しあわせ

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しあわせ

 や、しあわせになりたい、っていうじゃないですかぁ。  ま、口には出さないでも、多かれ少なかれそんなことを、たまぁに思うじゃないですかぁ。 (雑だなぁ、ってかこの書き出しってどうですかねぇ。)  あ、しあわせだから、いまはそんなこと思わないわ、と、思う方は、……読んでない、読んでない。  さて、しあわせ、って、どういうんでしょう。 (えっとぉ、ひらがなでいいかなぁ)  お金がいっぱいあること?  あ、時間とお金がいっぱい有ること、かな?  恋人がいること?  家族があること?  友達がいっぱいいること?  仕事が充実してること?  テストで満点とったとき?  や、人それぞれに思う、自分の幸せ、って、けっこう滅茶苦茶ってゆうか、バラバラってゆうか。 (あ、漢字にした。)  例えば占い師が、アナタはこれから出掛けようとしているでしょうが、今日は朝から出掛けるととんでもない悪いことが起こります。出掛けるなら午後にしなさい。あと、アナタの家から東南の人がよく集まる場所へ行って30分ぐらいとどまってください。そうすると運気が上がりますから、なんて言われたとしましょう。  すると我々普通の人は、運気が上がる、イコール、何かいいことが起こる、と、考えてしまいがちです、よね?  そして、いいこと、と言われると、きっと、しあわせってこんなかんじ、とさっき例に挙げたのを想像するんじゃないでしょうか。 (まわりくどくね?)  でも、そんなわけぁないんですよね。(え?)  運気が上がるんだから、たとえば、転んでひざを擦り剥くのが回避できた、って程度。マイナス4がマイナス3に上がる程度のことだと思うんです。  じゃ、逆に、幸せ、っていうのは、運気が上がる程度のことだと思えますか? (え?)  運気が上がってます、と言われたけど、 お金は無いし、時間もないし。恋人いない、家族はウザイ。友達はどいつもこいつも身勝手だし、仕事なんか大嫌いだし、テストなんかグダグダだったし。ーーや、こんだけ全部当てはまる方はまぁそうそういないと思いますけども。だから運気が上がってるというのは、死にたくなる程の不幸ではなくなったかも、っていう程度のことに過ぎないんじゃないかと、あ、はい。 (えー?)  じゃ、逆に、不幸な、決して幸せではない状態、というのを、考えてみましょう。  ……や、さっきの逆で、  お金は無いし、時間もないし。恋人いない、家族はウザイ。友達はどいつもこいつも身勝手だし、仕事なんか大嫌いだし、テストなんかグダグダだったし、とかいうのが考えられますかねぇ。ーーん、ど、どっかに書かなかったか?(しらじらしいなぁ)  つまりその、逆説的な考え方をしてみれば、どんな状態が幸せか、どんな状態が不幸か、というのが、何らかの事象を通して判別できます、よね?  例えば、家族が増えた。子供が生まれたとか、結婚したとか。  逆に、家族が減った。事故とかで亡くなったとか、失踪したとか。  どっちが幸せで、どっちが不幸か、判りますね?  そうそう。家族が増えると生活費が余計にかかって貧乏になるから不幸。嫁が死んでくれたので不倫相手と結婚できるから幸せ。ーーじゃなくてですね。  つまりその、えっとぉ。  家族、すなわち、無条件でとても大切な、いてくれるだけで嬉しい存在。(と思われることが多い。)その家族が一人増えました。幸せですか、不幸ですか。嬉しいですか、悔しいですか、悲しいですか。腹立たしいですか?  その家族が、一人いなくなりました。幸せですか、不幸ですか。嬉しいですか、悔しいですか、悲しいですか。腹立たしいですか?  いや、あのですね、幸せ、とか、不幸とか、実に抽象的じゃないですか。  その抽象的なことに対して、具体的な事象を当てはめて、それに限定して考えようとするの、先ずやめましょう。  抽象的なことは、先ず、解りやすい言葉に置き換えて、考えてみましょう。  「幸せ」とか、「不幸」というのは、何らかの事象を通して、「幸せだなあ」とか、「不幸だわぁ」とか、感じるものだと思います。まして人間が感じるものなら、感情を表す言葉に置き換えて、何ら問題ないものとして理解出来るようになるんじゃないでしょうか。  「幸せ」な時の感情。ーー嬉しい、楽しい、喜ばしい、微笑ましい、なんかいいなぁ、とか、そんな感情。  「不幸」な時の感情。ーー悲しい、苦しい、嘆かわしい、腹立たしい、なんかやだなぁ、とか、そんな感情。  つまり、そんな感情を覚えた時が、「幸せ」とか「不幸」とかいう状態なわけです。  や、そんなことは云われるまでもないことですよね。偉そうに教えられなきゃならないような、複雑なことじゃありません。まぁ失礼致しましたでございます。 (ほんとうにごめんなさいごめんなさいごめんなさい。)  さて、問題にするところは、ここから先です。  幸せ、というのは、人生の目的です。  目的、ってぐらいですから、そこはきっとゴールのようなものだと思うわけです。  でも、嬉しいな、とか、楽しいな、とか感じること、ごときが、人生のゴールであっていいんでしょうか。  や、でも、何か嬉しいことがあったとき、誰かにその感動を伝えようとするとき、ああもぉ、死んでもいいぐらい感動した! とか、生きてて良かったぁ、とか、口走ったりすることありませんか?  その、死んでもいいとか、生きてて良かったとかを、ひどく不幸な嘆きの中で、誰かに伝えたいと思うでしょうか。  ま、取り敢えず、そんな情緒的なことを根拠としましてですね、「幸せ」というのは、何らかの喜ばしい状態であり、人生の目的なんである、と、結論してみようかと。  や、読んでるあなたも、疲れて来たんじゃないかとか。 すいません、取り敢えず、幸せになるまでは、何か、がんばって生きなきゃ、とか思っていただけたら、それが、私の、幸せです。 とかですね。 (2007年12月28日)  とかですね、 っていう終わり方はどうですかね。  とかですね、ってぐらいですから、何か他の言葉で締める用意があったんじゃないかとか勘繰ったりしませんか?  えっと、だからこの先、『幸せ』になる為に何をどうがんばるのか、なんでいうことを、つらつらと綴っていきたいと思っているんですが、なにぶん筆が遅いので、いや、筆を使ってないので、いつ書き上がるか、とかわかんないんすよねー、 とかいう言い訳書いてどおするんだよ! みたいな。  で、結局は、  とかですね。 で終わるのが妥当だったんじゃないかなと、当時の心境を慮る現在のおっさんなのでした。 とかですね。 (2024年4月18日)
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