコロッと感情が切り替わるわけがない。そんなにケロッと表情が切り替わるわけがない。人間はそんなに簡単に、違う感情を抱えながら別の表情を浮かべることはできない。  なんだこの人、絶対に普通じゃない……っ。  僕が咄嗟に距離を取ろうとするのを物凄い力で引き留めて、彼女は薄く笑った。ぞっとする。僕は、とんでもないものに声をかけられて、そして──応えてしまったのではないだろうか。 「優しい人、甘い人、愚かな人、もうあなたは何処にも行けない……」  首を押さえられて僕は逃げられなかった。何処にも行けない。彼女の言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻いて浸透していくかのようだった。同期は、なんて言っていたっけ。消えちゃう、と言っていたっけ。消えたらそれは確かに、何処かへ行くなんてできないだろうな。家に帰るなんて、できない。僕は、此処で……。 「ぱーふぇくとすたーりんぐあたーっく!」  その時、頭上から何かが降ってきた。雨ではない。傘でよく見えなかったけれど、それは少女の声をしていた。  は、と僕と女性の目が丸くなる。とん、と向こうから押されたような衝撃があって、細身の女性の背後でツインテールが揺れた。声の主だろうか。 「ぎゃああああああ!」 「わ、なんだっ」  突然、女性が大声で悲鳴をあげた。周り中の窓という窓が開いて近隣住民が顔を覗かせてもおかしくないほどの声量だと思うのに、誰もそんなことをする気配がない。僕の首に回されていた女性の腕が解けて、女性はその場でくるくると回り始める。尻尾を追いかける子犬のよう、と言えば可愛いけれどその様子は鬼気迫っていて必死だった。どうやら背中に張り付いた何かを取ろうとしているようだ。 「おにーさん、大丈夫?」 「は……」  きょとん、とした顔で見上げてきたのはまだ高校生くらいの少女に見えた。こんな時間に出歩いていて大丈夫なんだろうか、という心配と、この子も人間だろうかという疑問がむくりと鎌首をもたげる。あの女性だって人に見える。普通の人ではないけれど。それならこの少女だって──僕を助けてくれたように見える彼女だって──普通ではないかもしれない。  いや、既に普通ではない。何故ならこの艶やかな夜のような髪をしたツインテールの少女は、コスプレと思しき格好をしている。 「この魔法少女ミラクルクルミンが来たからにはもう大丈夫! 安心してね!」 「は……」  一体何が安心で大丈夫だと言うのか、と訊きたかった。けれど僕の処理能力は限界を迎え、処理落ちしている。全体的な構造は着物のようだけれど、袖は絞られてミニ丈のスカートから生足が伸びる。和装のようでいてそうでない足元は黒のロングブーツでこれからの季節は大変そうだ。スカートにふんだんに使われたフリルが可愛らしい格好は魔法少女と言われればそうかもしれない、と思う。僕だって子どもの頃は魔法少女もののアニメを見て育った。今はあんまり見ていないけれど、バイトがない日曜朝にぼんやりテレビを点けて流すこともある。まだやってるんだぁ、これを見て次の子どもたちが育っていくんだぁ、と思うことはあってもリアルなイベントには子どもの頃だって行ったことはない。 「え、なに、撮影……?」  知らないうちに何かそういうものに巻き込まれたのかと思って僕は周囲をキョロキョロと見回した。ドラマや映画の撮影だったりしないだろうか。今時はスマホひとつで映画が撮れる時代だ。大仰なカメラマンや監督がいなくたって、何処かに撮っている人くらいいるんじゃないか。低予算の素人ウェブドラマあたりの……と思ったけれど生憎とそんな人はいない。ただ、この場にそぐわない物はあった。 「クマのぬいぐるみ……?」  テディベア、と言うのだろう。愛らしい丸っとしたフォルムにふわふわの生地は子どもが好きそうだ。今は雨に濡れてしっとりしていることだろう。ただ、テディベアとは通常、座っているものではないか。あのテディベアは、直立している。 「闇より出でし退魔の巫女、愛の戦士! その実態は〜! 魔法少女、ミラクルクルミン!」  ビシ、と決めポーズをして少女がそう高らかに名乗ったから僕は視線を少女に戻す。は、と開いた口が塞がらない。これが撮られているなら間抜けなエキストラもいたものだ。僕を守るように女性との間に立ちはだかり、少女は胸元から紙切れを取り出した。お札、のように見える。でも何が書いてあるかまではよく見えない。 「待て待て待て! 何だその夕方五時に放送してそうな名乗りは!」  後ろからストップがかかって僕は振り向く。でも其処にはテディベアしかいない。僕は目を回した。何故ならそのテディベアは、慌てた様子で両腕を振り回しながらこちらにぽてぽてと走ってきていたからだ。 「きゃー! 解像度がたか〜い! 小学生女児の時から考えてた名乗りだよ〜!」  