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「今年は少しばかり早かったな。」  見上げた青空には淡紅色の花が広がり、毎年のことながらこの景色に感動を覚える。毎日膨らむ蕾を見ては、満開の桜に思いを馳せ、それと同時に散り行く先までが脳裏によぎり、感傷に浸る日々を過ごしていた。 「最近はなかなか来られなかったけど、ここはお花見の特等席ね。広大君は、毎年この景色を独り占めしてたって思うとちょっと悔しいわ。」  妻の美雪が目を細めて桜を見つめながら、肘で僕の腕を小突く。ここ数年、持病の悪化で入退院を繰り返す慌ただしい日々の中で、心穏やかに桜を見る余裕など、美雪にはなかったのかもしれない。 「広大君とまたこうして隣で桜を愛でられるなんて、夢みたい。」 「そう、だな。」  夢であってほしい気持ちと、愛しい気持ちが拮抗し、返答に困ってしまう。  車のエンジン音が近づき、一台の白いファミリーカーが駐車場に停まった。 「こら、手を繋いで行かないと危ないぞ。」  すっかり父親の顔になった博人が、5歳になる息子の手を取りこちらに向かって歩いてくる。嫁の咲奈さんは赤ん坊を抱いている。お盆に見た時はそこまでお腹は大きくなかった気がしたが、もう生まれたのか。 「お義父さん、お正月はご挨拶に来られずにすみませんでした。元旦が出産予定日だったので、遠出は控えようって話になって。」 「じいじ。ゆいと、おにいちゃんになったんだよ。いもうとができたの。ましろちゃんだよ。」  孫の唯人が得意げに話してくれる。兄になってほんの数ヶ月だろうに、幾分逞しく見えた。妹の存在が、唯人の心の成長へと繋がったのだろう。 「真珠の真に白色の白に真白ですって。素敵よね。」  美雪は真白に温かな眼差しを向けて話す。  新たな生命の誕生を祝うように、柔らかな風が僕たちを包む。 「父さん、今年の桜は母さんと見られて良かったな。」  僕が言い返せないのをいいことに、博人が茶化す様にこちらを見る。 「母さんさ、結構病状が悪くて自分が辛い時にも拘わらずさ、『早く逝かないとお父さんが寂しい思いしてるわよね。』なんて笑って言うんだよ。冗談にもならない冗談言って。自分のことより、いっつも父さんを気に掛けてて…。」  博人の瞳に湿気が帯びる。横を見ると、美雪が恥ずかしそうに俯いている。  僕が亡くなって10年。  定年退職して、さあこれから老後を謳歌するぞという時に交通事故であっけなく死んでしまった。出版業界に飛び込んで約40年。多忙で深夜に帰宅することや泊りで仕事をすることも多く、退職後やっと一息ついて美雪と旅行会社で海外旅行の相談をした後のことだった。  この場所で10年目の一人花見を迎えようとしていた時、美雪が来た。手放しでは喜べなかったが、一つの蟠りのない美雪の笑顔を見て「よく来たね」と抱き締めた。 「じいじ、ばあば、またね。」  つるりと磨かれた墓石を背に、四人が帰って行く。  強い突風が吹き、桜の花びらが宙に舞う。 「折角芽吹いても、散ってしまうのは寂しいものだな。」  四人が帰ってしまったことも乗じて、つい感傷的になる。 「そう?私は、また季節が巡って広大君とお花見が出来るっていう楽しみが増えて嬉しいけどな。」  美雪の顔は、真夏の炎天下にも負けない向日葵の様に輝いていた。
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