2.株式投資&ネットカジノ編⑤自失感の正体

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 彼女の悲しみを一手に担えるほどの度量は俺にはなかった。その証に胸で吸収した涙は俺の目元からもあふれ出てしまう。    それでも、喜美候部の背負う悲しみを少しでも軽くしてやることができるのならば、是非もない。   「ねえ、どうして? どうして兼続は殺されなきゃいけないの? あたしが不良だから? ねえ、なんで? ……なの」   「……」    なんでなんでと、子供のようにわめきながら喜美候部は俺の胸でしばらく泣いて、流す水分が無くなると、乾いた声だけが俺の胸の中で響いていた。    ああどうして、こうなってしまったのか。  喜美候部の気がすむまで胸を貸し、その間俺はただひたすらに天を仰いだ。    それから喜美候部は落ち込んでいた。以前のような喜美候部はもう戻ってこないんじゃないか。そう思ってしまうほどに疲弊し、この日を境にしばらく喜美候部は家にこもりっきりになった。    思えば喜美候部という女は、出会ったときから何も変わっていなかったのかもしれない。危なっかしい快楽主義者で、無邪気で素直で、誰よりも徳が備わった。まったく嘘のない限りなく澄んだひとりの女の子。    多くの人間、俺だってそうだし、サラシナだってそう。雨水が溜まって水たまりになり、雨はやんでその上澄みの透き通った水があたかも自分であるかのように取り繕う大衆と同じ。少し指を突っ込んでかき混ぜたらすぐに濁ってしまう浅い水たまりであるにも関わらず、本物の濁った自分をさらけ出さず、なんとなく世間とか、社会とかいうものに溶け込もうと必死になっている。  喜美候部を思えば、そんな世間や社会に対して真正面から戦いを挑んで、「今を生きている」気がする。俺たち多くの人間は今すら生きていないのに、幸せがどうとか、自分は不幸だとか。そんなことばかりを言って現状に甘んじ、来るかもわからない未来にすら怯えている。    今を生きるというのは、喜美候部のように、素直に愚直に目の前のものを愛し、曖昧な将来のことなんて無視して「今」を大切にすることかもしれない。だからはじめっから、喜美候部は変わっていない。変わったのは俺。    兼続を助けられる未来はなかったかもしれない。それでも、俺の中にずっとくすぶっている自失感の正体は、何かを大切にしなかったからだと、そう思えた。    喜美候部にしても、サラシナにしても、俺は誰かを心から大切に思う気持ちがあっただろうか。もっと言えば誰かの心にしっかりと寄り添えていただろうか。自分はどうありたいとか、何者かになりたいとか。損得勘定ばかりで皮算用してみたり、費やした時間が無駄にならないかとか、いつだって自分のことしか考えていない。    仮に俺が喜美候部の立場だったとして兼続が死んだときに、あそこまで悲しむことができただろうか。もし喜美候部が死んでしまったとき、俺は喜美候部をあそこまで仰ぎ愛することができるだろうか。社会の視線を無視して本能のままに愛情表現をすることができるだろうか。    ――できない。    愚かにも自分が可愛くて、少しばかりの愛すら分け与えることのできない愚かな人間。自失感とは、他者を認めることのできないやつに与えられる罰なのだ。    喜美候部はきっと兼続を失っても、俺のように一文無しになっても自失感なんて感じないだろう。それはいつも喜美候部が誰よりも人を想い、兼続のことを想い。今を尽くしてきたからだ。    喜美候部なら、兼続を救えなかった自分を憎んでいるだろう。後悔。    この「後悔」という言葉は喜美候部も先日言っていた。その意味がようやく理解できた気がする。
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