お引越しララバイ

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 ***  夫の言葉も一理ある、のかもしれない。  私は蜜柑に、新しい家が便利だということばかりプレゼンした。しかし、彼女にとっては引っ越しというのは、新しい家に生まれ変わることではないのではないか。  今の、自分の故郷とも呼べる場所を捨てることに他ならなかったのではないか。  もしそうなら――納得できる説明が欲しいというのも、わからないことではない。私達にとっては新しい家を手に入れることであっても、彼女にとっては古い家を捨てることでしかないのであれば。 「蜜柑ちゃん」  部屋に入ると、彼女は壁の方を向いて体育座りをしていた。わかりやすい、スネてます、のポーズだ。  まだ時折鼻をすする音がする。完全に落ち着けては、いない。  無理にこちらを向かせるのは逆効果だろう。 「さっきはごめんなさいね。ママもちょっときつい言い方をしすぎたかもしれない」 「……ママ」  娘は、振り返らない。 「じゃあ、おひっこし、なしにしてくれる?」 「……それはできないわ」 「なんで?」 「もう新しいマンションを契約したの。つまり、スーパーで物を買うのと同じように、お金を払って、マンションの部屋を買ったのよ。それを後からナシにしますなんてことはできないのよ」 「……じゃあ」  ちらり、と彼女はこちらを見た。これが真実だ、と泣き濡れた目が言っていた。 「どうして、ケイヤクするまえに、みかんにお話してくれなかったの?」  その言葉で――私は悟った。ひょっとして、そこから自分は間違えていたのかもしれない、と。  このアパートがボロボロで、住み続けるのは不便であり危険であるのも事実だ。引っ越しはいずれしなければならないことだっただろう。でも。 「みかん、この家が好き。ままは狭い、不便って言うけど……みかんにとっておうちは、ここなの。ただいまーって帰ってくるのも、途中で交番のオマワリさんに挨拶するのも、コンビニのお菓子コーナーを覗くのも……みんなみんな、この家がはじまりで、つながってるの」  だから、と彼女は続ける。 「ひっこすってことは、このおうちを捨てるってことでしょ?新しいおうちが、すてきなところとか、そういうの関係ないよ。みかんにとっては、ここがみかんのおうち。それをすてなきゃいけないのに……なんで、みかんには教えてくれなかったの?みかんも、ここに住んでるのに。住んでても……子供は、そういうのをイヤだって言うのもだめなの?」  彼女が一番傷ついたのはそこだったと、ようやく気付いた。  そうだ、私達は家族。家族は――夫婦だけでは、ない。  いくら引っ越しが確定事項だったとしてもだ。それでも、彼女をきちんと説得してから契約をしたって良かったはずである。引っ越しをしようというのは、物件が決まるよりずっと前から決めていたこと。時間はいくらでもあったのだから。  それでも彼女に話さなかったのは、反対されるからと思ったわけでもなく、サプライズにしたかったわけでもない。
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