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引っ越した理由
「っしゃ~! 取りあえずこれで生活はできるかな」
伸びをしてから部屋を見渡す。といってもワンルームだから見渡すほどの広さはない。キッチンは玄関に続く廊下にくっついている状態で、風呂とトイレはかろうじて別になっているもののユニットバスだしトイレもちょっと狭い。
(シャワートイレじゃないけど、そこんところは贅沢言ってられないしな)
東側と南側に窓がある角部屋だから日当たりは抜群にいい。そりゃあ前の部屋のほうが1DKで広かったけれど、何とか見つけた引っ越し先だから文句は言えなかった。
(敷金礼金も安かったし、なにより家賃が破格の安さなんだよなぁ)
駅まで徒歩五分でこの安さ、もしかして事故物件かと思ったけれど構わないと思っていた。
(そもそも見えるだけの幽霊なんて、いないのと変わらないし)
全身血まみれだとか頭がないだとか、そういう幽霊はちょっと嫌だけれど、それだって見ないようにすればいいだけの話だ。
そこに存在していても見なければいないのと同じ。恨めしそうな顔をしていても話しかけられなければいないのと同じ。
(そうそう、空気みたいなもんだよな)
そう考えるだけで気分が晴れ晴れする。少ししかない食器はキッチンの上に備え付けられている棚に余裕で収まった。布団も出したし、洋服もボックス一つ分しかない。折りたたみ式のローテーブルと座布団代わりのクッション、それにノートパソコンがあれば取りあえず仕事もできる。
まるでミニマリストみたいな感じだけれど、前はこんなじゃなかった。資料用の本は棚三つ分はあったし、仕事用の机や椅子、テレビに録画機材、洋服だってクローゼット一杯に入っていた。
でも、そんなにたくさんの荷物があったら簡単に引っ越しなんてできない。別に引っ越しマニアじゃないけれど、今回引っ越すに当たって念のため身軽にしておこうと思い切り断捨離したところだ。
「さぁて、まずは締め切りが近い原稿を書いてしまうか」
ローテーブルを出してノートパソコンを開く。Wi-Fi付きの物件だから設定さえしてしまえばネットもすぐに使えるのが便利だ。「まずはメールチェックして、それから資料は電子書籍で買うか」なんて思いながらマウスを手にしたところで背中がぞわっとした。
(…………まさか)
不意に嫌な予感がしたけれど、そんなことがあるはずないと頭を振ってメーラーを開く。ところが新着メールをにカーソルを合わせたところで背中がゾクゾクして首筋に鳥肌が立った。
「気のせいだよな」と思いながらメールを開くと、たった一文だけ書かれているのが目に入る。
“俺を置いて引っ越すなんて悲しいなぁ”
件名には何も書かれていない。それどころか送信元も空欄で、それに気づいたおれは慌てて振り返った。
「やぁ」
そこには金髪にピアスを何個もつけたイケメンが満面の笑みを浮かべて立っていた。いや、正確に言うなら足は床から三十センチほど浮いている。
「な、ななな、なんで……」
「だーかーらー、俺たちは離れられない運命だって言っただろ?」
「ンなわけあるか! そんなのおまえが勝手に言ってるだけだろ!?」
「またまた~。悪い気なんてしてないくせに」
「ふざけるな! やっと見つけた引っ越し先なのに……引っ越しだってばれないように、断捨離したものは引っ越し当日に業者に引き取ってもらう手配までしたってのに……」
「ついでに俺がぐっすり眠ってる間にいなくなろうと思って、昨日の夜はいい子で身を委ねたってわけか」
そう言ってニヤッと笑う男に顔が真っ赤になった。そういういろんなことが嫌になって引っ越すことにしたのだ。ついさっきまでうまくいったと思っていたのに、まさかの状況に体が震え出す。
「おーおー、そんなに震えちゃって。まるで生まれたての子鹿のようじゃん。って、生まれたての子鹿なんて見たことねぇけど。ははっ」
「なんでおまえがここにいるんだよ……だっておまえ、地縛霊だろ? 地縛霊ってのは土地とか建物とかに憑いてんじゃないのかよ!?」
思わず叫んだおれに、男が「それが違うんだなぁ」と言いながら人差し指を立ててチッチッと舌を鳴らす。
「あんたが引っ越してくるまでは、たしかに俺は地縛霊だった。あの部屋に住んでた元カレのせいで自殺しちまって、恨みつらみに恋しい気持ちも忘れられなくて部屋に取り憑いたんだけどさ。ま、元カレはすぐに引っ越しちまったけどな。で、そこにやって来たのがあんただ」
男が言うとおり、おれは地縛霊が取り憑いている部屋の住人になってしまった。しかも事故物件じゃなかったから地縛霊が出るなんて予想もしていなかった。ある日目が覚めたら腹に乗った地縛霊が現れ、「へぇ、かわいい子じゃん」と地縛霊らしからぬ明るい声を出したかと思うと、その日からおれを口説き始めたのだ。
(おれもそれなりにホラー系の記事を書いてきたけど、こんな幽霊は初めてだ)
おれはホラー系を得意とするフリーライターだ。潜入ルポなんてものも書くくらいだから恐怖体験はそれなりにしてきている。だからか幽霊を見たくらいじゃ腰を抜かすなんて思うこともなくなった。
でも、この地縛霊は別だ。幽霊のくせに性欲満々で、呪うより致したいと毎日のように訴えてきた。とんだ色情霊だとうんざりしていたある日、金縛りなんて古典的な方法で捕まった挙げ句、地縛霊においしくいただかれるという情けない目に遭ってしまった。
(それから半年、隙を見て何とか引っ越し先を見つけたっていうのに……)
地縛霊より恨めしい気持ちで男を見る。そんなおれににこっと笑った男は「ほらぁ、そんな顔しねぇの」と言いながら頬をするっと撫でた。幽霊のくせに感触どころかほんの少し温かい気がするのが憎らしい。
「だから、そういうのやめろって。そもそもなんでここにいるんだよ」
「ん? そういや言ってなかったっけ。俺、地縛霊なんだけど地縛霊じゃなくなったんだわ」
「……はぁ?」
「俺さ、あんたに取り憑いてるってことになってるらしくてさ。目が覚めたら知らない部屋で驚いたの何のって」
「はぁ?」
「だーかーらー、俺はあんたに取り憑いてることになってんのよ。そうだなぁ、あんたに憑いてるあんた専用の地縛霊ってやつ?」
笑っている男の言葉が理解できなかった。理解したいとも思わない。
「ってことで、これからもいろいろよろしくな」
そう言って差し出された右手を、おれは思い切り叩き落とした。もちろんそんなことくらいで地縛霊が諦めるなんてことはなく、その日からおれと地縛霊の共同生活が再び始まることになった。
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