自己責任

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 自分たちで非正規雇用を拡大しておきながら自己責任論者は言う。職業を自由に選択出来る立場にある中で非正規雇用を敢えて選んだのだからワーキングプアになったことに対する責任は当然、自分で取るべきだ。或いは正社員になれなかったのは努力が足りなかったからでワーキングプアになったことに対する責任は当然、自分で取るべきだ。  これは新自由主義的発想であって自己責任という言葉自体おかしいのである。自己と責任をくっつける事自体おかしいのである。それと言うのが自己責任を英語に意訳すると、own risk(危険の負担)となり責任の概念から外れてしまうのである。責任とは村全体で年貢でなく個々に税金を納めるようになって助け合いの精神がなくなりかけた明治に西洋文化の単語の一つとして入って来たresponsibilityを和訳した言葉で、その語源はresponse(応答)であって他者とのコミュニケーションが前提にあるから欧米では相互保証の関係を意味する。ところが新自由主義導入後辺りから解釈がエスカレートして自己責任という言葉が生まれた日本では雇用者が一方的に被雇用者に責任つまり危険を負わせることになる。従ってワーキングプアにさせた責任を雇用者が取るべきなのである。然るに謂わば強者が弱者に責任転嫁しているのである。強者は努力が足りない、だから駄目なのだと弱者に実しやかに言うが、努力はしようとしまいが自由だし義務づけられている訳ではないから努力の有無から責任が生じる理屈は成立しないのである。そもそも非正規雇用者は幾ら努力したって賃金が上がらない上、搾取されたりピンハネされたり不当に首をはねられたりして全く報われないのである。  正に自己責任とはこの理不尽極まりない構造、安い労働力を確保する為、または自分たちに鉾先を向けられない為、本来責任を取るべき者が便宜的に編み出した、責任の意味を履き違えた造語なのである。  能登の被災者を積極的に支援しないのも自分たちで何とかしろと自己責任を押し付けている嫌いもなくはない。正に危険を負わしているのである。シングルマザーの子育て苦も生活保護者を非難するのも年金減るから2千万以上貯金しとけと言うのも社会保障の公費負担を削減するのも自分たちで何とかしろと自己責任を負わしているのである。とどのつまり危険を負わしているのである。  学校でも教師は苛められっ子に対し事実上、自分で何とかしろと自己責任を負わし、親も生まれ育ち馴れ親しんだ土地から引っ越しを余儀なくされ転校後、苛められっ子になった我が子に対し事実上、自分で何とかしろと自己責任を負わすのである。私はその純然たる被害者だ。私には転校を拒否する自由がなかった。自由には責任が伴うとフロイトは言ったが、その論理からしても私には責任がなかった。また、資本家は生産手段を持っているから労働者より遥かに有利で自由な立場に立っているとマルクスは言ったが、それなら当然、雇用者が責任を取るべきなのである。それこそ、愚か故に自由が元々与えられていない人間には責任がないとしてゴルゴタの丘で十字架にかかって犠牲の死を遂げたキリストのように贖罪しなければならないのである。
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