オーロラの勝敗

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 オーロラの噂は知ってるよ。学校近くの公園でオーロラが見えるって話。  でもあれって北極とか南極に出るものでしょ。テレビでもこもこに厚着した芸能人が「地球の奇跡ですね!」とか言って感動してるの見たことある。通学路のどっかの公園で見えるわけないじゃん。  クラスのリーダーが誰になるかは、だいたい初日にわかる。このクラスは森くんだ、と耕太は思う。  森は六年生の新学期の初日から、イスに横向きに座ってぺちゃくちゃ喋っていた。  耕太は森と四、五年生のリレー選抜で一緒だったから、彼がどこでも注目を集めてみんなを笑わせたり盛り上げたりできるやつだってことは知っていた。  朝も登校した耕太の顔を見つけるなり 「こーた! リレーで一緒だったよな!」  と声をかけた。それからすぐまた別の新しい顔を見つけて話しかける。そうやってあっという間に新しいクラスで居場所を作っていた。  喋るたびに大きな目と口がよく動いて周りの目を引いた。机の上のランドセルは乱暴に扱われていた。ランドセルをそうやってクタクタに使い込むのが男子の間ではかっこよかったから、森のランドセルはかなりかっこいい感じだった。  背の順は後ろの方で、髪がつんつんしていて、地区のミニバスクラブでバスケをやっている。それに成績も意外といい。授業中には平気で喋るけど、先生が生徒の反応をほしいときをわかって発言したり笑ったりするから先生からのウケもいい。  初日にはよくわからないやつもいる。たとえば森の後ろの席の吉井くん。  吉井は新学期に登校すると、森のことも新しいクラスも興味なさそうにただ自分の席に座った。冷めてるやつだと耕太は思った。前髪がかかった目は眠たそうに見えた。背の順は後ろの方だけどひょろひょろしていた。  でも、話してみれば暗いやつってわけでもない。昼休みのドッチボールにも誘えばちゃんと参加する。うるさくも暗くもない。優しくも乱暴でもない。どっちつかずなのはとにかく吉井の全部に言えることで、まず自己主張というのを全然しない。 「あと一人、誰かいませんか?」  玉木先生が、黒板に書いた「木琴」を指さして教室を見回した。玉木先生はおばあちゃんに近いおばちゃんの先生で、耕太は五年生に引き続き玉木先生の担任のクラスだった。きびしくないからラッキーと思ったけど、授業も学級活動もベテランらしくぐいぐい進めるからたまに注意が必要だ。  音楽発表会の合同演奏で耕太たちのクラスがやる楽器のうち、木琴の演奏者が決まらなかった。ピアノはもともと上手な田村さんに決まり、大太鼓は似合うという理由でガタイのいい篠田になり、鉄琴は鈴木さんが立候補した。残るは木琴。そもそもリコーダー以外の楽器は放課後に練習があるから、やりたがる人が少ないのだ。  教室は、しんと誰も動かなかった。これが決まれば学級活動は終わって帰りの会になる。早く帰りたい。でも、やりたくない。 「今、女の子が二人に男の子が一人だから、男の子で木琴やりたい人はいないかな?」  玉木先生が言う。話を進める助け舟なのだろうけど、もし女子でやってもいいかなと思っている人がいたら言えないじゃないか。これじゃ決まんないぞ。いや、このままいくと玉木先生は男子の中でじゃんけんで決めさせるかもしれない。男子たちがちょっとそわそわし始めたように見えた。  そのとき、森が後ろの席の吉井へくるっとふりむく。そして 「吉井、おまえやれよ。はい、吉井くんがいいと思います」  返事も聞かずにそう発言した。  森は先手を打ったのだ。彼はこういうタイミングをわかって発言する。