35人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
1.引っ越し二日前
「一緒に、住もう」
そう言ったとき、彼の目に浮かんだ涙を本当に綺麗だ、と思った。
その涙は彼が心から孝貴と暮らすことを望んでくれているからこそのもので、言葉よりなにより雄弁に彼の心を語ってくれるものだと感じられた。
あんなにも泣いてくれたのだ。きっと彼は今だって同じ気持ちでいてくれるのだとは思う。
思うが、なんとなく釈然としない。
「孝貴さん、少し休憩する?」
そう言ってキッチンから顔を出した彼、古塚南波に御剣孝貴は、ああ、と曖昧に返事をしながら、段ボールを閉じる。
「ごめんね。孝貴さんのほうはもうほぼ終わってるんだよね」
そう言って南波が開けた食器棚の中にはまだたんまりと食器が詰まっている。
引っ越しは、もう明後日なのに。
「俺はまあ、こういうの計画的にやるタイプだから」
「さっすがシステムエンジニア。スケジュール感が素晴らしい」
「いや……仕事は関係ないって。それでいったら、不動産営業だってスケジュール感が命だろ」
そうだ。不動産会社でカウンター営業をしている南波は常にカレンダーと共に動いているような仕事をしている。孝貴などよりよほど日数管理には長けているはずだ。
事実、南波に部屋探しをしてもらった経験が孝貴にはあるが、南波は仕事ができた。かゆいところに手が届く見事な対応だった。
それがどうだろう。自分の引っ越しとなるとこの体たらく。本棚の本は未だに定位置に収まったままだし、靴箱の中の使われていない靴たちも段ボール入りを果たしていない。
「いやあ……仕事が忙しくて。ほら、三月って結構移動多いから」
それもまあ、わかる。ここ数日、南波に休みらしい休みがないことも知っていた。だから引っ越し二日前にしてこの状態なのも理解はできる。
できるのだが。
「南波さ、この服、段ボールの隙間に詰めていい?」
「あ、うん、適当に入れちゃって」
「ええと、じゃあ、このカレンダーは……ってこれ、去年の……。もう捨てていいよな。この雑誌は読むのか? 持ってく?」
「あー……孝貴さんが適当に判断しちゃっていいよ。いらないんじゃって思ったら捨てちゃって」
コーヒーを淹れながらのんびりと言う南波に、孝貴は軽い脱力感を覚える。
荷造りにおいて、南波には驚くほどこだわりがなかった。手伝いに行っている側とすれば、こだわりが強すぎるよりもよほど楽だから、別に問題だと言うつもりはない。ないが、なんだろう、妙に投げやりに感じるのだ。
──うーん、どっちでもいいかなあ。
──孝貴さんがいいようでいいよ。
荷造りをしながらこの台詞を何回聞いただろう。
「コーヒー、ブラックでいい?」
整った顔に浮かぶ屈託のない笑み。
思うところはある。あるが、彼のこの笑顔を見るとなにも言えなくなる。
可愛い顔で笑いやがって、と理不尽な怒りを覚えつつ、孝貴は南波が差し出したマグカップを仏頂面で受け取った。
最初のコメントを投稿しよう!