1.宇津美万吉の憂鬱

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「ああ、宇津美先生! いやあ、これはこれは」  役場に顔を出すと、小太りの男が、小走りで窓口から出てきた。 「町長の東海林(しょうじ)(ひとし)です」 「お世話になります」  深々と頭を下げる仁に対し、万吉(まんきち)は軽く会釈で返した。  宇津美(うつみ)万吉は、この春から、ここ谷ヶ崎(やがさき)の診療所での勤務を言い渡された内科医師だ。谷ヶ崎には診療所がなく、街の病院まで行くにも結構な時間がかかるらしい。住人が不便に感じるのは当然で、診療所をやってくれる医者を探しているとのことだった。 「診療所までご案内いたします。ささ、参りましょう」 「いえ、お仕事に差し支えますでしょう。教えて頂ければ、自分で行きます」  仁は一瞬ぽかんとしてから、「そうですか」と残念そうに呟いた。そっと顔を伏せると、ぽつんと置かれた町のパンフレットが目に入って、はっとして手を伸ばした。 「じゃあこれ! お渡ししますね!」  差し出されたパンフレットには、「ようこそ! 武者の里、谷ヶ崎へ!」とでかでかと書かれていた。そのなんとも言えない安っぽさに万吉が凝視していると、仁は言った。 「谷ヶ崎とか言いますけどね、この町、谷より山ばっか」  全くその通りで、パンフレットにはコンビニすら見当たらなかった。 「診療所はここですが……やっぱりご案内しましょうか?」 「いえ、大丈夫です」  万吉は一言お礼を言うと、踵を返して役場を後にした。
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