少女は嬉しそうな声をあげ、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。クマのぬいぐるみが走っていても驚きもしない。 「巫女なのか戦士なのか魔法少女なのかひとつに絞れ! センスねぇな!」  間違いない。クマだ。クマのぬいぐるみから声がした。喋っている。最近のぬいぐるみは喋るし走るし高性能なんだな、と僕が落ち着きを取り戻そうとしている間にぬいぐるみは少女の傍に辿り着いた。 「え〜! ひど〜い! 良いとこどりなのに〜!」 「そーゆーのは良いとこどりなんじゃなくて欲張りって言うの! 情報量が多すぎる! 本当にセンスねぇな! その辺のコンビニで買ってこい!」 「判った! 行ってくる!」 「いや待て、待て! コンビニには置いてない。従ってお前のセンスが磨かれることはない」 「え〜! どうにかしてよ〜!」 「其処になければないですね……」  ぎゃぁぎゃぁ、と目の前で起きていることの意味が分からなさすぎて僕はひっくり返りそうだった。背中に貼られた何かを取ろうとぐるぐると回り続ける女に、魔法少女を名乗る女の子、走って喋るクマのぬいぐるみが漫才を繰り広げている。何が起きているんだ。何を、見せられているんだ。悪夢か、これは。 「ぐあぁぁぁ……」  やっと背中に貼られた物を取るには上着を脱げば良いと思い至ったらしいスーツの女が上着を脱ぎ捨てると恨みがましい声をあげる。それに気づいて魔法少女が振り向き、クマのぬいぐるみが僕の横に立った。一丁前に僕を守ろうとしてくれているように見えた。ぬいぐるみに守られそうになっている僕はちょっとばかり、情けない気がする。 「るぅと君、そのおにーさん連れて逃げて!」 「逃げてってお前はどうすんだよ!」  魔法少女は一端のセリフを口にして、ぬいぐるみがそれを咎めた。大丈夫、と魔法少女は笑った。何かの撮影かと思うほど、綺麗に。 「あたしは大丈夫! るぅと君がくれたこの力で食い止める!」 「いや俺があげた力っていうか……この思い込みつよつよ娘が……っ」  ぬいぐるみは吐き捨てるように言う。無表情なふわふわの顔面とのギャップが凄い。僕が呆然として眺めているとぬいぐるみは僕の腕を取った。ふわふわだけど雨に濡れてしっとりしている。ボタンの目に見つめられて僕はただ唖然として見つめ返した。 「行くぞ! くるみ、お前も! その札ぶつけてやったらひとまず公園だ! タコ足児童公園に行く!」 「分かった!」  ほら、立て、と僕はぬいぐるみに引っ張られる。人生でぬいぐるみに引っ張られることがあるとは思わなかった。腰が抜けているかと思ったけど意外にすっくと立ち上がれた。訳が分からなさすぎて恐怖は何処かへ行っていた。  当然、走り出したらぬいぐるみよりは僕の方が速いわけで。ぬいぐるみは必死にぽてぽてと走るけれど、僕は早足でぬいぐるみについていく。思ったよりも脚が速いな、このぬいぐるみ。どんなモーターとかAIを仕込んでいるんだろう。 「おい、お前、俺を抱えて走れ!」  ぬいぐるみから横暴な命令が飛んできた。大学生にもなってテディベアを抱えて走るなんて予想もしていなかったけれど、何かの撮影ならノっておいた方が良いかもしれない。何処から撮影再開にさせられるか分からない。協力するとも言っていないけど、此処まで止められなかった以上は何かそういう自然な表情みたいなものが撮りたいのかもしれないし、と僕は思考放棄することにした。 「タコ足児童公園、判るか? 次の角を左に曲がってだな……」 「うん、知ってる。でもあの子は……」 「あいつが大丈夫って言うなら大丈夫だろ。妄想力を魔力にする変人だからな」  それはまぁ、確かに変な設定かも、と僕は思う。しっとりとしたクマのぬいぐるみを抱き抱えて僕は走った。背後で魔法少女とスーツの女が戦っているのかと思うと振り返って見てみたかったけど、本当に撮影なのか? という疑問もあった。何の話もなくいきなり撮影に巻き込まれることがあるだろうか。この色々とうるさい昨今で、エキストラの応募だってしていないし契約書の類だって交わしていない一般人を何の許可もなく撮影するだろうか。でも、撮影じゃないならあれは一体、何だって言うんだ。  この辺りは学校が多い。僕が通う大学の他に、小学校から高校まで揃っている。エスカレーター式ではないけれど、全部この近辺の学校で学生生活が終わる人は結構いるんじゃないかと思うほどだ。タコ足児童公園はそんな子どもたちを見守ってきた歴史ある児童公園だ。名前の由来となっているタコ足は文字通りタコの形をした巨大滑り台で、八本分の滑り台が放射線状に広がっている。最大八人まで楽しめるこの公園が不人気なはずはなく、昼間の子どものために夜に不良が集まらないように見回りも強化されているほどだ。  でも、今夜は。今夜はあまりにも静かすぎる。見回りも不良も、人っ子ひとり歩いていない。車一台走らない。