2.引っ越し前日昼

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2.引っ越し前日昼

「それってさあ、同棲ブルーってやつじゃないの?」  上司の夏目聖(なつめせい)にそう言われ、孝貴はペットボトルの蓋を開けようとしていた手を止めた。  夏目には住所が変わることを伝える際、付き合っている人と暮らすのだと話してはいる。一度、南波と手を繋いで歩いていたときに、ばったり出くわしたことがあるから、同棲ブルーと言った夏目の頭には、南波の顔が思い浮かんでいるのかもしれない。  「同棲ブルー、ってなんですか」 「同棲前とか、同棲中にカップルが陥る不安心の名称。この人とこれからも問題なく暮らしていけるのかな、怖いな、大丈夫かなってなる、まあ、マリッジブルーの同棲版」 「マリッジブルー……」  南波のあの態度は不安の裏返しなのだろうか。蓋を開ける姿勢のまま固まっている孝貴に夏目は軽く肩をすくめた。 「そりゃあ多少はあるだろう。今まで別々に暮らしていた他人と一緒に暮らすってなったらさあ」 「……夏目さんはあったんですか」 「あったよ〜。俺は基本、平和主義だからさあ。ぶつかりたくないんだよね。だから、嫁と暮らし始めた当初は、全部YESって答えてた」  なんだか随分、ストレスがたまりそうだ。そんなストレスを南波が感じているのだとしたら……。もやもやしながらお茶を飲んでいると、夏目にぽん、と肩を叩かれた。 「まあさあ、やってみる前からそんなブルーにならなくても大丈夫だから。住み始めたらいろいろ加減もわかってきて、なんとなーく、うまくいくようになるから」 「え、同棲ブルーになってるのが俺って話、だったんですか?」 「え、これって、なんでもかんでもはいはい言う恋人に、この人と一緒にいて大丈夫か、俺、って不安になってるんですけどって相談じゃないのか?」  驚いた顔をされ、孝貴は思わず自分の頬を確かめるようになぞる。  確かに、不安がないわけではない。が、不安というよりも不満のほうが言葉としては近い。 「嫌なことは嫌って……言うべきですよね。やっぱり」 「まあねえ」  夏目は妻が作ったという弁当の中から、若干縁の焦げた卵焼きを摘み上げる。それをつらつらと眺めてから、彼は言った。 「でも、YESって言う心境ってある意味、究極の愛だと思わん?」 「は、え? そう、ですかね……」 「だってさあ」  夏目は焦げた卵焼きを口に放り込んで、ひとしきり咀嚼してから笑った。 「嫌われたくない、の裏返しでしょうが。つまり、それだけ相手は自分のことを好きでいてくれるってことじゃないかなあ」 「え」  好き。  やばい。会社なのに頬が熱くなる。ごまかすように首筋を掻く孝貴の耳に、もっとも、と付け足された言葉が突き刺さった。 「面倒くさいからYESって言って、早く終わらせたいって思ってるって場合だと、真逆の意味になるけどねえ」  おっと、そろそろ時間だ、と夏目が慌てた顔で弁当箱を片付けにかかる。それにのろのろと倣いながら孝貴は思い悩まずにはいられなかった。  南波のYESは、どっちのYESなのだろう、と。
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