今みたいに、誰か発言しないか教室が待っているときを逃さない。だから無理に大声を出さなくてもするっと意見を通す。  吉井を推薦したのはどうせ、ちょうど近い席で文句を言わなさそうだから、というだけだ。でも耕太だってやりたくないし他に推薦する人もいない。  吉井は黙っていた。たまたま自分の名前が呼ばれただけと思っているみたい。 「どう? 吉井くん」  玉木先生が優しい笑顔でたずねた。吉井が無言で玉木先生を見る。先生は木琴の文字の下をチョークで指して、彼が返事をすればすぐここに吉井くんの名前を書きますという姿勢だった。そして吉井はその通りの返事を 「じゃあ、やります」  と、うなずいたり姿勢を正したりもせずに声だけで答え、それで決まってしまった。  いいのかよ! と耕太は眺めながら思っていた。  サッカーで鍛えたおかげか耕太は四、五年でリレー選抜になった。そこで会ったときには森は耕太と同じくらいの身長だったけど、身長以上に存在がでかかった。同じクラスになった今では身長もでかくなっていた。 「やっぱりバスケットボールは背が伸びるのよね。サッカーの姿勢は重心が低いから背が高くならないって聞いたのよ」  耕太の話にお母さんがそんなことを言う。耕太はムッとした顔をしてみせる。そんなこと言ったらサッカー選手全員小人じゃん。 「俺、サッカー好きでやってるんだよ」  ならいいのよ、とお母さんは耕太の「ムッ」には気づいていない顔で言う。  週二回あるクラブのサッカーは楽しい。思いっきり走るのも力いっぱいボールを蹴るのも声を出すのも気持ちいい。チームみんなのパス回しがうまくいってゴールが決まったときなんか、すっごい盛り上がる。なんだよ、背が低いくらい。高いやつにだってサッカーなら負けない。  去年、五年生の一学期に流れていたオーロラの噂の出どころは知らない。学校の近くの公園でオーロラが見える、って話。  女子は盛り上がっていた。二人で見ると両想いになるなんて話もあれば、午前一時にあの世とつながるなんてオカルト話もあった。女子って普段は男子のことをばかにするのに、どうしてこう夢見がちなことで騒ぐんだろう。しかもこっちがつっこんだりすれば「わかってない」とか言うんだ。  でもどこの公園かという重要なところは誰も知らなかった。公園なんていくつもある。耕太の通学路には、クラゲに似た遊具があるからクラゲ公園と呼ぶ公園がある。広い公園だけど、オーロラなんて想像できないよ。  音楽発表会の練習は予定通り始まった。リコーダー以外の楽器の練習が放課後の音楽室で始められた。  といってもそんなにきびしいものじゃないらしい。ピアノの田村さんは家で練習すると言うし、篠田の大太鼓はあんまり練習することはなく、鉄琴の鈴木さんはいつも他クラスの女子と一緒に音楽室に行っていた。  吉井は謎だったけど、音楽発表会をそこまで心配する人もいなかったから、木琴の練習の具合を知りたがる人もいなかった。  森は吉井を推薦することに成功してから味をしめたようだった。頼めば言うことを聞かせられるってこと。でも無理に言うことを聞かせているとわかるようなことはしない。 「算数ドリル見せてよ。おまえやっぱ頭いいよな」とほめ言葉を混ぜたり 「中庭行くところ? じゃドッチボールの場所取っといてよ。これ置いてくれればいいからさ」とまるで親しい相手にするように自分の荷物を渡したりする。  吉井はたいして表情を変えないまま、本当についでという感じで引き受けている。断る方がめんどうくさそうな様子。  通学路なんだから本当は決まった道を通らなきゃいけないけど、毎日同じは飽きる。それにいろんな道を通った方が発見がある。  