住宅街へ入っているから車通りがないのはそうかもしれないけれど、こうも人と会わないものだろうか。寝静まっているとも考えられない。マンションやアパート、一軒家のとある部屋の灯りは点いているものの、人の気配が感じられなかった。  タコ足児童公園にも当然のように誰もいなかった。巨大なタコ足滑り台が中央に鎮座しているけれど、隅っこにブランコや鉄棒、シーソーといった遊具は置いてある。ベンチの上には葉っぱが座っていた。昼間には保護者が木陰になるそのベンチで座って子どもたちを見守っているのだろうに、今はただ、静かに風が吹くだけだ。生暖かくてじとりとした、初夏の雨降る夜の風だった。  僕は一番遠いタコ足の滑り台の先に回り、其処に座り込む。タコ足の滑り台は空洞で、屋根代わりになる。雨を凌ぐにはもってこいだ。  はぁ、と息を吐いてようやく息が上がっていたことに気づいた。何が何だか判らないけれど、判らないなりに危機感は覚えていたらしい。心臓がバクバクと脈打っている。周囲は静かで誰かが近づく足音も聞こえそうだ。 「何かの撮影……? それともコスプレで魔法少女ごっことか……? って、ぬいぐるみに訊いても分かんないか……高性能なAIを搭載してるっぽいけど……」  言われるがままぬいぐるみを抱えて走ってきたけれど、これで良かったんだろうか。そう思って漏らした独り言に返事は期待していない。 「あれは怪異だ」 「えっ、だ、誰っ」  慌てて周囲を見回してみたけれど抱えたぬいぐるみが僕の手をぽむぽむと叩いた。ふわふわだ。ちょっとしっとりしているけれど。 「俺だよ。他に誰がいるんだよ」 「あ、高度なAIテディベア……」 「残念ながらAIじゃねぇけど……まぁAIだと思いたいなら思えば良い」  ぬいぐるみは無表情にふわふわとした顔で僕を見た。ボタンの目には僕の顔が見えているのだろうか。 「この街みたいにデカいとな、集まるんだよ。人の想い、人の噂、こうだったら良いのにと思い描かれた夢想、そういうものの集合体だ。いわゆる都市伝説ってやつだな」 「都市伝説……?」  クマのぬいぐるみと向かい合って話している図はどれだけ異常に見えるだろう。でも高度なAIとのお喋りならまぁ、見た目がぬいぐるみでもない話ではないだろう。 「聞いたことはないか? 『雨の日には人が消える』って」  ──お前は気をつけて帰れよ。雨の日には人が消えるらしいからな。 「……ある」  今日のことだ。同期から聞いた。雨の日には行方不明者が出ているらしい。そして同期から聞いた、『雨の女』の噂話。その傘に入ると消えてしまうという。 「お前も見たあの女がそうだ。あの女が原因だ」 「そ、それなら警察に……」  不審者の相手ならコスプレ少女や高性能AIよりも警察に任せるべきだろう。そう思ってスマホを取り出そうとした僕に、やめとけ、とぬいぐるみが言う。繋がんねぇよ、と言われると同時にスリープを解除したスマホの電波は圏外を示していた。この時代に、圏外なんて表示を見ることがあるとは思わなかった。 「半分あいつの領域だ。此岸と彼岸の(あわい)、昼と夜との境界、黎明と黄昏の帯、鏡の裏、呼び方は色々あるけどな。この世でもあの世でもない、狭間ってわけだ。ああいうのに関わると迷い込む。其処から出られなければ、人が消えたことになる。今回はお前だ」 「な……っ」  どうして、と思ったけれど言葉にならなかったそれが聞こえたかのように、ぬいぐるみは言葉を続けた。 「女と傘に入っただろう。だがまだ片足半分、……いや、上半身か下半身か右半身か左半身か、まだ半分突っ込んだだけだ。行けば戻れないが出れば帰れる。帰りたいだろ」 「そりゃ、帰りたいよ」  もう半分突っ込んだ状態と言われたのと同じだけど、それをまだ半分、と言えるぬいぐるみの言葉には希望を感じた。帰れる、のだろうか。 「このまま家に帰ったってあの女は追ってくる。此処はお前のいた日常じゃない。お前、学生か? 明日学校に行ったってな、お前の友達は学校にはいない。この世界には迷い込んだ奴しかいないんだ」 「そんな……」  遅かれ早かれ此処にいたのでは帰れなくなる、ということだ。どうしたら、と呟く僕にぬいぐるみは簡単そうに言った。 「あの女を倒せば良い。あの怪異を伸せば、お前は帰れる」 「倒す、ったって……」  そんなこと、ただの一般人の僕にできるわけがない。第一、細身の女性とはいえヤバかった。常軌を逸していた。力もやたらと強いし、太刀打ちできる自信はない。 「其処で魔法少女ミラクルクルミンの出番だよ☆」  キラ、と眩い声が上から降ってきて、ざーっと滑り降りてくる音がする。え、まさかこのタコ足滑り台を降りてきているのだろうか。激突する──。 「ばぁ!」  蹴り飛ばされるかと思ったけれど、背中がぶつかっただけだった。それでもリュックにぶつかった衝撃は全てを吸収するわけではなく、少しだけ僕の足がタコ足から出る。