Dear ビアンカ

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 翌朝、クリスティナが出勤するとビアンカはすでに黒江に起こされていた。指も直してもらったらしく、機嫌よく課題に取り組んでいる。ビアンカにはもともと喜怒哀楽がプログラムされているから感情に似たものを表現するが、それが日に日に自然になっているのは気のせいではない。 「博士、ビアンカに図鑑を与えないんですか?」  昨日生じた疑問を口にすると黒江は少し驚いた顔をした。 「図鑑ですか?」 「はい、昨日話題に出したら興味を持ったようなのですが……」 「もうそのレベルに到達したのですね……」  黒江は感慨深げに呟いた。図鑑は一つの到達点だったらしい。 「早急に揃えます」  黒江はすぐさま書籍専用の通販ページを開き、子供用の図鑑の全巻セットを注文した。黒江はなんでもすぐに対応する。十代のうちに死にかけているせいか、一分一秒を無駄にしたくないのかはわからないが、彼女が決断を迷う姿というのはあまり目にしない。 「そろそろ外に連れ出してもいいかもしれませんね」  黒江は考えるように顎をなぞりながら呟いた。 「ビアンカを外に?」 「はい。過度の刺激を避けて学習を続けさせてきましたが、興味が外に向いてきたのであれば外に出す頃合いと言えるでしょう」 「そうなんですね」  黒江にビアンカを外に連れ出す意思があるとは思わなかった。今までのようにずっと閉じ込めておきたいのだと思っていたが、そうではないらしい。学習段階のステップを踏んでいたということなのだろう。黒江の視線がまたモニターに戻るのを見て、クリスティナも自分の作業に戻る。  少ししてビアンカが黒江に課題を提出していた。課題が彼女にとって退屈なものになりつつあることを黒江は気付いているようだが、丁寧に綿密に積み重ねられるステップを踏ませることに意味があるらしい。天才の考えることはよくわからない。 「ビアンカ、外に出てみたいですか?」 「博士も一緒?」 「はい」 「お外行きたいの」  ビアンカの声が嬉しそうに弾む。 「いい子ですね。靴や洋服を用意してあげましょうね」 「今着ているものじゃダメなの?」 「ラボは常に同じ室温に保たれていますが、外には季節というものがあり、気温が変動します。今の季節は冬。気温が低く、コートといった防寒着を着こむ季節です。あなたには温度センサーを付けてはありますが、活用していませんでしたね。いい機会ですから温度に対する危機管理システムを搭載してみましょう」  黒江はビアンカを作業台に寝かせ、電源を落とす。黒江はビアンカを改良するときは必要がなくても必ず完全に停止する。全身麻酔のようなものと彼女はいうが、ビアンカに自分が機械だと認識させたくないのではないかと疑っている。 「クリスティナ、胴体の外装を外すので手を貸してください」 「はい」  黒江と一緒にマイナスドライバーで固定用の爪をすべて外し、外装を持ち上げる。腹部のむき出しの機械とゼンマイを目にするとビアンカはやはり機械なのだと思い知らされるような気持になる。  黒江はいつも思い立ったようにビアンカを改良する。必要なものは常にそろっているから問題ないのだが、設計図を確認することもなく改良を重ねているのに内部の配線が混乱していないことにはいつも驚かせられる。手当たり次第にやっているように見えるのに配線さえ美しい  黒江はクリスティナに時折簡潔な指示を出しながら、いくつかの端子を繋ぎ変え、新たな機構を追加し、プログラムを見直す。一瞥しただけでわかるほど簡潔でわかりやすいプログラムが組まれているが、それこそが彼女を天才たらしめている所以かもしれない。複雑なプログラムを構築することは彼女にも容易だろう。だが、もしもビアンカが彼女の管理から外れた際に彼女しか理解できないプログラムが組まれていたら、二度と修理ができなくなる。けれど、簡潔なプログラムであれば知識のあるものなら解析、修理が可能だ。彼女はそこまで見越しているのだろう。黒江はほとんど話そうとしないから真意はわからない。 「外装を閉じます」  もう終わったのかと思いながら外装を閉じていく。元々温度センサーは付いていたからだろうか。新しく追加した機器のスペースがあったから元々予定されていた改良なのかもしれない。黒江はビアンカの耳につないだ端子を外し、起動する。ビアンカがゆっくりと目を開けた。わずかに発光する水色の目が映像を本体に送るのを確認するかのように絞りが動く。 