惚れ桜

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桜満開の公園に入ると 平日だからか 思っていたよりも 花見客は疎らで 静かだった 空いているベンチに腰を掛け 遅めの昼食をとる それなりの大学を卒業して 営業マンになり二年目の春 忙しさと疲れのせいで 今年はちゃんと花見もできていなかった ため息をつきながら 残りご飯で作ったおにぎりを頬張る ひらひらと風に舞う桜の花びらを 目で追っていると その大きな桜の木の枝をくぐるようにして 歩いてくる 男性の姿が目に入った どうやら電話をしているらしかった 彼はそのまま歩いてきて こちらを見るともなく 僕の隣に腰を下ろした 長い髪を無造作に結った そのうなじに手を当てて 何やら困った表情で話をしている 「 ですからね、 今日は店が休みなんで 無理なんですよ。僕が勝手に開けちゃうわけにはいかないし、ええ、そうですね。はい。 どうかご理解頂いて、 はい。それは必ず。 ではすみません宜しくお願い致します...」 電話を終えると ウンザリした顔で 大きくため息をはいた それから 初めて気づいたかのように 僕の方を見た 彼は表情を一変させて 笑顔で 「 すみません お騒がせして。お食事中に。」 と言った 「いえ、僕は別に。其方こそなんだか 大変そうでしたね。すみません、 電話 聞こえちゃって。」 よく見ると とても綺麗な顔をした人だ 僕は ドキリとした 「ああ 今のね。 お客さんがさ、定休日だっていうのにどうしても今日髪を切ってくれって。たまにあるんですけどね こういうの。 勿論 お断りしますよね。 だって たまの休みくらい ゆっくりさせてよ、って話ですよ。」 「それは 大変でしたね。」 そうか 髪を切るということは 美容師さんなのかな 成る程 どうりでお洒落って感じだ まあ 殆ど毎日 草臥れたスーツしか着ない僕には ファッションなんてよく分からないけれど そんな風に考えていると 彼が急に近づいてきて 「ところでそれ 手作り?美味しそうだな。 そんなの 僕はコンビニのくらいしか食べてないよ、もう何年もね。」 と 僕の齧りかけのおにぎりを見ながら 言った 「良かったら、お一つどうぞ。」 一応 勧めてみる 「いいの? ありがとう!」 長くて綺麗な指が 僕のおにぎりを一つ拐って行った 彼は包みを開けて 齧り付く 「美味しっ! これ チーズ? 合うんだねぇ。」 「僕 チーズ大好きで。結構何にでも入れちゃうんです。美味しいなら、よかったです。」 「僕も、 チーズ大好きだよ。 僕たち気が合うね...。」 じっと見つめられて なんだか落ち着かなくなった僕は 「そろそろ 会社に戻らなくっちゃ。」 と 急いで膝の上を片付けた 「それじゃあ お先に失礼します...」 立ちあがろうとすると 彼は僕の腕を掴んで そこそこの力で引き戻し もう一度そこへ座らせた 「...ちょっと 待ってよ。はい、これ。」 そして 僕の手のひらに 半ば無理矢理 名刺を乗せてきた 「店、すぐそこだから。いつでも寄ってよ。 おにぎりの お礼もしたいしさ。」 彼はさらに顔を寄せて来た 「今のも よく似合ってるけどさ、 ... 僕にも 君の髪、いじらせてよね。」 そう 囁きながら 伸びかけた僕の髪を そっと耳にかけた 「 あ、ど、どうも。」 声が震える 耳が真っ赤になっているのが自分でわかる 全く なんなんだよ この感じ! もう まともに彼の顔を見られない 「君とお花見できて 良かったよ。 じゃあ またね。」 ゆっくりと立ち上がって 彼はそのまま歩いて行った 心臓の音が周りにも聞こえそうな程 大きな音を出している 僕もすぐに立ち上がり 急ぎ足で歩く 彼がさっき くぐっていた 桜の枝の下で ふと 立ち止まる 僕には 全然 とどかない 「背、 高っ。」 少し汗をかいた手のひらの名刺を 僕は眺めた そして 大切に 胸ポケットにしまった 歩きながら 小さな声で 彼の名前を口にした 桜の花びらのせいかは 分からないけれど 吹く風が ピンク色に 染まって見えた
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