きゃらきゃらと少女らしい笑い声がタコ足の空洞に反響した。背中から滑り降りてきたらしい。変な子だ。 「お前、あの怪異は?」 「撒いてきた! 背中にまたお札貼ってきたよ! シャツを脱いで追ってきそうだったから、シャツの中に手を入れて背中にも貼ってきちゃった」 「……同じ女相手、怪異相手とはいえセクハラじゃねぇか……?」  ぬいぐるみが不安を滲ませた声で思案げに呟くのを少女はきゃらきゃらと笑い飛ばす。箸が転がっても楽しい年頃、というものだろうか。そんな少女が魔法少女ごっこに興じるのか、と思ったものの、なくもないか、と思った。何でも楽しいならやりたいことはやるかもしれない。 「おにーさん、無事で良かった。るぅと君がちゃんと逃がしてくれたおかげだね」  明るい声が背中から嬉しそうに言うものだから、あぁ、うん、と僕は頷いた。妙な魔法少女を名乗るコスプレ少女と喋る高性能AI搭載のテディベアに話しかけられている僕は、一体何なんだろう。 「お前、札はあと何枚ある?」 「えーっとね、いち、にぃ……いっぱい!」 「待て待て待て、流石に数は数えられるよな? 三以上も数えられるよな? 高校生だもんな?」 「えへへー」  笑って誤魔化すんじゃねぇ、と言いながらぬいぐるみが僕を乗り越えて少女の方へ行く。しっとりと湿った生地と僕が抱える前についた足の泥んこが僕の頬を擦った。冷たかった。 「あの……魔法少女って……」  首を捻ってぬいぐるみが通りやすくしながら僕は答えを求めて尋ねる。少女でも高性能AIのどっちでも答えてくれるなら構わなかった。 「魔法少女ミラクルクルミンはね、迷える子羊の味方なの。普段は何処にでもいる女子高生、スマホの早打ちと爆裂スタンプが得意な普通の女子高生なんだけど、その実態は闇より出でし退魔の巫女、愛の戦士なの!」 「だから巫女なのか戦士なのか魔法少女なのかひとつに絞れって。情報量が多すぎるっての」 「ええー! 何も多くないよ! むしろ足りないくらいだよ! あたし、もっと自己紹介したいもん!」  自称魔法少女は不満げな声をあげる。やめとけ、とぬいぐるみの冷静な声が窘めた。 「怪異に自分を曝け出すもんじゃねぇ。お前を構成する情報はひとつでも隠した方が良い。其処まで知性というか知能の高さは感じないが、いつ豹変するとも判らない。相手が知能をつけたらお前、呪われるぞ」  呪われる、と流石に魔法少女も言葉を失ったようだった。僕も非現実的な単語に理解が追いつかない。 「怪異の理は判らんが、呪いってのは本来そういうもんだ。不特定多数じゃなく、個人を狙う場合は確実な情報が求められる。対象の髪の毛なんかありゃこれ以上ねぇな。爪でも良い。切り離されても相手の一部だ。指とか目玉とかよりよっぽど簡単に手に入る。現代の技術でもDNAから個人が割り出せるんだ。呪いだって同じだろ」  そうなのかな、と思ったけれどとても疑問を呈すことができる空気ではなくて僕は黙る。高性能AIを搭載しているだけあって、物知りなテディベアだ。魔法少女のマスコット兼アドバイザーという立ち回りは日曜朝のアニメと同じらしい。そうじゃないんだろう、と薄々は思いながら認めたくない僕は悪足掻きとしてそう現実逃避することにした。 「るぅと君てば物知り〜! やっぱり色んなことを知ってるね! 『オカルトのことなら俺に聞け! 岡るぅと先生のオカルトチャンネル』、また楽しみにしてるよ! 他の二人のリスナーも寂しがってるし!」 「おーやめろやめろ、こんなところで人の黒歴史を掘り起こすな」  どうやら岡るぅとという名前があるらしいぬいぐるみが乾いた声をあげた。高性能ともなればAIが動画配信チャンネルを開くこともあるか、と僕は無理矢理に納得する。圏外だから無理だけど、スマホが使えたら目の前であっても検索しただろう。物凄いリスナーの少なさだ。それでも寂しがってくれるならコアなファンだと思うけど。 「あ、でもるぅと君がいるならいつでもあたしのための配信、生で聴き放題かぁ……」 「やばいやばいやばい、やばいのに捕まった。信者とか熱狂的なファンとかそういうのとはもう一線を画してる。こいつが怪異レベル」 「ひどーい! こんなに一生懸命にるぅと君の知識で愛のために戦ってるのに!」 「あー、うん、愛、愛ね……愛だね……」  ぬいぐるみは諦めたような声で返した。ボタンの目では分かりにくいけれど、きっと遠い目をしているに違いない。  そんなことより、とぬいぐるみは話を続ける。 「本当は名前も隠した方が良いんだが……ほら、戦隊モノでもそうだろ。何とかレッドとか、惑星のコードネームとか、キューティーで何とかとか、正体を隠したいからそうするってのに……」 「でもあたしの好きな魔法少女は本名だもん。本名にプラスでカタカナがついてるの。コズミックなんとか、とか、スターライトなんとか、とか。それにキューティーなあの子も本名はハニーちゃんだもん。