メデューサくんは先輩の目を見つめたい

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 真夏はもうすぐそこなのに、机の下の学級日誌を持つ手が震えている。大丈夫。何度もシミュレーションした。席を立って、あの、と声を掛ける。振り向いた相手の胸のリボンを見ればいい。  すかさず学級日誌を差し出して、これ、今日の欄に記名して先生に提出してください、って。言えばいい。相手を不快にさせないような柔らかい雰囲気で。 (大丈夫、大丈夫……)  自分に言い聞かせても、佐藤二葉(さとうふたば)の指先は冷える一方だ。  長めの前髪越しに辺りを見やる。1Aの教室には、すでに両手で数えられるくらいの生徒しか残っていない。窓の外は日が傾きかけて、濃紺と柿色のグラデーションが切ない。東の空には、校舎の合間を縫って一番星が、キラキラ。瞬いている。多分、頑張れ、って。 (早くしないと……)  こんな焦燥感を、二葉は朝から繰り返している。  黒板消しも、動植物の世話も、移動教室の施錠も、窓の戸締まりも……日直の仕事は全てやったけど、学級日誌だけは日直二人の直筆記名がどうしても必要なのだ。朝からずっと声をかけようと思っていたのに、結局この時間にまで言い出せていない。  一日中目で追っていた女子グループがカバンを肩に掛けて教室を出ていこうとする様子を見て、二葉は慌てて駆け寄った。もう後がない。 「あ、あの……!」  大声で談笑しながらカバンを肩に掛け、教室を出ていこうとする彼女たちの後ろ姿に向かって声をかける。四人いた全員が、二葉のほうを振り返った。  視線が一斉に二葉に集まり、二葉の体から熱がすうっと抜けていく。リボンを見ようと思っていた気持ちは吹き飛び、視界に映るのは自分の上履きと学級日誌だけになった。 「学級日誌……今日の欄に……記名を……」  俯きながら日誌を差し出した。が、受け取ってもらえる気配はない。  返事の代わりに返ってきたのは、嘲るような笑い声だった。 「誰に言ってるか分かんないんですけど」  小馬鹿にしたように言われて日誌を落としそうになる。  日直の名前は朝から黒板に書いてあるのに。クラス全員が見ているはずなのに。とぼけないで記名だけでいいからして欲しい……角が立つような本音をぐっと飲み込んで黙り込む。  女子同士の小さな耳打ちが聞こえてきた。 「仕方ないよね。メデューサくんだもん……」  ひそひそとからかうような笑い声が教室中から聞こえてくる。  目が合わなければ会話もままならないことは分かっている。  それで人を不快にさせてしまうことも、重々分かっている。  だけどこれが二葉の精一杯だった。
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