第二章 十二月二十四日の震盪

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立ち上がり、少年は深々と頭を下げてきた。 「どうして?」 「先輩の命の音は、一旦ここまでだからです。現実を、書いてください。最初の約束と違うかもしれないけど、真実を」 「わかった。君がそう言うのなら、僕は従うよ」 尚も肩を震わせる渉太を座らせ、ぎこちなく頭を撫でる。  現実味をまったく感じないまま、その日と、さらにもう一日が、無音で過ぎ去っていった。豪雨の中、坂田妃奈乃の葬儀が執り行われる。短い時間だけ、悟は渉太と宮内と共に、それに参列した。常夏のような、燦々とした妃奈乃の笑い声が、耳の奥で響く。  覗き込んでみると、眠り姫は、白かった。 「どんな夢を、見てるの」 起こさないよう気を遣ってしまう。少女はただ、微笑を湛えて眠っている。肩を呼べば、目を覚ましてまた、紅鏡に負けない笑顔を見せてくれるように思えてならない。 「君の命の音は、僕が証明するから」 周囲と重なり合う彼女の音色が、聴こえた。 「おやすみ。また、そのうち」 悟は静かに、彼女の前から立ち去った。妃奈乃が今まで、十七年の人生で奏でてきた音は、たくさんのオーディエンスを集めている。会場の定員を超えてしまうほどに、妃奈乃との別れを惜しむ者は列を作っていた。 「悟さん」 目を真っ赤に腫らした愛子と並んで、冬翔が声を掛けてくる。春の大型連休の間、ほとんど休みなく部活動に勤しんでいた二人にとって、妃奈乃との別れはあまりに突然だった。 「何も言わずになんて、ひどいですよね」 愛子は目を細めて、零れ落ちる涙を左手で拭う。 「いつも、廊下にこだまするくらいの挨拶をしていたような人なのに」 「そうですね、懐かしい。階段のいちばん上からでも、下にいる俺たちに気付いて、『おはよう!』って叫んでましたね」 「そうそう」 高校生たちは三人、笑顔を絡めた。 「妃奈乃先輩、わざと、教えてくれなかったのかもしれませんね」 白い花々に囲まれて、トランペット片手に全力の笑顔をカメラに向ける妃奈乃。冬翔は遺影から、目を離さなかった。 「『もうすぐ死ぬかもなんて言ったら、みんな私のことで頭いっぱいになるでしょ』とか言ってそう」 「それを嫌がるんだよね、あの子。目立つことは嫌いじゃないけど」 「ですね、ソロとかあんまり、緊張してないみたいでしたし。妃奈乃先輩、言ってましたよ。『もし私に何かあったら、忘れないでほしいけど、引きずらないでね』って」 「らしいなあ」  『命の音』として書かなくとも、渉太らの中で妃奈乃の命は証明されている。それだけではもったいないと、悟は痛感していた。妃奈乃のことだけでなく、渉太、愛子、冬翔の存在があってこそ響く和音を世界に届けなくてはと、井ノ屋証は気合を入れ直した。 「今まで『命の音』は、みんなの命と生活が続いていくように書いてたんだけど、渉太くんが変更してほしいって言ってて。僕も納得しているし、妃奈乃ちゃんをモデルにしたキャラクターは、妃奈乃ちゃんと同じ人生を進んでもらおうと思ってる。それで構わないかな」 「もちろんです、たぶん妃奈乃も、それを望むはずなので」 愛子はもう、泣いていなかった。天使になった親友の笑顔は、解けない魔法のようであった。  その魔法は、わずか二週間後にさらなる効果をもたらす。  渉太の心臓移植手術が行われたのだ。  日本国内でその件数は、限りなく少ない。その手術を必要とする患者の多くは、アメリカに渡るなどしている現状で、今度の手術は奇跡としか形容できなかった。 「妃奈乃先輩が届けてくれたに違いありません」 五月の最終日、退院の手続きを済ませた渉太は大荷物を抱えて、七〇八号室に顔を出した。この頃、各地で梅雨入りが報道されているが、今日の雲は数えるほどだけ浮かんでいる。 「なんだか、別人だね」 「心臓が違うので」 「それもそうか」 渉太の提案で、屋上へと向かう。 「ここで語り合うのも最後だね」 新緑の楠木を囲むベンチに、愛子が話しかけてきたあの日の残像が視える。 「また遊びに来ます」 「そんなのいいよ。せっかく病院から出られるんだから、思う存分部活動に集中しなさい」 渉太は大きく息を吸って、空に向かって叫んだ。 「妃奈乃先輩も、吹いてくださいねー!」 返事は、直接渉太の心に届いているのだろう。 「妃奈乃ちゃんは、上手なの?」 男子高校生にしては小柄な渉太と並んで、爽やかな空を見つめながら、少女に思いを馳せる。 「トランペットらしい、華やかな音です。それと同時に、暖かい音がします」 「聴いてみたいな」 「天国で会った時に、演奏会をしてもらいましょう」 「みんなで演ってもらおう、渉太くんのドラムも楽しみだな」 「それなら、定期演奏会に来てください。言いましたよね」
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