というわけで耕太は正しい通学路より、もっぱら細い路地や空き地や公園を通って帰っている。クラゲ公園は坂の途中にあって、地形をいかした巨大滑り台があり、その下は遊具(その一つが白くてクラゲに似てる)があって、上には野球もサッカーもできる広場がある。  久しぶりにクラゲ公園を通って帰ろうと思い立って、耕太は巨大滑り台の横の階段を登っていた。木の階段はよく踏まれるところがすり減ってへこんでいる。滑るのは一瞬なのに、登るとなかなかある。  黙々と登ってあと少しというところで顔を上げると、上がった先の植え込みに吉井がいるのに気がついた。びっくりして、思わず「えっ」って言った。吉井は驚きも笑いもせずに黙ってこっちを見ていて、耕太だけびっくりしているのがバカみたいだった。 「なにしてんの」  階段から耕太が声をかけた。 「ひとやすみしてるだけ。俺もこの近くが通学路だから」  吉井は長い前髪の奥から眠そうな目でこちらを見ていた。草の上で手を後ろについて足を投げ出し、たしかにひとやすみの格好だった。彼の視線を追って振り向くと、坂の下の町が目の前に広がっていた。遊んでいるときに遠くの景色なんて、耕太は見たことなかった。  吉井の座る場所まで来てみると、そこは木に囲まれて居心地が良い。木の枝を風が抜ける音が頭の上に聞こえた。坂の下は一面に家が並んでいた。  見下ろすと滑り台の下もよく見える。耕太がせっせと階段を上がってくるのもここからまる見えだった。  白熱したドッチボールだった。昼休み。クラスの男子はたくさん参加していて、女子も結構いた。森は耕太の敵チームで、バスケで鍛えた強いボールをバンバン投げてきた。耕太の方もガタイのいい篠田を中心に攻撃していて、耕太もそこに食らいついてるところだった。吉井は敵チームにいた。あまり戦力になってなかったけど。  どちらの内野もだいぶ減って、いよいよ盛り上がってきたところだった。  ドッチボールよりやっぱりサッカーが好きな耕太は、そのとき、飛んできたボールを咄嗟に蹴り返してしまった。何しろボールがちょうどいい位置にきて上手く蹴るルートが見えてしまったのだ。それで相手の女子を一人アウトにした。 「足に当たったから耕太がアウトだろ!」  喜ぶ耕太たちに、森が声をはり上げた。 「当たったんじゃなくて蹴っただろ!」  耕太も負けじと叫んだ。しっかり蹴ったのにそれを足に当たっただけと言われるのは許せなかった。しかもそれで一人アウトにしたのに。  当たった、蹴った、アウトだと両チーム言い合いになる。耕太がアウトにした女子は困っていた。決まらないかと思われたとき 「ドッチボールは手で投げる競技なんだから、蹴ってる時点でだめだろ」  吉井の言葉にすっとみんなが黙った。長い前髪に隠れた眠たそうな目はいつもと同じだったけど、説得力のあるひとことだった。耕太も他の味方も言い返せなくて、結局耕太がアウトになり、耕太が当てた女子のアウトは無効になった。  よっしゃあ! と森が吉井の肩を組んでガッツポーズをした。その横で吉井は別に、って顔だった。  時々クラゲ公園を通って帰った。そのさらに時々、吉井がいた。気が向いたら耕太も植え込みでひとやすみしてみた。いつでも眺めが良くて、展望席っていう看板を立てたら人が来るんじゃないかと思った。吉井にそう言ったら「やりたいならやれば」とどうでもよさそうな答えしかなかった。好きなサッカーチームの話をしてみたり、野球の方が好きなのかと聞いてみたりしたけど、吉井はどれも興味なさそうだった。普段何してるんだろ。一度「木琴って順調なの?」と聞いたら「悪くないよ」という返事だった。  じっと黙っていると遠くから救急車のサイレンやトラックが走る重たい音が聞こえてくる。