独唱03 湧き上がる渇望

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 自転車を立て掛け、堤防に駆け上がる。  海は、満々と水を湛え、ゆらゆらと静かな波が揺れる。  目の前には先ほど見た十六夜のお月様。  彩歌の視線の先には、月の光に輝く、  美しい海原がどこまでも広がっていた。  彩歌は、その光景に涙が出そうになった。  心が歌いたいと渇望する。 「…」  大きく息を吸う。  夜独特の、少し冷たい空気が身体を満たした。 「~♪」  静かな海岸に、彩歌の美しい鈴音が響き渡る。  彩歌は、頭を真っ白にして、ただただ歌った。  波音の旋律。  月の指揮者。  そよ風の観客。  今この空間は、まさに彩歌のステージだった。  心が満たされていく。  彩歌は思うまま、自分の心が納得するまで、静かな海で歌い続けた。 □◆□◆□◆□  倉木岳(くらきがく)は音大を卒業後、作曲家として活動している。  鳴かず飛ばずの時期を耐えながら、コツコツと作曲活動を続けていた。  ある時、初めて作った曲が突然バズり、爆発的に知名度が上がった。  そこから、様々なところから依頼が来るようになる。  恐ろしくなるほどの仕事が舞い込むようになり、  岳は、そんな仕事を淡々と熟していた。  クライアントの意向に沿った曲を作る日々。  仕事は増えたが、書きたい曲は作れなかった。  そんな書けない不満は、心に澱みを作り、  やがてスランプに陥り、岳は何も書けなくなった。  考えた末に岳は、それ以降の仕事をすべて断り、  受けた仕事をどうにか引き渡し、 「悪い、しばらく消えるから。じゃ」 「じゃ…って、おいっ」  一緒に活動をしていた仲間に全てを丸投げし、  そのまま雑音のない、静かな空間を求めて、姿を消した。  辿り着いたのは、とある田舎町。  岳は、海沿いの旅館に宿を取った。 「いらっしゃい。まぁ、ハイカラさんが来たね」 「すみません。飛び込みですが空いてますか?しばらく滞在したいのですが…」 「大丈夫。選り取り見取りだよ?いつまで?」 「決めてないんですが、暫くは。心が落ち着くまで」  旅館の女将は、岳の荷物を持ち、部屋へと案内する。 「ここでいいかい?うちで一番、海が見える部屋だよ」 「ありがとうございます。お世話になります」  こうして岳は、この町に暫く滞在することにした。  食事をいただき、温泉で心と身体を癒した。  夜、真っ暗な部屋で窓を開け、海の水面をただ眺めていた。  月明かりに揺れる、凪いだ海。  静かな波音が、耳に心地よかった。  そんな時、  波音に、かすかに重なる歌声。  凛とした空気に響く、美しい音色が聞こえた。 「いい声…」  岳は、その声の元を探しに、出かけることにした。
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