心ないあなたと心にもない言葉と

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 大学を卒業してから数年がたったある日、あなたがわたしにくれたのは一冊の本だった。花冷えの中で郵便配達人から受け取った小包は、どこかで雨に濡れたのか宛名が酷く滲んでいた。  大学を卒業し、就職して数年もすれば大抵の人間は住まいが変わる。そんなこともあなたは気がつかなかったのか。かつて住んでいたアパートの住所が書かれた小包を持ったままわたしはあなたの字をなぞってみた。とはいえ、郵便局の転送サービスは一年以内のはずなのに結局こちらに届いてしまったのだから、あなたの狙い通りなのかもしれない。  「どうか君に読んで欲しい」とただ一言が付されて届けられた文庫本。どうしてこの本を贈られたのか、わたしにはよく理解できない。わたしの好きな作家でもなく、ベストセラーでもなく、話題の新作でもなく。宛名が滲んだ小包は、その中身もやはり湿っていて、波打った本のページは酷くめくりにくい。  一枚一枚、破らないように気をつけながら読み進める。まるであの頃のような危うい手つきで。  気がつけば日差しはだいぶ傾いていた。主人公とわたしに何か共通点でもあっただろうか。わたしはそっと首をかしげる。普段は手を出さないジャンルの小説を最後まで読み終えたというのに、込み上げてくるものは何もない。文字が書いてあればドレッシングの成分表示ですら読みふけるというのに、この本の中身は一文字もわたしの中に染み込んではこなかった。だからこそこの本は、まさにあなたが選んだものだとわたしは納得する。  あなたはそういう人だった。何でもない顔をしてわたしを土足で踏みにじるような人だった。  あなたが呼び出せば、わたしはいつでも会いに行ったものだけれど、別にあなたのことが好きだったわけではない。負け犬の遠吠え? いいえ。たとえ熱に浮かされて交わったとしても、どこか酷く冷めたわたしがいる。それを確かめるためだけに会っていただなんてきっとあなたは気がつかなかったに違いないのだ。あなたはいつも大切なことを間違える。  あなたが失くしたと嘆いたものは、みんなあなたが捨てたもの。  あなたが壊れたと泣いたものは、みんなあなたが壊したもの。  あなたが盗られたと罵ったものは、みんなあなたが奪ったもの。  どうしてあなたは気がつかないのか。あなたは誰よりも人間らしいのに、人間にとって大切なものが誰よりも足りない。  あなたは何も変わらずにいるだろう。昔のままに無邪気で、救いようのない間抜け。こんなものを寄越すくらいだから、最近は寂しさというものを覚えたのかもしれない。でも大丈夫、どうせすぐにその寂しささえも上書きして無かったことにしてしまう。あなたは昔からそういう人だから。  ページの端を指先できつくなぞりあげる。新品の文庫本でやれば、さっくりと指先から血がにじむような動作をしても、雨でよれた紙はただへにゃりと丸まるだけ。  明日にはこの本も乾いていることだろう。波打ち、大きく反り返り、よれよれのみすぼらしい姿になって。冷凍庫に放り込んで綺麗に乾くようにしてあげようか。それともこのまま自然に乾かしてよれたままでいるほうが、この本にはふさわしいだろうか。   少しだけ迷い、わたしはそっと窓を開けて夕方の冷えた空気にあたってみる。桜はこの雨で、もうすっかり散ってしまったようだ。
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