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ある襲撃
◆
西暦一〇一七年、三月八日の夕刻。その通りの通行人はまばらだった。
しかし、覆面姿の男たちが、その屋敷の周囲に集まってきたので、そのまばらだった通行人も血相を変えて散っていった。
秦氏綱は、配下の者十五名とともに平安京、六角福小路の清原致信の屋敷に押し入った。
氏綱は配下に「藤原保昌様からの火急の知らせがある」と声を上げさせ、信じた致信の手の者が正面の戸を開けると、声を上げる間も与えず、その者を切り伏せ、全員がわっと屋敷内に突入した。
氏綱と配下の者は、致信と邸内の男の使用人とおぼしき五名、住み込みの武士四名を殺害。一味は、悲鳴を上げていた致信の妻とおぼしき女性や下女などは放置して素早く逃げ去った。
秦氏元は、右馬頭源頼親に「清原致信を亡き者にせよ」と依頼され、息子、氏綱とその家人、湯浅友忠に命じて、人を集めて致信を討ったのである。
が、十日ほど経ったとき、検非違使権佐藤原景信が、突然、訪問してきたので親子は慌てた。
検非違使権佐とは、都の治安機関の高官である。それが自らやってくるなど、尋常な事ではない。しかし、藤原景信は、供回五人とあまりに少ない人数でやってきたので、訝しく思いながらも、秦親子は景信を奥座敷に通して接待した。
「検非違使権佐様、御自らのお出向き、恐悦至極にございます。このように急な御訪問。どのような御用向きでございましょうか」と氏元が挨拶すると、景信は
「確認したいことがあるのだが、時間は取らせぬ……ご子息、氏綱殿の配下に、湯浅という者がおるであろう」と言った。
秦親子は、顔を見合わせた。湯浅は、襲撃の人員集めを手配をした者だったからである。
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