「おはよう、私のビアンカ」 「おはよう、ママ」  その返答にクリスティナは居心地の悪い気持になる。ビアンカが黒江をママと呼ぶのは起動時のみで、なんらかのエラーが発生していると博士と呼ぶ。それが動作チェックの一環とわかっていてもアンドロイドにママと呼ばせる黒江に何とも言えない不気味さを覚えずにはいられないのだった。  黒江は一人暮らしで、家族の話も聞いたことはない。そんな孤独な彼女の家族がビアンカだというのだろうか。 「新しく気温を感じるようにしました。どう感じますか?」 「二十五度。適温だと感じるの」 「いいですね」  黒江はビアンカを大型冷却器の前に立たせて蓋を開ける。 「これが寒いです。わかりますか?」  冷却器からあふれ出す冷気で室温が急激に下がって行く。冷却器はドライアイスも保存できるものだ。内部の温度は一般の冷凍庫の比ではない。 「十……マイナス一度。寒い。わかったの」  黒江はすぐに扉を閉め、エアコンの設定温度を変える。少し厚着をしていたクリスティナは汗がにじむのを感じた。 「これが暑いです。わかりますか?」 「三十度。暑い。冷却が必要なの」 「そうです。あなたは三十二度以上の環境では誤作動を起こす可能性があります。暑いと感じたらすぐに申告するようにしてください。同様に五度以下の環境でも活動が低下します。覚えておきなさい」 「わかったの」  ビアンカは繊細なアンドロイドだ。外出させなかったのは気温の影響を加味したものだったようだ。一年中通してラボが常に二十五度に設定されていたのもビアンカのためだったらしい。今は冬で気温は低いが、コートを着せることで本体から放出する熱を利用し、稼働適温を維持できるから、すぐに許可する気になったのだろう。まったく恐れ入る。  黒江はそのまま服を買うために外出した。いつもなら通販で届くのを待ち、自分で買いに行くことのほとんどない黒江には珍しいこともあるものだ。二時間ほどで戻ってきた黒江は白いワンピースに白いコート、白いムートンブーツ、白い手袋を買ってきた。ビアンカには白以外着せる気がないらしい。唯一バッグが水色だったが、ほとんど白と言ってもよさそうだ。 「明日、動物園に行きましょう」  黒江は天気予報を確認してからそう言った。 「動物えん?」 「多様な動物が飼育展示されている施設です。今日は長めに……六時間以上スリープするようにしてください」 「わかったの、博士」  ビアンカはさっさとベッドに行ってスリープモードに移行した。まだ十七時前だが楽しみで仕方がないらしい。しかし、黒江はあの無表情のまま動物園に行くのだろうか。好奇心に駆られたが、ついていくわけにもいかない。 「クリスティナ、急ですが、明日は休暇にします。急ぎの仕事はなかったはず。問題ありませんね?」 「はい。問題ありません」 「休暇手当をつけるので婚約者とディナーでもしてきてください。少し早いですが今日はこれで終業にします」  黒江が端末を操作するとクリスティナのスマートフォンに二人でディナーを楽しめる程度の額の電子マネーが入金されていた。黒江はとにかく払いがいい。予定変更やいつもと違う業務があるとこうしてすぐに特別手当をくれる。 「ありがとうございます、トモナガ博士」 「かまいません」  黒江は白衣を脱いで去って行った。黒江は所有する複数の特許の使用料やプログラムの作成、ビアンカに使われている技術の応用などで莫大な富を築いているからとにかく払いがいい。それはクリスティナが疑問や違和感を覚えることが多くても居座り続ける理由の一つだった。確かに自由に研究する時間が多く取れることや、黒江に助言をもらえることも大きいが、収入がよいというのは代えがたいものがある。  それに黒江は雑談をあまり好まないから、詮索も追及もしない。居心地がいいのも事実だった。別に隠したい過去があるわけではないが積極的に話したいわけでもない。そんな黒江が婚約者のことを知っているのは来年、結婚することが決まったから上司に報告しただけのことに過ぎない。黒江は結婚後妊娠した場合のアフターフォローまで明確に提示してくれ、かつそれがいい条件だったからなおさら好ましい。  クリスティナは婚約者にショートメッセージを送って荷物をまとめる。 「ビアンカ、楽しんできてね」  優しく髪を撫でで照明を落とし、ラボを後にする。降ってわいた休日に何をするか考えるだけで気分が弾む。
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