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とうとうこの日が来てしまった。
今夜は眠れそうにない……。
お父さんに最後の挨拶をしなければ。
これが最後。これが最後の挨拶だ。
掛け時計の針は午後九時を指している。
これで、最後の挨拶になる……。
私は、ふぅーと、細く長い息を吐いて心を落ち着かせると、
「お父さん」と、襖の向こうにいるお父さんに声をかけた。微かに声が震えていた。
「美咲……」
絞り出すようなお父さんの声が聞こえてきた。
その声を聴いたら、胸がきゅっと締めつけられるようになって、思わず涙が出そうになった。
胸に手をあてて、震える唇を噛む。
私は部屋の中に入っていき、お父さんの前に座ると正座をした。
「お父さん、今までお世話になりました」
そう言って、畳に両手をついて頭を下げた。
「美咲……そんな、かしこまって挨拶なんて、水臭い……いつでも……お父さんは……待って……う、う、うう、ぅぅぅぅぅ……」
お父さんは嗚咽して最後は声にならなくなった。
今夜からこの部屋ともさようならだ。淋しい……。
まるで幼子が闇夜に放り出されたような、そんな心許なさが私を襲った。
できることなら、できることなら、お父さんと離れたくない。
お父さんはどんな時も私を庇ってくれた。
テストの点が悪くてお母さんに叱られていた時も、
「元気なのが何よりじゃないか。成績が悪いくらいどうということはない」
そう言ってお母さんを宥めてくれた。
運動会の徒競走では毎回びりで落ち込む私に、
「大丈夫だよ。駆け足が遅くたって、美咲は逃げ足は速いんだから。お母さんに叱られそうになると察知してぴゅっと逃げるの速いもの。お父さんはいつも感心していたよ」
そんな慰めにもならないような言葉をかけて励ましてくれたりもした。
──お父さんはいつだって優しい。まるで寒いときに、ふうんわりと包み込んでくれるブランケットみたいだ。
「お父さんは、花のように美しく咲く、そんな人になって欲しいと願って美咲と名づけた。美咲は、今まさにその通りになったと、お父さんは、思う。美咲はお父さんの誇りだ」
「お父さん! お父さんはいつも私を褒めてくれた……」
花のように美しくなったなんて、誰にも言われたことのない言葉を聴いてちょっと恥ずかしいけど嬉しい。
「お父さん、今まで私を育ててくれて、ありがとう。私、お父さんと離れたくない……」
私の両眼からぽたぽたと雫が畳の上に落ちた。
「美咲!」
「お父さん!」
お父さんの広い胸に私は顔を埋めた。
「美咲は素直に育ってくれた。いい娘に……お父さんの自慢の娘だ。う、う、うぅぅぅ……」
お父さんはいつまでも私を抱きしめたまま離さない。
私はふと、お父さんの足元に置いてある画用紙に目を留めた。
私の視線に気がついたお父さんは、言った。
「さっき、押入れの整理をしていたら、美咲が小さいころ描いた絵が出てきたんだ」
見ると、画用紙いっぱいにクレヨンでたどたどしい絵が描かれている。
左端にいるのはお父さんだろう。紺色のネクタイにみえるものが描いてある。真ん中の背が低いのが私だろう。大きな黒色の瞳の中に黄色のキラキラが描いてある。右端がお母さんに違いない。ピンクのエプロンをつけている。親子三人が手を繋いでいる微笑ましい絵だ。
じっと眺めていた私は、お母さんの頭に二本、黒い棒のようなものが描かれているのを発見した。
「あっ! 角だぁ。お母さんの頭に角が描いてある」
私は思わず眼を見開いて言った。
「なるほど、これは角だな」
お父さんは愉快そうに言うと豪快に笑った。
つられるように私もお父さんと一緒になって笑った。
「小さいときもお母さんには叱られてばかりだったから、きっと角を描いちゃったのね。お母さんに叱られる度に、お父さんは私を庇ってくれてたのよね。私はそんなお父さんが大好きだった。今も、そうだけど」
「美咲!」と叫んだお父さんの瞳が輝いている。
「お父さん……優しいお父さん!」
「海よりも深く美咲を愛しているよ」
「お父さん!」
お父さんと私はまた、ひしと抱き合った。
その時、不意に背後から大きな声が響いた。
「はい、はい、はい、はい。美咲! お父さん! いい加減にしてちょうだい!」
びっくりして振り向くと、部屋の中にお母さんが入ってきて、仁王立ちになった。
「私は鬼ですか? 角が生えてて悪かったわね! お父さんが甘々だから、私がきちんと躾けなくちゃならなかっただけです。美咲が美しく花開いたですって? 蕾にすらなってませんけど!」
「お父さんがそんな古い絵を出すから、怒られちゃったじゃん」
「いや、最後に少し変化が欲しくなってしまって、つい……」
「とにかく、美咲! 一人で寝るのが寂しいからといって、お父さんに甘えてるんじゃありません! お父さんもお父さんですよ。まったく! 二人ともさっきからいつまでやってるのかと思って見てましたら、美咲が出たり入ったり三回も同じようなことを繰り返して。飽きもせずに、よくもまぁ。私にアピールでもしているつもりなんですか?」
──お母さんはシビアだ。
「だって、二階に子ども部屋を作ってもらったけど、今夜から一人で眠るなんて……今までみたいに、ここで三人で川の字になって、眠り、た、い、な……」と、私は上目遣いにお母さんを見ながら言った。
「なに言ってんの。中学生にもなって。美咲はいつまでお子ちゃまなんですか! お父さんもお父さんですよ。美咲の引越しだって言って大騒ぎをして。下から二階の子ども部屋に荷物を移動しただけでしょ。当然なんです、美咲がそこで寝るのが。結婚して遠くに行くわけでもないのに。まったく、もう! 海よりも深く? そんな甘やかしていたら美咲が溺れて溺死してしまいますよ! お父さん! 可愛いからこそもう少し厳しくしたらどうなんです。まったく、まったく、あなた達は、もう! とにかく、二階の自分の部屋に行って、もう寝なさい。分かったわね。美咲!」
そう言うとお母さんは、何してるんだか、と呟いて深いため息をついた。
そして、まったくやれやれだわ、と言って悪いものを振り払うように頭をぶるぶると左右に振りながら部屋を出ていった。
──お母さんは手強い。
お母さんから、まったくとか、もう、とかいう言葉が飛び出したら打つ手はない。
お父さんが、言った。
「こりぁ無理だな。美咲」
お父さんと顔を見合わせると私は、えへっと笑って肩をすくめた。
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