だからあたしも、ミラクルクルミン、なんだよ」  これは譲れないよ、と自称魔法少女が熱弁する。はいはい、とぬいぐるみは軽くあしらう様子から何度となく交わされたやり取りなのだろうと僕は思う。推察するに自称魔法少女の本名はくるみちゃん、らしい。ぬいぐるみもさっきそう呼んでいた気がする。 「しっかしお前のこれ……護符というより呪符って感じだよな……」 「ありがた〜いお札だよ! 霊験あらたかってやつだよ!」  明るい声で自称魔法少女は言う。お前も一枚持っとけ、とぬいぐるみが顔の横から出してくるのを僕は受け取った。お正月の初詣でお守りとして売っているものの中にこういうお札があったように思う。筆で描かれてよく読めない文字と、イラストのようなものが描かれている。これは、魔獣、だろうか。荒々しい筆致で描かれたそれは口を開き、吊り上がった目をした恐ろしい形相の獣に見えた。 「ミラクルクルミンのオリジナル、キュートなクマさんの護符だよ」 「え、クマ⁉︎」  驚いた声が僕とぬいぐるみから同時に出た。高性能AIでも驚くことなんてあるんだ。自称魔法少女は雰囲気から察するにどうして驚かれたのか判らないでいる様子だ。きょとんとした表情をしているのが目に浮かぶ。 「おま、これ……絵心ない芸人か……?」 「魔法少女!」 「絵心ない系の魔法少女か……」  ぬいぐるみの呆れを通り越して諦めたような声が呟いた。絵心がないと言われたことはどうでも良いのか、むふふー、と自称魔法少女は嬉しそうにしている。 「可愛いでしょー。るぅと君のクマがモデルなんだよ」 「は⁉︎ こんな怖くな……、あぁえっと、荒々しくないはずなんだが……」  ぬいぐるみが気を遣ったのか言い直した。流石に怖いは言い過ぎだと思ったのだろうか。筆は難しいんだもん、と自称魔法少女は口を尖らせる。まぁ確かに筆で絵を描こうと思ったら難しいだろうと僕も想像して思った。でも、こんな風にはならないと思うけど……まぁ、実際になっているから仕方ない。 「……まぁ、絵がどうあれ効果は本物だ。霊験あらたかな木と水と、選び抜かれたもので作られた紙らしいからな。筆も墨も一級品だ。後は描く人間の魔力。文字が汚かろうが絵が汚かろうが、込められた力が本物なら効力を発揮する」 「ん? 今、汚いって言った?」 「言った。それはともかく、持っておいて損はない。三枚のお札って昔話を聞いたことはあるか? 偉い坊主が書いた札が小僧を山姥から救う話だ。使い方にもよるが、札は強力な術だ。手間も時間も相当なコストがかかる分、効果は絶大ってわけだな」  三枚も渡せるほどはねぇが、とぬいぐるみは言う。汚いと言われたことを否定されなかった自称魔法少女は不機嫌そうに黙ってしまったが、僕はぬいぐるみから渡されたお札をお守りとして大切に両手で持った。魔獣が描かれたとしか思えなかったけど、キュートなクマ、らしいそのお札が今は僕を守ってくれるのだろう。何処まで信じられるか、全部を信じ切れたわけではないけれど、お守りだと思えば少し心強かった。 「ありがとう、えーと……魔法少女、さん」 「……ミラクルクルミン」 「うん、ミラクルクルミン」 「んふふー」  不機嫌さからかぶっきらぼうに返ってきた名前を呼べば、満足そうな笑い声が続いた。チョロいやつ、とぬいぐるみが溜息と共に言う。僕は苦笑した。 「えっと、あなたも。高性能AI搭載の、岡るぅと君、さん……?」 「やめろやめろ、何だその、くんさんって」 「るぅと君はるぅと君だよ、おにーさん」  変なの、とミラクルクルミンが笑う。るぅと君は気持ち悪そうにしていたけれど、るぅと君と呼ばれるのは嫌じゃなさそうだ。 「おにーさんは何者なの? もしかして新しい魔法少女?」 「え、いや、僕は……」 「今時は男の子だって魔法少女になる時代だからね! 大人でも関係なし! そろそろ新しい仲間が現れる頃かなって思ってたの! 大体三話くらいで次の仲間が出るじゃない?」 「そういうのは最初の怪異を倒してからだろ。二人で倒すって展開もないわけじゃないが……残念ながらこの学生に魔法少女の適性はない」  なんだー、とミラクルクルミンは残念そうに言うけれど、僕は聞き捨てならなかった。今、るぅと君は何て言った?  僕は狭い滑り台の中で体を捻ってミラクルクルミンとるぅと君を見やる。るぅと君は相変わらずのぬいぐるみフェイス無表情だったけど、ミラクルクルミンはきょとんとしていた。 「最初の怪異を倒してから……? キミたち、こういうのは初めてなの……?」  さも経験がありそうな感じだったから慣れているのかと思った。やっぱりコスプレごっこだろうか。それらしい話を聞いて安心していた。 「や、やっぱり撮影とかなんじゃ……」 「落ち着け。確かにこいつの初陣みたいなもんだが、能力はお墨付きだ。現に護符は効いただろ。いくらこいつが頼りなくても、大丈夫だ、信じろ」  撮影だ、と言ってくれた方がいくらか安心できた。