座っていてもすることはなかったけど、つまらなくはなかった。吉井がつまらなさそうではなかったからかもしれない。 「明日はドッチで森に勝ちたいな」  何か喋りたかったけど何もなかったから、耕太はひとりごとみたいにそう言ってみた。吉井は隣で指を広げたり反らせたりと謎の屈伸運動をしている。滑り台の下で低学年が遊んでいて、上の広場には五年生らしきグループが自転車を乗りつけていた。 「勝ちじゃなくてもいいから、森のボールキャッチしたい」  吉井が答えないので勝手に話を続けた。 「吉井もたまにはボール取れよ」 「俺はよける専門」  耕太が話を向けると吉井は悪びれもなく言った。はりあいがないや。そう思いつつも、吉井は嫌な顔をするわけじゃないから、公園で会うといつも耕太が勝手に喋っていた。  オーロラの噂が再熱していた。一度消えてまた出てきた話だから「本当に本当らしい」なんて真剣さがあった。加えて、それを吉井が知ってるという噂がどこかから流れていた。表情のわかりにくい吉井が逆にそのせいで秘密をかくしているように思われた。何度知らないよと言われても、女子は諦めないどころか逆にちょっと盛り上がっている。 「まじで知らないよ」  森に何か言われても表情を変えない吉井が眉をしかめて、困ったような迷惑そうな、でも怒っているわけでもなさそうな顔で女子にそう言って教室を出て行った。木琴の練習は続いているようだった。 「誰か聞きに行きなよ」 「わたしじゃ教えてもらえないよ」  なんて、女子がヒソヒソ話す。変な注目がひそかに吉井に集まっているのだった。そんなふうにヒソヒソ話してたってわからないんだから、本当に知っていそうな人をちゃんと探してバシッと聞けばいいのに。と耕太は思ったけど自分でそれをやる熱意はなかった。つまり、めんどくさかった。 「俺聞けたら聞き出してみようかな。ま、わかんないけど」  我が物顔で森が言った。えー無理じゃない? と女子がヒソヒソ声のまま返す。 「じゃ俺が聞く」  その気もないのに口を挟みたくなって耕太が言った。 「え、こーたじゃもっと無理」  女子が今度はばっさり言った。何がちがうんだよ。俺と吉井の仲だからな、なんて森が笑うので「は、俺にも仲はあるし」とか言い返してたら女子はいなくなってた。  森はドッチボール以来、吉井を仲間扱いするようになっていた。都合よく頼みごとをするのは変わらなかったけど、大人しく見えて案外頼りになる、なんてちょっと見直したのかもしれない。  よく見ると吉井の方もたまに森を受け流したりさりげなく断ったりしていて、実はやられっぱなしではないのだった。森も一回断られたくらいで怒り出すほどガキじゃないから、このままうまくいきそうに思われた。  事件は音楽発表会目前の木曜日に起きた。その日は掃除が終わったら帰れるという、いつもと違う時間割だった。 「このあと残るんでしょ」  森がちょうど良かった、というよくやる口調で吉井に言った。またかよと耕太は思う。 「俺、急いで帰んなきゃいけなくてさ。ゴミ集めて捨てるの、やっといてくんない? 音楽室行くついでにさ」 「ゴミ集めまではできるだろ」  耕太が横から言った。森は早く帰りたいだけだ。けれども 「残れる人が残って帰る人は帰れれば、時間が無駄にならないだろ。しかも教室移動するついでなら効率的じゃん。みんなが大変より、絶対そっちの方がいいっしょ」  森があまりにすらすら言うから、言われた耕太はそうかなという気がしてしまった。 「こーたもそっちのがいいだろ」  と肩を叩かれて、気づくと耕太と森の会話は済んでいた。吉井は何も言わず前髪の奥で森を見ていた。  でもそこからいつもと違った。手に持っていたゴミ袋を森に差し出し「できるでしょ」と軽く言った。