先走る気持ち

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 改札を抜け、歩道橋。階段には桜の花びらが濡れて、へばりついている。青年はそれに気づかず踏みつけた。四月上旬とは言いつつ、夜はまだ寒い。青年は誰もいない歩道橋で立ち止まり、線路を見下ろす。柵に手を置き、乗り越えようとする。今日で終わりだ。  青年には家族があった。働く場所もあった。彼を求める場所がある。しかしそれに目を向けられないほど、青年は悲しみを持っていた。自分のいなくなった世界のその後を想像することなんて、不可能だった。 「待って!」思わぬ声に青年は振り返る。少女が手を伸ばしながら青年の方に歩み寄った。しかし少女の願いとは裏腹に、青年の動きは止まらない。腕に力を入れて、右足を柵にかける。 「ねぇ、お願い。少しだけでも待ってよ」少女は涙目になりながら叫ぶ。彼女のいとこが先日亡くなった。大切な人との再会が果たせない痛みは癒えていない。彼女には、目の前の青年が、いとこに重なって見えた。 「死なないでよ…」青年の動きが止まる。少女が搾り出した、夜風に乗って飛ばされそうな声は、確かに青年の柔らかいところに刺さった。 すると少女は持っていた鞄に乱暴に手を入れながら、何かを探した。しかし見つからず、少し考えた末に、首に巻いていたピンクのマフラーを差し出した。それは少女が、寒いからと両親に持たされていたものだった。 「今年の冬にこのマフラーを使ってる姿を見せてよ」少女の涙は風が拭いた。彼女に圧倒された青年はもう柵の中に戻っていた。柵にかけていた右手は、今やマフラーを持っている。 「それじゃあ、また…」少女は胸の前で小さく手を振って去っていった。青年は唖然として、少女の小さくも逞しい背中を見る。連絡先も知らないのに、また会うことは出来ない。ましてや今年の冬にマフラーを使っている姿を見せることなんて、なおさらだ。  しかし青年の心の中の絶望、孤独、苦痛は、少女に出会う前よりも薄くなっていた。 そして全てを消してしまうような、轟音を立てる電車は歩道橋の下を通り過ぎた。
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