そういう台本だと言って欲しかった。それともまだカメラは回っているのだろうか。どんなアクシデントやアドリブがあろうと、カメラを止めないポリシーの監督かもしれない。こんな狭い中でどうやって撮影しているのかと思うけど、其処はそれ、例えばるぅと君の目に小さなアイカメラを仕込んでいるとか。るぅと君視点のドラマ、うん、面白そうじゃないか。僕がまた現実逃避にそう考えた時。  ミラクルクルミンが目を見開いた。サッと表情が変わる。瞬間的に表情が塗り替えられるその様子は、先ほどの出来事を思い出すに充分だった。けれど先ほどのような違和感はない。これは、温和なものから危機感を覚えたものへの変化は、何も不思議なものではないからだ。  ひた、と首筋に何かが触れて僕は飛び上がった。僕の方へ乗り越えんばかりにミラクルクルミンが腕を伸ばす。その手には護符があった。 「おにーさんから離れて!」 「ぎゃああああ!」  こっちだ、とるぅと君がふわふわの手足で滑り台を昇り始める。ミラクルクルミンはそのまま外へ出て行った。僕はるぅと君をまた抱き抱えると滑り台を逆走する。こんなの、子どもの頃以来だ。きっとこの公園でも誰が一番早く天辺へ辿り着けるか競争している子どもたちがいるだろう。 「くそっ、お喋りに興じすぎた。近づいていることに気づかなかった!」  致命的なうっかりとしか思えないけれど、るぅと君が心底悔しそうに言うから僕はただ頷くだけにした。僕も気づかなかったし。タコ足の滑り台は思いの外、長い。それを濡れて滑る靴底で駆け上がって僕は遂にタコの頭に出た。傾斜は緩いものの距離があるタコ足の滑り台は天辺から飛び降りても大人の僕ならそう怪我をすることもない高さだ。  天辺に出て僕はすぐに周囲を見回した。僕が腰を落ち着けていた足の一本の先でスーツの女とミラクルクルミンが対峙している。あれが、るぅと君が説明してくれた怪異だとするなら。『雨の女』と呼ばれる怪異で、倒さないと此処からは出られないと言うなら。 「るぅと君、あの怪異ってやつ、どうしたら倒せるの?」 「とにかく弱らせるしかない。止めはあいつの護符が何とかしてくれる。滅せなくても封印でも何でも良い。とにかく参ったと思わせろ。塩とか持ってないのか?」 「ただの男子学生が持ち歩いてるわけないよ!」  具体的な方法があるわけでもないらしい。これが初陣みたいなもの、と言っていたからよく判っていないことも多いのかもしれない。何か武器になりそうなもの、と思っても平和な公園にそんなものあるわけがなかった。精々が良い感じの棒が落ちているくらいだけどそんなの子どものチャンバラごっこでしか使えない。 「るぅと君は何でも知ってるマスコットキャラ的な立ち位置じゃないの?」 「残念だったな、違う」 「違うかー!」  雨の女はミラクルクルミンと物理的な肉弾戦を繰り広げていた。え、何あれ、凄い。 「ミラクルクルミンって武闘家か何か?」 「実家が神社だからな。剣道を習わされている」 「神社の子かー! だから巫女で愛の戦士で魔法少女なんだ」  ミラクルクルミンの自己紹介は間違えていないらしい。護符を書けるというのもそれで腑に落ちた。なるべくしてなった、と僕としては思うけど、るぅと君にしてみれば情報量が多いようだ。まぁ、相手に情報を与えすぎ、という意味ではそうかもしれない。名乗りに全部ぶっ込まなくても、とは確かに思う。 「けどあれで倒せるの?」  判らん、とるぅと君は苦虫を噛み潰したみたいな声で答えた。正直だ、と思う。できるともできないとも言わない。確かに明らかな優勢でも劣勢でもなかった。雨の女の攻撃は野生のような、本能で腕を振り回しているだけに見えるけれどその分攻撃が読みにくいのかミラクルクルミンは一定の距離を保って目を離さない。対して彼女は素手だ。剣道を習っているなら竹刀の一本でも必要ではないかと思うけど。 「竹刀とか持ち歩いてないの?」 「魔法少女はステッキで攻撃するものだ、と言って聞かない。尚、ステッキはラッカーを塗って絶賛乾燥中だ」 「まさかの手作り」  そりゃお前、通販サイトにあるステッキは既存のアニメの物ばっかりなんだよ、とるぅと君は不満そうに言った。まぁ、ミラクルクルミンは完全オリジナル魔法少女だから、いや、闇より出でし退魔の巫女で愛の戦士で魔法少女だから、こだわりのステッキは自作するしかないのだろう。 「怪異はこっちの製作なんか待っちゃくれないからな……護符があれば何とかなる、と思って出てきた。実際お前は襲われてるし、護符は効く。あいつに恐れがなくて良かった。全然怯みゃしねぇ」  るぅと君がミラクルクルミンの戦闘を見ながら少しばかり引いたような声で言う。あんな様子のおかしいスーツ女を前に逃げ出さないだけでも凄いのに、立ち向かえる勇気や度胸は凄いと素直に僕も思った。 