あまりに当たり前のように言ったから、森も一瞬「おう」って向かい合ってしまった。でもそれじゃ森は済まない。すぐにいつものペースを取り戻す。 「いやいや、吉井できるでしょ」  吉井くんなら、という調子。いつもならそれで吉井が「まあね」とか言うのを「サンキュー! マジ助かる!」なんて森がすかさずいい雰囲気に持っていく。もしくは「じゃこれだけ」と言う吉井に、「しょうがねー」って森が妥協した感じになっておさまる。  でも今日の吉井は引かなかった。何も言わない。でもゴミ袋を差し出す手もおろさない。これを森が無視すればはっきり森が掃除をサボったことになる。何でもうまくやる森は、それはしないと思う。 「いや」  森は怒りをおさえた笑い方をした。くっきりした目とまゆ毛に迫力がこもる。ここで引かない吉井に森がイラついたのがわかった。気づけば教室中が二人を見ていた。 「秘密の用事でもあんの」  森がちょっと笑って別のところから攻めた。何ムキになっちゃってんの、みたいな。 「あ、もしかしてオーロラ見に行くとか?」 「え。何、森もオーロラ見たかったの?」  吉井のそれは本当にただの質問だったかもしれない。でも、状況から言って森を怒らせるには十分すぎた。 「は?」  宣戦布告と受け取った森は正面から吉井と向かい合った。  同じくらいの背の二人は並ぶと正反対に見えた。くっきり大きな目の森と、眠たそうな吉井。つんつんの短髪と、伸びた髪。森は不満なのだ。吉井が何を言っても表情を変えないことや噂の対象になることが。相手を自分のペースに巻き込みたい。だってそれができてしまうから。  吉井はゴミ袋を持つ手を下げなかった。ほとんど押しつけるような吉井の手を森は払いのけようとしたが、吉井は手にがっちり力を入れている。あくまで喧嘩じゃなくて冗談だっていう顔で、森はその手をつかむ。  でも吉井は本気だと耕太は思った。サッカーの試合のファール判定くらい、昼休みのドッチボールとは段違いのヒリついた空気を感じた。言ってやれ、と思った。冷めた顔しちゃってるけどさ、吉井だって本当は黙ってられないだろ。森に言いたいこと、ないわけないだろ。 「森、お前ちゃんとやれよ!」  黙っていられなかったのは耕太の方だった。咄嗟に出たその言葉が、ちゃんと掃除やれよ、だったのか、本気の吉井に冗談のフリで済まそうとするなよ、と言いたかったのかはわからなかった。  考える暇はなかった。森の手を耕太がおさえようとする一瞬前に、森が吉井の手を力いっぱい押しのけた。その勢いで耕太はただ巻き添えをくう形で吉井とともに後ろに倒れた。吉井が後ろの机に倒れこんでかなり大きな音がした。  森は、吉井がすぐやり返してくると思ったはずだ。でも吉井は倒されたままもう何もしなかった。ちょっと顔をしかめただけで森の方を見ることもしなかった。森が吉井を倒して終わった。  保健室! と女子が騒ぎだした。耕太が森に何か言うか吉井を心配するべきか迷っているうちに、気づくと森がゴミ袋をぐしゃりとつかんで教室を出て行くところだった。  いるかどうかわからなかったけど、夕方にクラゲ公園に行くと吉井はいた。  今日は階段からではなく上の広場から来たから、木の向こうに吉井が見えた。手を後ろについて足を投げ出した後ろ姿に声をかける。吉井はちらっと耕太の方を見て、うなずいたような、ただ前髪をはらっただけのように首を動かした。耕太が来て驚いたようでもなかった。大丈夫だったのと聞くと、無言で長袖のシャツをまくり、右肘の大きな湿布を耕太に見せた。吉井の横に立って、坂の下を見下ろして、それから耕太も隣に座った。 「吉井は試合に負けて勝負に勝ったんだって教室で言われてたよ」  教室で聞いた言葉を耕太はそのまま言った。