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守らなかった約束
ハローワークの帰り道、アパートの方に顔を向けると異様な光景が目に止まった。応対に出てきた女性がそのまま部屋に押し戻されていたのだ。
「あっ、彼奴は」
その男性に心あたりがあった。以前この辺りを彷徨いていた人だった。そうかと思うと、物陰からアパートの様子も確認していた。その様子はニュースで良く聞くストーカーみたいだと感じた。見たこともないけど、何故かそう思っていた。
その事実を部屋の住民に伝えようかと迷っていた矢先だった。だから完全に俺の落ち度だ。
(後ろ姿だけど彼奴に間違いない)
俺はそう判断して、急いで部屋の前まで行った。でも結局、何をしたら良いのか解らずにうろうろするのが関の山だった。その結果、身を潜めて中の様子を窺うしかないと判断した。俺はドキドキする胸を押さながらただ其処にいた。
実際問題、住民に何かあったらと思うと気が気じゃなかった。俺はカッコ悪いほど焦りながら、飛び込む勇気もないくせに、隙を伺おうと聞き耳だけは立てていた。
中では暫くゴタゴタしていたけど、数分後に止んでいた。
(もしかしたらあの人が殺されたのか?)
俺は住民が亡くなったのだと思い込んでドアを叩いた。
勿論犯人を捕まえたいと思ったのは事実だ。でも今ならまだ間に合うとも思っていた。救急車を呼べば助かるかも知れないからだ。
でも暫く無言だった。
「隣に住んでいる者です。間違っていたらすいません。先ほど男性が入って行くのを見てました。何かお困りのことはありませんか?」
俺は必死に呼びかけた。その結果、ドアを開けてくれた。
この時点で俺はこの部屋に住む人が事件に巻き込まれたのだと思っていた。
でも玄関から出てきたのは女性だった。俺はその途端拍子抜けを食らった。仕方なく一部始終を語ることにした。俺がことの次第を伝えていなかったことが男性に押し入られた原因だと説明した。
その結果、女性は俺を招き入れてくれた。
「誰にも言ってはいけない。絶対に秘密だよ」
俺はそう言って隣人の寝室に転がっていた遺体を床に敷いたシーツの上に移した。
その首にはベルトで絞めた跡があった。失禁状態ではあったが、幸い血は流れていなかった。だからそれさえ拭いてしまえば隣人宅に証拠は残らないはずだった。
俺は一旦自分の部屋に行き必要だと判断した物を用意してきた。
そしてその遺体のあった場所を赤ちゃんのお尻拭きでキレイに拭った後、臭い消しをスプレーした。
其処は俺の住むアパートの隣の部屋だ。男が押し入り、其処の住民の抵抗が殺人事件に発展した現場だった。
その部屋に住んでいるのは母親と娘だった。
「お袋を介護していた時使った物です。これもです」
そう言いながら指を差したのは以前使っていた車椅子だった。
「お母様は?」
「貴女方が引っ越してくる前に亡くなりました」
俺はその人の協力の元、遺体を車椅子に乗せた。
「ところでこの人との係わりは?」
「面識はあります。勤めているスーパーの客です。何時も遠くから私を見ていました。なんとなく気持ち悪くて警戒していたのですが……」
「一種のストーカーですかね?」
何言っているんだろう。俺はコイツを見た時からそう感じていたはずなのに……。俺は自分の落ち度を棚に上げて、次の言葉を待つことにした。
「はい、そうだと思います。何故此処が解ったのかは知らないのですが……」
母親の言葉に妙に納得しながらを安堵の胸を撫で下ろした。
「ところで娘さんは?」
俺は肝心なことを聞き忘れていたことを思い出し、慌てて言葉を足した。
「怖くて布団の中で縮こまっています」
母親がそう言うと娘は布団の隙間から俺を見た。その顔はまるで地獄でも見たかのように真っ青だった。
「大丈夫だよ」
そう言ったのには根拠があった。きっと正当防衛だと思ったからだった。
俺はこの男が部屋に入る様子を見ていたのだ。 それは異様な光景に見えた。だから何かあるのではないかと気が気じゃなかったのだ。
「それでも怖いか?」
俺の質問に娘は頷いた。
その娘を抱いてやりたかった。そんな感情に初めてなったことにも戸惑っていた。
俺はその車椅子に遺体を乗せてある工夫をした後、近くにあった不法投棄のゴミ集積所に運んだ。其処は何時もゴミで溢れていた。だから見つからないと判断したのだ。
お袋の介護のためにこのアパートの一階にあった部屋を借りた。
其処は役所に生活保護の申請に行った折りに紹介された場所だ。でもその時高校生だった俺は役所の面倒くさそうな態度を見て申請を取り下げてしまった。
彰かにお前が学校を辞めて働けって言っているみたいだったからだ。
それでも俺は安価な、車椅子での出入りが楽なこの部屋を紹介してくれたことが本当嬉しかったのだ。
役所は要介護申請にも尽力してくれた。
介護保険は四十歳から入る。お袋はそれより若かったから介護保険の対象者ではない。
そのために障害年金制度を勧めてくれた。
介護用のベッドも紹介してくれた。だから何とか生活して来られたのだ。
ただ車椅子だけは引っ越す前に俺が用意した。移動がスムーズになると思ったからだった。
その時役所での対応にあたってくれた人が耳打ちしてくれた。
『俺が二十歳になった時、本当なら国民年金を納めなくちゃいけないんだけど学生だったから免除してもらったんだ。あんたもその手続きをした方がいいよ』と──。
その人は内緒で、未成年の俺に国民年金が免除になる制度を教えてくれたのだ。
俺は二十歳になった時点でその制度を利用することにした。免除だけではない。もしその申請者が障害を被った場合、障害年金も使えるのだ。俺はこっそり教えてくれたこの人に感謝した。
そしてお袋が亡くなった後、隣に越して来たのがこの母親と娘だったのだ。
俺は遺体を遺棄した後で隣人を尋ねて今後のことを話し合うことにした。
「証拠は一切残しませんでした。だからお二人が疑われることはないと思います。でも万が一のために明日から旅行に出てください」
「何故ですか?」
「実は、遺体をキャンプ用のアルミシートで包みました。殺害時刻を判らなくするためです。勤め先には急用が出来たとか連絡して……」
「はい、解りました」
母親はそう言うとすぐに連絡をとった。どうやら実家らしい。娘の進路相談を口実にするようだ。
「仕事先は偶々、明日から二日間休みですので……。ところで貴方は?」
「俺も出掛けます。アリバイを作りますのでご心配なく。今後何があっても知らぬ存ぜぬを通してくださいね」
俺はそう言って部屋を出て、自分の部屋に移動した。俺はその時殺人の証拠を隠し持っていた。それは凶器になったベルトだった。
俺は約束を破り、いざとなったら母娘の身代わりになる決意をしたのだ。実は俺はこの女性に好意を持っていたからだ。実はこの母娘は俺の命の恩人だったのだ。
俺は数日後遺体遺棄現場に行き、シーツの上のアルミシートを外した。
顕になった遺体を今度は段ボールを覆うことにした。
これでアリバイは完璧のはずだった。
保温の出来るアルミシートと段ボールでは深部体温が違うと思ったからだった。
もしものためにこのシートも残すことにした。
俺は本気で犯人を買って出ることにしたのだ。
犯行を未然に防げたかも知れないのに、注意散漫だった俺が連絡しなかったせいだと思ったからだ。
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