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 朝起きると、いつも通り灯希は既にベッドを出ていて、巽は大きく伸びをしてからベッドを降りた。裸のままで眠ってしまったのにパジャマを着ているのはきっと灯希が着せたのだろう。  そんなに甲斐甲斐しいことをするくせに、あんなふうにわけのわからない理由でこんなおじさんを組み敷くなんて、灯希には何か悩みでもあるのかもしれない。ちゃんと話を聞いてあげる時間を最近は作っていなかったし、すっかり灯希に甘えてばかりだったから、きっと巽が気づいていない何かがあるのだろう。  灯希と話をしなくてはいけない。  まずはパジャマを着せてくれた礼でも言うかと思いリビングに出ると、ソファに座る灯希は、巽のスマホを手にしていた。それから巽の気配に気づいたのか、こちらを振り返る。 「おはよう、巽さん」 「あ、ああ……スマホ、着信とか来てた?」 「いや、何も」  灯希は特に慌てる様子もなく立ち上がって、手にしていたスマホを巽に渡した。すぐに画面を見てみるが、待ち受けが実家の犬になっているいつもの自分のスマホだ。 「巽さん、朝ごはん出来てるから、食べてね。俺、今日ちょっと早く出かけなきゃいけなくて」  ちゃんと時間見て用意してよ、と立ち上がった灯希が上着をはおり、いつものカバンを手にする。 「何かあるのか?」 「うん。今グループ研究大詰めで、講義の前に集まってやろうってなって」  大学生もなかなか忙しいらしい。昨日あんなことをしたわけをちゃんと聞こうと思っていたけれど、それは難しいようだ。  巽は玄関へと急ぐ灯希の後についていった。 「気を付けて」 「うん、見送りありがと、巽さん」  靴を履いた灯希が顔を上げ、框に立ったままの巽に微笑む。それから、いってきます、と爽やかな笑顔を残して家を出て行った。  昨日自分を見下ろしていた顔とは全然違うそれを見て、やっぱり昨日のことは夢だったのでは、なんて思ってしまう。けれど、自分の体がきしむこの感じが、間違いなく昨夜灯希に抱かれたと告げている。 「……訳が分からん……」  巽は廊下の壁に体を預け、大きくため息をついた。  出掛けに『時間見て』と灯希に言われたというのに、いつもせかしてくれる灯希がいなくてうっかりしていた巽は、この日、就業時間ぎりぎりに職場にたどり着いた。 「おはようございます、主任。今日は珍しくぎりぎりですね」  デスクにたどり着くと、隣の席の女子社員が、くすりと笑う。 「……少し寝坊をして」  本当はちゃんと起きたのだが、家を出る時間が遅いなら同じようなものだろう。その言葉を聞いた女子社員が、どうりで、と巽の胸元に視線を向けた。 「ネクタイ、緩んでますよ」 「え、あ、ホントだ」  巽は席に着くと、慌ててネクタイを結び直した。いつもなら灯希が『やりたい』と言って結んでくれるので、ノットもキレイに整えてくれるのだが、自分だとそこまでキレイにはできない。この時も、それなりにしか出来なかった。 「主任は早く結婚したほうがよさそうですねえ。木南さんより主任の方が結婚早そうって思ってました」 「……それは、おれが不甲斐ないから、かな?」  巽が倒れた時も、この社員は在籍していたから、孤独死するよりは家族が居た方がいいのでは、と思ってしまうのだろう。 「というか、放っておけないって思う女性はいると思いますよ。毎日ネクタイ結んであげたい、みたいな世話好きな人とか」  世話好き、と聞いてふと灯希を思い出してしまった巽は、そういう意味ではないだろう、と自分の中でそんな考えを打ち消す。 「そのために結婚っていうのも、なんだか違う気がするけどな」 「まあ……お相手がお世話することが生きがいっていう方ならともかく、普通は段々と煩わしくなりますよね」  私なら自分でやってってなると思います、と女子社員が心底嫌そうな顔をする。彼女も何か自分の経験上思い当たることがあるのかもしれない。 「お互い忙しければそうなるから、結婚したら、なんて考えてないよ」  巽が笑って答えると、ですよね、と頷いた社員が、そういえば、と言葉を繋ぐ。 「高梨さんも支社に行くかもしれないって噂聞いたので、結婚イコール同居というわけでもないですしね」  木南さんとはまだ一緒に暮らしてないのかな? と女子社員が首を傾げる。巽はそれに、どういうこと? と聞き返した。 「うちの会社の慣例で、夫婦は同じ部署で働けないみたいで。部署異動か、支社へ異動かって話みたいです。木南さんが異動するとか考えられないし、多分高梨さんが異動ですよね」  きっと夫婦どちらが異動してもいいのだろう。とはいえ、抱えている仕事は木南の方が多いだろうし、まだまだ社内の意識は古いままだ。そうなると必然的に異動の対象は高梨ということになる。高梨は営業の仕事を気に入っているし、他部署に異動は考えにくい。そうなると自然と転勤という言葉が頭に浮かぶ。 「一番近い支社でも新幹線で二時間だからな……通勤は考えにくいな」 「ですよねえ。どっちかが犠牲になるようなそんな慣例、なくなればいいのに」  実質的に部内恋愛禁止ってことですよね、と女子社員が眉を顰める。確かにそう捉えたら時代錯誤な気もするが、周りが仕事をしにくいということももちろんあるだろう。子どもが出来れば同時に産休や育休を取ることだって考えられるし、戦力が同時に二人分欠けるのは痛手だ。だから一概に撤廃とは言えないが、木南と高梨に限って言えば、やっぱり心配なことではあった。  巽は、そうだね、と頷いてから、それでも今は仕事をしよう、と自身のパソコン画面に視線を向けた。
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