吉井はしばらく黙っていたが急に、 「勝つとか負けるとか、ほんと嫌い」  と言った。うんざりした声だった。 「俺の兄ちゃん、しょうごって名前なのね」  急な吉井の話に耕太はぽかんとした。吉井は構わない。 「勝つって漢字に俺の名前と同じ字で『勝悟』。大変だよね、生まれたときから勝たなきゃいけない運命だよ。俺はずっと『お兄ちゃんに負けないように』って言われてきたんだよね。兄弟で勝ち負けって何? 早いもん勝ちじゃん。早く生まれた時点で勝悟が有利じゃん。で、俺の名前は『友悟』だよ。『みんなで仲良く』ってこと? 勝たなきゃいけないし仲良くもしなきゃいけない?」  吉井は『負けないように』とか『仲良く』のところをわざとらしく猫なで声を作り一気に言った。つまんなそうな声の中で猫なで声は目立ち、なぜかそれで吉井が怒っているのがわかった。 「あ、でも」  今度はほんの少し笑いをふくんだ声で吉井はつぶやいた。 「喧嘩だけは、先に手出した方が悪いから『早いもん負け』なんだよなあ」  吉井は笑ってそう言った。全然おもしろそうじゃなかった。  耕太は彼の言ったことを頭の中で繰り返した。だからさ、試合に負けて勝負に勝ったってことなんだよ。耕太がもう一度言おうとするのをさえぎるように、吉井は耕太の顔を見る。 「勝つのってそんなにうれしい?」  ピーマンってそんなにおいしい? とでも言うような、俺には意味わかんないんだけどって言い方だった。  考えたこともない質問に耕太はたぶん口が開いていた。そんな当たり前のこと、イチから疑ったら何もできないだろ。何か頑張ったり、喜んだり、悲しんだり、ドキドキしたり、決断したり、何も。 「負けた方がいいわけ?」  頭の中をめぐらせた結果、そう返した。そんなわけないと思いながら、でもその質問を言いかえればそういうことじゃないかと思ったし、もしそうならだから森に反撃しなかったのかとも思ったのだ。  吉井は表情も変えずに黙っていて、それは次第に重たい空気になった。彼が耕太に向かってその空気をじわじわと出しているような、彼自身がそこに飲み込まれていくようでもあった。十分すぎる沈黙をおしのけて吉井は返事をした。 「負けるのが悪いことなら、相手を負かすって悪いことじゃない?」  言葉遊びじゃないとはわかったけど、それ以上の意味を耕太はすぐには受け取れなかった。吉井は耕太の返事を待たずに続ける。 「もしもさ、俺と森が、殴りあいとかで正々堂々と喧嘩したとするじゃん。やり合って体が痛くて、それでたとえば、俺が勝つとするじゃん。森が『負けました』とか言う。正式に俺が勝ちでしょ? でも、そもそもケンカしなかったら痛くもないし、誰も負けないからそっちの方が良くない?」  吉井がそこまで言ったとき、耕太と吉井はまっすぐ目を合わせていた。投げ捨てるように話し始めた彼の言葉は、少しずつはっきりとした言葉になった。そして言い終わった瞬間、また吉井はぷいと顔をそむけた。  さっきより外が暗くなってもうすぐチャイムが鳴ると思った。 「俺ピアノ習ってるんだよね」  急にさっぱりした口調になって吉井が言った。聞いたことがなかったから耕太は驚いた。こいつって予想外のことばっかするな。 「なら、木琴じゃなくてピアノに立候補すれば良かったのに」 「しないよ」  吉井は笑って軽く言う。 「でも楽譜は見慣れてるから、木琴も悪くなかったよ」  悪くない、は吉井の言い方だ。いいとも悪いとも、好きとも嫌いとも言わない。  吉井は後ろに手をついていた姿勢から上体を起こし、体育座りの姿勢になる。ひざに腕を乗せ、手のひらの砂を払うと、空中で鍵盤をたたく動きを始めた。