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3.引っ越し前日夜 1
会社帰り、南波の家を訪ねると、彼はすでに帰宅していた。
「さすがに明日引っ越しだから、今日は早く上がらせてもらったんだ」
いつも通りの柔らかい笑みを浮かべ、南波は孝貴を手招く。
前日にふたりで頑張ったおかげで室内は、孝貴の部屋と同様、段ボール箱が自己主張するようになっている。圧迫感はあるが、これならなんとかなりそうだ。胸をなでおろしながら、ダイニングチェアに腰を下ろす。
「孝貴さんのおかげで間に合った。ありがとう」
おっとりと言う彼の顔に不安の色は見えない。やはり同棲ブルーとやらに侵されているのは自分だけなのだろうか。
もやもやしつつ、孝貴はスマホを取り出す。
「そういえば、この間、窓の寸法測っただろ。カーテン、ネットで買う方が安いかもなあと思うんだ。早いとこだと今日頼めば明日着くみたいだし。何色がいいとか、希望あるか?」
「うーん」
南波は笑みを浮かべたまま首を傾げている。孝貴はスマホをするっと操作し、南波の前に置いた。
「俺はこの青いのがいいかな、と思ったんだけど、南波は……」
「孝貴さんの好きなのでいいよ」
「え、そう、なのか」
──面倒くさいからYESって言って、早く終わらせたいって思ってるって場合だと、真逆の意味になるけどねえ。
これは、まさかそういうことなのだろうか。
膨らんでいた風船がしぼむように気持ちがしなびていく。だが、南波のことだ。孝貴に気を使ってこう言ってくれたのかもしれない。なんとか気持ちを落ち着けようとしながら、孝貴は自分たちの明日からの住まいとなる部屋の間取り図を取り出して、南波の前に置いた。
築8年の2LDK。広さと明るさに惹かれて決めたその部屋の一角を、孝貴は指し示した。
「一応、確認なんだが、こっちが寝室で、こっちが書斎、でいいんだっけ。明日荷物運んでもらうときに把握してないといけないから」
「あー……」
ふと南波が口許を片手で覆う。どうした? と覗き込むと難しい顔をしていた南波がゆらりと顔を上げた。
「ごめん。やっぱりさ、寝室は、別にしたい、です」
「は……?」
言われた意味が一瞬わからず、固まった。南波は貴貴の顔から図面へと目を落とす。
「いろいろ考えたけど、その方がいいかなあって。ごめん、直前で。でも」
「なあ、南波は本当に俺と住みたいと思ってる?」
気が付いたら押し殺した声が出ていた。え、と声を漏らす彼に向かい、孝貴は口を動かす。止められなかった。
「なんか、一緒に住みたいのは俺ばっかりな気がする」
「……なんでそうなるの」
南波の顔からすうっと色が消える。雪女も青くなるほど凍った表情だ。だが、孝貴としてももう限界だった。
「いやだって、そうだろ。荷造りだって全然してなかったし」
「仕事で死にそうで手が回らなかったって、説明したと思うけど」
「にしたって、なに訊いても、孝貴さんの良いようでいい、孝貴さんの好きにしろ、ってそればっかりで、全然意見も言ってこない。そんなに面倒だったのか」
「面倒なんて言った覚えはない」
「言ってなくてもそう感じるんだよ!」
怒鳴ると、南波の肩がぴくりと揺れる。荒々しく息を吐いて孝貴は立ち上がる。
「俺は荷造り楽しかった。早く一緒に住みたくて引越し屋から段ボールもらってすぐ始めた。カーテン選ぶのだって一緒に考えたかった。寝室だって……一緒がいい。一日の終わりに南波の顔を見て眠りたいから。でも南波は違うんだろ」
ふうっと南波の目が見開かれていく。透き通ったその目に嫌悪が浮かぶのではと思うと目を合わせてなんていられず、孝貴は顔を背けた。ごめん、と言ってテーブルを離れようとしたとたん、ぐいっと腕を掴まれた。
だが、なにか言うと思った南波はなにも言わない。なんだよ、と言いかけた孝貴の前で南波がふいに腰を上げる。腕を引く力が強くなり、上体が傾く。とっさにテーブルの角を掴むのと、南波に口づけられたのは同時だった。
馴染んだ唇の感触に頭の芯がくらり、とした。
「ごはん」
呆然とする孝貴の唇から唇を離した南波がぼそり、と言う。
「なに?」
「ご飯、食べに行こうか」
今そんな話はしていない。そもそもなんで今キスする? ごまかそうと思ってのキスか。一瞬収まっていた怒りが再び込み上げてくる。彼の腕を振り払おうとしたが、その孝貴の顔を見て、南波が笑った。
「お腹すいて倒れそうなんだ。行こうよ」
「………」
この笑顔に孝貴はいつだって逆らえない。めちゃくちゃ腹が立っていてもなぜかだ。
不承不承頷くと、南波はそうっと孝貴の腕を離してからもう一度目元を細めて笑った。
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