第一話

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第一話

 田口(たぐち)咲希(さき)の家族が隣町に引っ越したのは、桜の花が咲きはじめる少し前だった。それまで暮らしてきた賃貸マンションから、三十年ローンの戸建住宅に移り住んだのだ。咲希は大学に通うのに駅がふたつ遠くなり、弟のハルは高校までの駅がふたつ近くなった。  決して大きくはない在郷町だったため、本格的な買い物するさいには、電車に乗って街まで出ないといけない。しかし、前に住んでいた町も似たようなものだった。多少の不便は許容範囲だった。  その日、旅行好きの両親は昨日から家を留守にしていた。咲希がリビングで昼食の食パンをかじっていると、テーブルの向こうにいるハルがふいに歌いはじめた。    かごめかごめ    籠の中の鳥は    いついつ出やる    夜明けの晩に    鶴と亀が滑った    後ろの正面だあれ  咲希はハルを見つめながら、つくづく中性的だと思った。男にしては小柄な体躯、白磁のように滑らな肌。一重の目は切れ長で、唇は色も厚みも薄い。実の弟だというのに、美しいとすら感じる容姿だ。  ややあって歌い終わったハルは、淑女のような静かな声で尋ねてきた。 「かごめかごめの歌は知ってるよね?」 「うん、知ってる」 「じゃあ、歌詞の意味は?」 「そういや、知らないね。ハルは知ってるの?」  ハルは「知ってるよ」と頷いた。  それからこんな話をはじめた。 「いろいろと説はあるのだけど、は籠の女で籠女(かごめ)みたいだね。籠は座敷牢を示しているらしくて、籠の中の鳥というのは、座敷牢に閉じこめた女の人のこと」  座敷牢は私宅の一角を格子などで厳重に仕切り、特定の人物を監禁するために設けられたものだ。現在は座敷牢の設置は法律で禁止されているが、かつては主に精神障害のある者を閉じこめていた。 「それからは、いつ座敷牢から出るのかって意味なんだけれど、次の歌詞のはおかしいでしょう。夜が明けているのに、晩ってあり得ない」 「本当だ。確かにあり得ないね」 「女の人が座敷牢から出るなんてあり得ない。そういうことの比喩のようだね」 「へえ……」 「その次の歌詞はだよね。鶴と亀はどちらも長寿の象徴とされる動物。そのふたつが滑べるということは死を表しているんだ。つまりね、座敷牢から出るなんてあり得ないけれど、もし出てくるとすれば死んだときだけって意味になる」  最後のにはこのような解釈があるという。 「昔の人は精神障害を恥だと考えていたらしくてね、家族に精神障害者がいると徹底的に隠そうとしたんだ。だから、その人が亡くなって座敷牢から出てきても、顔が見えないようにうつ伏せに寝かせた。背中しか見えない状態を、と歌ったみたいだね」
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