坂の下に見える屋根を楽器にしているみたいだった。指が長いなと思った。指の一本ずつが自由な生き物のようだった。ピアノを弾くのが楽しいのだと、その指の動きが言っていた。 「お兄ちゃんもピアノやってんの?」  耕太が聞くと、まさか、と吉井は笑った。 「あいつは野球ばっかの野球バカ」 「へえ」 「勝悟が野球なら俺はサッカー、とかじゃなくてもっと全然違うことやりたくて、それでピアノって言ってみただけなんだけどさ、まあ悪くないよ」 「いつからやってんの?」 「小二」  吉井は話しながら指を空中で動かし続けた。音がなくても指はたしかに白と黒の鍵盤を思い描いている。でたらめじゃない。日がかげった町は少しずつ灰色がかってところどころの窓がきらきらして見えた。 「ピアノなら勝ち負けなくていいね」 「あるよ。ピアノにも」  はっきりと言われた。そうだねと言われると思っていた耕太は、吉井の指に力が入ったのを見て少しひるんだ。 「突き指したら弾けないから、ドッチはよける専門」  弾きながらぽつぽつと吉井は話を続ける。 「木曜はピアノの練習あるから、残れない」 「そういうことだったんだ」 「今日は保健室行ったから、結局ピアノ行けなかったけどね」  鼻で笑って吉井はそう言った。森にあんなにマジになったのにさあ。全然意味ねーじゃん。そう続けた言葉が、今までで一番悔しそうだった。 「でも森には効いたと思うよ」 「別に森が何しようと俺はどうでもいいの。ピアノ邪魔してこなければ」 「ピアノは、勝ちたいの?」 「勝ちたいんじゃなくて」  左手を大きく開き右手の指はこまかく動かしながら吉井は言った。 「勝ちたいんじゃなくて、弾きたいの」  見えないピアノの鍵盤を、吉井の両手が急にバンと叩いた。クライマックスだったのか中断だったのかわからなかった。吉井はわかりにくい表情のまま、前髪の奥で目だけを大きく開いて前を見つめていた。遅れて耕太もその方向を見た。  敷き詰められた屋根のうちの一つ。三角の屋根の、その上の方にある大きな窓だった。昼の光が落ちきる直前の時間だった。空はかろうじて明るく、地面は薄暗く、昼でも夜でもなくどちらもあった。  三角の屋根にあるその窓が西日をちょうど反射させた。鏡のような反射ではなく、白と青と緑を混ぜたような色にふわっと光った。虹のようにくっきりしていないマーブル模様のようで、透き通り、音もなく広がり、それはホログラムの折り紙のオーロラの色だった。  うわあ、とか言おうとして口を開けたまま耕太は固まっていた。なんだ、オーロラってこんなことだったのかと思った。なのにがっかりした気持ちにはならなかった。 「今の季節の太陽の位置がいいらしい」  完全に消えたのを見守って吉井が言った。 「しかも場所が大事らしくて、道路とか広場からじゃ見えない。最近何回かここで見た」 「知らないとか言ってたくせに」  耕太が言うと、吉井はふふっといたずらっぽく笑った。前髪の奥で目がきゅっと細くなって、あんまり見ない笑い方だった。空中のピアノ演奏は終わっていて、吉井は膝の上で頬杖をついて景色を眺め続けていた。前髪を風が揺らしていた。  俺はやっぱ勝ちたいけどね。耕太は思った。でもその勝ちって、結構なんでもアリかもしんない。人から勝ったよと言われたって自分がそう思わなきゃ意味ないし、逆に自分で勝ったって思えれば、もうそれでいいのかも。 「木琴の練習帰りに寄ると、ちょうど見える時間だったんだよね」 「じゃあ森が推薦してくれたおかげじゃん」 「そうなんだよ。感謝しないと」  今までで一番悪ふざけっぽい言い方で吉井が言った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!