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4.引っ越し前日夜 2
夕飯は近くの蕎麦屋でとることにした。
明日食べるのに、と思ったけれど孝貴は黙って暖簾をくぐる。
南波も自分も、夕飯が一週間連続で蕎麦になっても平気なくらいには、蕎麦が好きだ。
「蕎麦通は塩で食べるって話も聞くけど、俺はやっぱり蕎麦つゆとワサビが恋しいよ」
注文後、すぐに運ばれて来たざる蕎麦を、喧嘩なんてまるでなかったみたいな顔で南波はすする。時々ワサビの辛さに目を潤ませながら。
一緒に暮らそう、と言ったあの日の帰り道、ふたりで蕎麦を食べた。あのときも南波はワサビを鬼のように入れていて、涙を浮かべていたな、と孝貴は思い出す。
「引っ越し蕎麦ってあるだろ。あれって引っ越してきた人が食べるものじゃなくて、もともとは近所の人に挨拶で配るものだったんだってさ」
思い出に浸って孝貴が口許を綻ばせたタイミングで、南波が言う。箸を止めて彼に目を向けると、南波も手を止めていた。
「そばに越してきました。切れずに長いお付き合いをしたいです、そんな意味で蕎麦を配ったんだって」
「へえ……」
さすが不動産屋だ。目を見張る孝貴の前で、南波は再び箸を動かし始める。彼に倣って孝貴も蕎麦を口に運ぶ。
豊かな蕎麦粉の香りが腹も心も満たしていくのがわかった。
憤っていたはずなのに、と少しおかしくなったとき、静かな手つきで南波が箸を置いた。
つられて手を止めた孝貴はふっと息を止めた。
南波の澄んだ目が、まっすぐにこちらに向けられていた。
「俺もね、そう思ってる。切れずに長く、孝貴さんと一緒にいたい」
「は……え、あ……」
突然の愛の告白に頬が赤らむ。孝貴は一度置いた箸をもう一度持ち上げ、また置く。南波はそんな孝貴の不自然行動を黙って見つめていたが、ややあって、ごめん、と頭を下げた。
「なに……」
「不安にさせて。なんていうか、甘えてた。ずっと切れないって勝手に思い込んでいた、というか。でも、そうだよね。俺の態度はあまりにも孝貴さんをないがしろにしたものだった」
「それって……あの、俺と住みたくないってわけじゃ、なかったってことでいいのか」
「当たり前だろ」
口を尖らせ、南波は蕎麦湯の入った急須を取り上げる。自分の蕎麦猪口に中身を注いだ南波が目で孝貴に問う。頷くと、孝貴の蕎麦猪口にも蕎麦湯が注がれた。
「孝貴さんに全部、判断任せちゃったのは……その方が合理的だと思ったから。俺ね、あんまり執着なかったんだ。荷造りの仕方にも、部屋のインテリアにも。正直、片付け得意でもないし、インテリアもね、センスが良いわけでもないし。そんな俺があーだこーだ言うのもどうかなと」
「そう、なのか?」
「そう。そもそもさ、住む上で大事なことって一個しか俺にはなくて」
「なに……?」
訊ねると、南波は、うん、と曖昧に頷いてから蕎麦猪口を取り上げる。注意深く唇を寄せ、ふうっと息を吹きかけてから彼は言った。
「孝貴さんがいるかいないか」
店の片隅に置かれた年代物のテレビから、世界の不思議映像について感想を述べるコメンテーターの甲高い声が漏れてくる。
その声を縫うようにして、南波はひっそりと笑う。
「俺にとって大事なのは、それだけで。でもこういうの言うのは……重いだろうなあ、という自覚はあって」
だから、と猪口越し、南波が照れ臭そうに肩を縮める。
「住みたくないなんてあるわけない。むしろ逆なんだ」
蕎麦湯のせいだろうか。胸が熱い。
思わず胸を押さえると、孝貴さん? と南波が呼びかけてくる。
「あの、じゃあ、寝室別がいいって言うのは、なに」
蕎麦猪口を注意深く置き、孝貴は心にわだかまっていた疑問を口に昇らせた。
十分過ぎるくらい彼の心を教えてもらったのだから満足すればいいのに、まだ不安を感じる自分にほとほとうんざりしつつ。
「ああ、それ……」
だが、南波の反応は孝貴の予想外だった。なぜか真っ赤になった彼は動揺を押し隠すように蕎麦湯をがばり、とあおる。
「………………るから」
「え、なに」
「だから」
とん、と軽い音と共に、蕎麦猪口が置かれる。
「同じ部屋だと、離れたくなくなるから……仕事、休み違うし。出社拒否になりそうなんだもん」
だもん、なんて言うなよ。可愛いな、この野郎。
内心でそう思いつつ、孝貴は額を押さえる。
明日、引っ越しなのに。彼のこの悩みを、自分はどう解決してやればいいのか。
「インテリアのこだわり、ないんだから、俺のこともインテリアだと思えばいいんじゃないか。部屋に置いておいても、気にならないと思う」
悩んだ挙句、出てきたのはあまりにも自分本位な台詞。
でも引いてやるつもりもなかった。
南波は一瞬、唖然とした顔をした後、ぷっと噴き出した。
馬鹿じゃないの、と笑う彼の頭上で、テレビの中、コメンテーターも笑っている。
笑うなよ、と返しつつ、孝貴はお猪口に残った蕎麦湯をそうっと飲む。
一日早く口にした引越し蕎麦は、眩しい日向の味がした。
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