「剣道で培った精神ってやつかな」 「どっちかというと……思い込みの力だな」  思い込み、と僕は訊き返す。  ──あたしは大丈夫! るぅと君がくれたこの力で食い止める!  ──いや俺があげた力っていうか……この思い込みつよつよ娘が……っ。  ミラクルクルミンが雨の女を引き受けた時にるぅと君が吐き捨てた言葉を僕は思い出す。最初もそう言ってたね、と続ければよく覚えてるな、とるぅと君は小さく笑った。 「あいつを魔法少女にしたのはこの俺だ」 「……やっぱりマスコットキャラだったんだ……」  魔法少女に力を授けるマスコットキャラは僕が子どもの頃に見ていたアニメにも出てきた。大抵は不思議なアイテムを授けてそれで変身……をするものだけど、彼女の場合はどう考えても自宅で着替えてから出てきたとしか思えない。こんな夜更けに着替えを貸してくれる場所なんてあるわけないし、公衆トイレは論外、コンビニのトイレだってぎょっとされるだろう。彼女が気にするかどうかは別として。 「こんなナリだがマスコットキャラじゃない。俺が元々は人間だと言ったらお前、信じるか」 「え」  そういう設定の高性能AIだろうか、と僕は考える。どう考えたってぬいぐるみが元人間なわけはない。でも、あのスーツ女だって、雨の女だって、どう考えても人間ではない。様子のおかしい人間と言えば通るかもしれないけれど、どう考えても様子がおかしすぎる。 「まぁ、お前がどう捉えるかはお前の自由だが……」  るぅと君は言葉を切ってひとつ、静かに深呼吸をした。ぬいぐるみに呼吸が必要なのかは判らないけれど。 「……自分の爪を入れたひ……に……っこだけは、するなよ」 「え、なに?」  雨の女の咆哮と重なって上手く聞き取れなかった。何でもない、とるぅと君は教えてくれない。何にせよ、と話を続ける。 「俺も呪われた身、ってやつだ。この呪いの解呪に必要とばかりに備わった能力が、魔法少女を生み出す力だ」 「何それ……」  心の声がそのまま出てしまった。俺もそう思う、とるぅと君は否定せず頷いた。意味が分からん、と当のるぅと君が言ったのでは僕がこれ以上言うことはない。 「だがあいつが応えた。俺を追って、堕ちてきた。あいつの魂で俺は繋ぎ止められている。神社の生まれで元々そういう素質があるんだろう。それでいて思い込みが強い良くも悪くも天然バカだ。本当に俺の能力なのか、あいつの思い込みの力だけなのかは分からんが、あいつは自分を魔法少女だと思い込んでいる」 「思い込んでいる……」  それって結構、ダメなやつなんじゃ……と僕は思うけれど実際に闘っている姿を見たらそんなこと口には出せない。自分が思う魔法少女の格好をして自分の力で闘うミラクルクルミンが魔法少女じゃないとは、何故だか断言できなかった。それは彼女の憧れで、夢が叶った瞬間でもきっとあるのだろうから。 「思い込みでも、想いの力ってのは侮れなくてな。あいつが護符に力を込められるのも、そういう素質があるのも、その思い込みの強さが大元にあるはずだ。原理は分からんが、使えるものは使う。能力があるのに使わないのは勿体ないだろう。利用しているみたいで気は引けるが……こうして襲われてるやつを助けられるならまぁ、悪いことではないだろ」  魔法少女は困っている人を助けるものだ、とるぅと君は言う。ミラクルクルミンも迷える子羊の味方だと言っていた。そういうものとして二人が僕を助けてくれたなら、僕は感謝こそすれそれに文句や不満を言う筋合いはない。よく判らない部分はあるけれど、目の前で起きているこれが夢ではないなら、僕はこの現実をただ眺めているだけで良いのだろうか。 「……ねぇ、るぅと君。ミラクルクルミンの家からその乾燥中のステッキを持ってくるというのは?」 「残念ながら塗ったのは今日だ。全然まだ乾いていない。ベタついた手で闘うのはかなり集中力が削がれる。何より途中の物を持ち出してくるのはあいつが嫌がる。お披露目の機会は今じゃないって怒り出すに決まってるぞ」  ミラクルクルミンへの理解度が高くて僕はそっかと苦笑した。どのくらい一緒にいるのか知らないけれど、彼がそう言うならそうなんだろうと思う。とすると他に打てる手は。 「思い込みの力が強いなら……ごっこ遊びは得意な方かな」 「今のあれはごっこ遊びの延長みたいなものだろう。即興劇も得意だろうな。高校じゃ演劇部だそうだ」 「剣道部じゃないんだ?」  家にいたら稽古するのに学校でもしたいか? と問われて、うーん、と考えてしまった。学校では別のことをしたいと思うのも不思議はない。 「不思議なところはあるけど可愛いし、主演女優とかやってるのかな」 「やりたいらしいがな。破天荒すぎてそういうのは回ってこないらしい」 「うん、分かるよ」  あんまり彼女がシンデレラとか白雪姫とか、ジュリエットとか、そういうのをやるイメージはない。衣装を着たら似合いそうだとは思うけど、あまりお姫様というイメージがないのだ。