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「大したものではありませんが」
ウィスキーが注がれたグラスを僕は大谷に渡した。
「何やねんこれ?」
「山滝の二十五年物です」
「ほう、係長様ともなるとええもん飲んではるんやな」
「課長ほどではありませんよ」
片手を振るも大谷は聞いていなかった。大谷はリビングの椅子に背を預け、用意したツマミをかじり、テレビから流れる野球試合のハイライトにヤジを飛ばしている。
「さてと」
騒ぐ大谷を尻目に寝室へと向かった。顎に手をやり考える。高嶺を救うためだったとはいえ、この状況は苦痛だ。一刻も早く大谷を家から追い出したい。
「どうしようか」
掛け時計に目をやる。現在時刻は二十三時四十分。間もなく日付が明日に変わろうとしていた。
「そうだ、忘れてた」
床に置かれたビジネスバッグを探る。取り出したのは引っ越す物件の契約書だった。
「お試し期間は今日までだった。危ないあぶない」
枕の下に契約書を差し込み、胸を撫で下ろしていたところに、
「係長」
突然声を掛けられて飛び上がりそうになった。僕は身構える。入口に立ち尽くしていたのは高嶺だった。
「びっくりした。課長かと思ったよ」
高嶺に近づくと、高嶺が一歩退いた。
「高嶺さん?」
「何で」
高嶺が震えるような声を出した。
「最近まで私が住んでた家に住んでるんですか?」
僕は目を剥く。
「何だって? それはどういう」
「やだ怖い!」
僕の言葉が高嶺の大声にかき消される。
「課長から距離を置くために引っ越したのに……まさか係長まで私のことを!?」
「待ってくれ、誤解だ。決してそんなつもりは」
「偶然だって言うんですか? そんなの信じられません!」
喚き散らす高嶺に僕は狼狽した。
「分かった、全部話すから聞いてくれ!」
引っ越す物件に関わるこれまでの経緯を、高嶺に包み隠さず伝えた。高嶺は落ち着きを取り戻してきた代わりに困惑した表情を見せる。
「おっしゃってる意味が……?」
予想通りの高嶺の反応。
「そりゃそうなるよね」
ため息が漏れる。
「でも嘘じゃないんだ。それに考えてみてよ。本当に僕が君のストーカーなら、君が住んでる家に興味を持っても、君がいなくなった家なんてどうでも良いはずだろ?」
「……それもそうですね」
「だろ? だから――」
言いかけた、まさにその時。大きな音が辺りに響いた。僕と高嶺は顔を見合わせる。
「今の音は?」
「分からないです。課長がいる方から聞こえたような……」
僕達はリビングに向かった。部屋に入るなり高嶺が、
「きゃー!」
悲鳴を上げる。何と、ソファのすぐそばの床に大谷が仰向けに倒れていた。
「課長! 大丈夫ですか!?」
慌てて大谷の元に駆け寄る。が、
「何だ、寝てるだけか」
額の汗を拭った。
「良かったぁ」
高嶺が胸を押さえて壁に寄りかかる。僕は近くに置かれたタンスからタオルを取り戻ってきた。転がるグラスから溢れた酒を拭き取っていく。
「アルコールが強過ぎたのかな?」
苦笑交じりに言うと、
「単なる飲み過ぎかと」
片付けを手伝い始めた高嶺が眉根を寄せる。
「一軒目でどれぐらい飲んでたの?」
「……ワインに焼酎日本酒、それにビールを合わせて二十杯ほど」
「それを先に言ってよ!」
僕は仰け反った。
「下手すりゃ急性アルコール中毒に……ってもうなってるかもだけど」
「すみません。言おうとは思ってたんですけど」
下を向く高嶺と赤ら顔の大谷を見比べる。
「まぁどう考えても課長が悪いんだけど。ごめん、ちょっと手を貸してくれる?」
タオルを洗濯かごに投げ入れ、大谷の脇の下に手を差し込んだ。
「高嶺さんは足の方を」
「運ぶんですか」
高嶺は露骨に嫌そうな顔をする。
「このままにしとくわけにはいかないだろ」
「ですよね……」
しぶしぶ高嶺が大谷の脚を持つ。
「いくよ、せーのっ」
二人で協力して大谷を寝室まで運んだ。大谷をベッドに横たわらさせる。
「ほんとに世話の焼ける課長様だよ」
枕に横顔を埋める大谷を見下ろしていると、
「あの」
遠慮がちに高嶺が手を上げた。
「すみませんが私はそろそろ」
「そうか、もう帰らないと時間ヤバいよね。電車、まだありそう?」
高嶺がスマホを指でなぞる。
「急げば何とかなりそうです」
「それは良かった」
話しながら僕と高嶺は玄関先に出た。
「駅まで送ろうか?」
「お構いなく。アプリでマンションの前にタクシーを呼びましたので」
「そうか。じゃあまた明日」
微笑む僕に対し、高嶺は軽く会釈だけしてそそくさと去っていった。
「まだ警戒してんのかなぁ」
僕は頭を掻く。回れ右をし、玄関扉に向かい合った。が、
「へっ?」
と、間の抜けた声を漏らしてしまった。
「開かない」
何度もドアレバーに力を込めるも、扉はビクともしない。
「鍵がかかってる? 何で」
言葉が途切れた。嫌な予感が頭によぎる。腕時計に目をやった。時刻は深夜零時を過ぎている。
「まさか……」
玄関扉が音もなく開き始めた。思わず目を見開く。目の前に立っていたのはマガリだった。
「こんな夜更けに誰かと思えばアンタだったのかい」
マガリが黄色い歯を見せる。
「非常識も良いとこだが許してあげるよ。ちょうどアンタに用があったからねぇ」
「僕に?」
マガリは頷き、一枚の契約書を差し出してくる。
「さっき間違えてアタシの契約書を持って帰ったろ?」
受け取った契約書を確認する。息を呑んだ。そこには自分の筆跡でここのマンションの住所が記されていた。
「ということは、僕が枕の下に入れたのはマガリさんが書いた分……?」
生唾を飲んだ。
「そういえばどちらに引っ越す予定だったんですか?」
「言ったろ? アンタなんかじゃ手の届かない物件だって」
マガリは人差し指を立てる。
「天国さ」
ふいに救急車のサイレンが鳴り響いた。かと思うと、遠ざかっていった。
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