破天荒で、無邪気で、舞台を賑やかにする方が重宝されるだろう。町娘Aとか、そういう役があてがわれそうだ。  それがどうかしたか、とるぅと君が話の本筋を戻す。僕はベンチの傍に視線を向けた。ベンチの横には木が植わっている。其処に、良い感じの棒が落ちているのだ。 「るぅと君、あの棒切れをミラクルクルミンの臨時ステッキだと言って渡したら、ノってくれると思う?」 「……微妙だな。あいつのお気に召せば良いが、そうじゃないならリスクがデカい」  今の魔法少女としての思い込みも、急に現実に引き戻されてしまうかもしれない。そういう懸念があるか、と僕は思うけど、るぅと君が試してみるか、と僕に問うた。 「このままでもジリ貧だ。やるだけやってみても良いぞ。何か手を打たなきゃ打開はできねぇ」  失敗しても俺たち三人纏めてお陀仏なだけだ、とるぅと君は笑う。それを避けるための方法を探しているのだけど、何もしなくてもいずれはそうなる。それなら何か、行動した方が良いのは明白だ。  僕には別に、特技はない。役に立つような知識もないしバイトの経験も特に生きない。ミラクルクルミンの方がよっぽど沢山のことができるし、るぅと君の方がこの分野に関しての知識がある。ただ声をかけられて反応して、断るに断れないから応じた僕を雨の女は愚かと言った。ぐうの音も出ないくらいその通りだ。でもそんな僕を、二人は助けようとしてくれる。何の見返りもないけど、きっとただ、魔法少女だからという理由だけで。  るぅと君の話から目的があって魔法少女をしているのだろうし、僕はただそのついでなだけかもしれない。でも、僕だって女の子にただ守られているだけではない。どれだけ情けなくても、僕は僕にできそうなことをする必要があるはずだ。  人は急には強くなれない。こんな状況に陥ることだってそうないだろう。でも宴会バイトだって接客バイトだ。経験のない状態になることは何度もあった。知らない酒の名前を言われて置いているか問われたり、高級なお召し物ばかりの人の中で転びかけて運んでいる飲み物や食べ物をぶちまけそうになったり。沢山叱られたし怒られたけど、命までは取られないし、と思って軽く反省して同じ失敗をしないようにと気をつけた。でも、これは。命は取られるし一度の失敗で全部が終わるかもしれない。何もかもは違うけど、僕にだって多少の度胸はある。どうにでもなれ、というやぶれかぶれとは違う。何とかなれ、という思いは、ミラクルクルミンなら何とかしてくれる、という他力本願な願いにも似ていた。  僕は視界の隅に二人の闘いを収めながらこっそりとタコ頭から滑り台を滑り降りた。傾斜が緩やかな滑り台は急に放り出されるようなことはなく、ゆっくりと僕をタコ足滑り台の出入り口に連れて行く。ミラクルクルミンの集中を欠かないように。雨の女の野生のセンサーに引っかからないように。そう行動したおかげか、まだ雨の女が吼える声が聞こえてきた。  るぅと君は僕の背中にしがみついている。リュックはタコ頭に置いてきた。背中を守るものがなくなるのは不安だったけど、少しでも身軽な方が良い。  目の前にはベンチがあるものの、少し距離がある。公園の敷地は広い。正面入り口から入ればタコ頭の顔と向き合うように設置された巨大滑り台は放射線状に足を広げている。出入り口は正面から見て右手側にもあり、背の低いフェンスが敷地内を囲うように建てられていた。大した障壁にもならないと思いながらも人間の心理は多少のフェンスを障害として認識するらしい。出入り口すぐの足を避け、僕らは左手奥の足に身を潜ませた。今は其処にミラクルクルミンと雨の女が対峙している。  肝心のベンチは右手側の出入り口とは正反対の左手側にある。正直、雨の女が物凄く近くて怖い。振り返られたら一巻の終わりだ。ミラクルクルミンが駆けつけるより速く、雨の女の手は僕に届くだろう。でも、良い感じの棒はすぐ其処だ。  雨の女に気づかれないようにタコ足の滑り台から飛び出し、良い感じの棒を拾う。それをミラクルクルミンにステッキだと銘打って何とかして渡し、彼女の思い込みの力で雨の女を撃退する──というシナリオだけれど、そんなに上手くいくだろうか。飛び出した瞬間にあの野生のような動きで雨の女は僕に狙いを定めて襲いかかってくる……そんなシナリオの方が簡単に予想できて飛び出す勇気が出ない。  でも、このままでもジリ貧なのはるぅと君の言う通りだ。勇気を出せ、僕。女の子に闘わせたまま、こんなところに隠れているだけで良いのか。  いや、何も良くない。ミラクルクルミンが多少でも僕のために闘ってくれているなら、僕だってミラクルクルミンのために行動するべきだ。だから、僕は。 「……っ!」  駆けるために、僕は静かに大きく息を吸い、そして──思い切ってタコ足滑り台から飛び出した。
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