第一章 五月六日の幕開き

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第一章 五月六日の幕開き

 実に四年振りの再会だというのに、彼らはまるで連休前に会っていたかのような挨拶を投げ合った。  新年度が始まって以来最大の楽しみである春の大型連休、その唯一にして最も憂鬱な最終日。遠野(とおの)(さとる)がその居酒屋に登場したのは、この日も最後だった。 「変わんないな。あ、もしかして、大御所は最後っていうお約束ですか? 井ノ屋証先生」 右眉を上げてからかう後藤(ごとう)真司(しんじ)は、十分前行動が板についている男である。 「昔から成長していないだけよ」 谷原(たにはら)茉希(まき)は元から明るい茶髪を左手でかきあげ、その手で悟に、向かいの椅子を促した。 「黙って聞いてたら、君たち言いたい放題だね」 「お前に召集かけられたんだから、遅れられて文句を言うのは当然だろ」 「僕、どれくらい遅れた?」 「二十分よ。その重大さがわからないんでしょうけれど」 茉希の言葉は、灰色の呆れを覗かせている。後ろ手に個室の扉を閉めると、居酒屋らしい喧騒と煙草の匂いが、一気に別世界へと連れ戻されていくのがわかった。右手を顔の前に立て、一応謝罪の意を表す。暖色の照明に照らされた懐かしい友人たちは、あの頃と変わらず諦めてくれた。  テーブルと椅子四脚しかなく、天井も低いこの個室は、悟からの連絡を受けた真司がしっぽを振って予約した場所だ。五年前、文化祭の打ち上げで来た時と同じ席に着くと、ジョッキを三杯盆に乗せた店員と喧騒が、開く扉と息を合わせてぶわりと流れ込む。それがまた、自分達から離れていったのを確認して、三人は乾杯した。最近、冷えたビールが美味い。口腔内から喉の奥へ、胃へ、心地よい炭酸が進んでいくのを堪能する。しばらくするとまた店員に連れられ、焼き鳥が数本と塩キャベツ、タコの唐揚げがテーブルに登場した。 「それで、ついにデビューですか。どんな話?」 丁寧にジョッキをテーブルに戻してから、真司はその縦に大きな目を期待でいっぱいにして訊いてきた。  忘れないうちに渡しておこう。  黒いバッグから、まだ世に出回っていない単行本を二冊、取り出す。入道雲がもくもくと太陽に向かって手を伸ばしている夏空の写真を、白黒に加工した表紙。白く縁取った鈍色の明朝体が、『一色の虹』とその半分を覆っている。これが、小説家、井ノ屋証のデビュー作だ。 「二人には、絶対渡そうと思ってたんだ」 「もしかして見本?」 恭しい態度で受け取った真司は、それを角から端から、愛おしそうにじっくりと眺める。  井ノ屋証というのは、遠野悟のペンネームだ。二十六になったばかりである彼は大学時代、今一緒にいるこの二人とたった三人、文芸サークルで活動した。その頃は、文化祭で売った文芸誌もどきが少々話題になったくらいで、小説家デビューには至らず。卒業後も一人で細々と書き続けた結果、『一色の虹』でついにその世界に飛び込むことができた。  茉希は早速、表紙を開こうとしている。 「今読むつもり?」 「やっぱり気になるじゃない。どんなお話なの?」 「ネタバレしていい?」 「絶対にだめだ」 真司に手綱を引かれた。無論、ネタバレなどしようとは思っていない。むしろ真っ新な気持ちで物語の世界に入り、登場人物たちと少しずつ距離を縮めてほしい。  そうは言っても今概要を説明しておかないと、二人、主に茉希が、現実世界に戻ってこなくなる。いくら自分たちとはいえ、四年振りの再会がただの読書会になってしまっては、さすがに寂しい。 「色覚障害の少年が、抽象画を描いて生きていく物語で。実は絵の具って、混ぜたら質感が変わる添加剤があったりするんだけど。だから絵って、完全な二次元じゃないんだ。その平面と立体の間に、色から遠いところにいる少年が入っていって……」 「待て、これ以上は自分で読む」 つい気持ち良く語ってしまうのを止められた。自分の脳内を、少なくとも数ヶ月は支配していた彼らの物語について、話したいことはいくらでもある。ただ嫌がられては困るので、塩キャベツをパリパリ咀嚼して、悟は物理的に、自分の喋りを止めた。  続いて二品、チーズ料理がまとめて運ばれてくる。扉が閉められると同時に思わずつっこむと、茉希に睨まれた。文句を言うなら時間通りに来い、の意だ。横に広く黒目がちな茉希の視線は、「目は口ほどに物を言う」を具現化したようなものである。  ただ、時間にはルーズな悟であっても、その視線が大学時代のそれより若干弱いことには気が付いた。どうもあの頃より、その目が捉えている情報量が少ないように見える。 「茉希、もしかして、書いてない?」 悟に問われたのと同時に、彼女の大きな目は、図星の色に染まった。  少なくとも、共に過ごした四年間のうち、彼女が一定期間書かずに生きていたということはまずなかった。悟を先輩と勘違いして話しかけてきたあの日から、卒業制作と称して書いた作品を手渡しあったその日まで。本を読んでは書き、書いては読んでいた。もちろんそれは悟自身もだし、もう一人、今目の前で、こんがり焼けたチーズをカリッと言わせている男もそうであった。  その時の茉希とは、この現実世界を見つめる姿が、まるで違うのだ。当時はどんな些細なことも、創作の糧として拾い上げていた。それなのに今は起きることすべてを、そこらに流してしまおうという諦観さえ見える。 「この世界は、繊細に物事を受け取るタイプの人間には、向いていないのよ。私たちみたいに書く人は、出来事すべての解像度を限界まで上げて、隅々まで見ようとするじゃない? それが必要だってわかってるからね。でも『普通』に生きている以上、解像度なんて低くていいの。モザイク処理されたってじゅうぶんなくらいにね」 些か具体性を放棄した言葉を並べあげ、茉希は頬杖をついた。 「言いたいことはわかるけど」 「でしょう? ここ半年は小説に触れてなかった割に、文章表現は衰えてないみたいだわ」 ふふん、と的外れに得意気な表情で、彼女はビールを飲み進める。 「半年も書いてないなんて、君じゃないみたいだね」 「書くどころか、読んですらいなかったわよ。単行本を手に取ったの、久し振り。もちろんこの作品は、大切に大切に、読ませていただくから」 「お前、活字中毒じゃなかったのかよ」 真司が挟む。あなたたちもでしょ、と軽く蹴飛ばされる。 「書かずにいて、今まで大丈夫だった?」 悟は半分冗談、半分心配で、尋ねた。何と言っても、三人は書くことで出逢ったのだ。書いていなければ、出逢わなかったのだ。 「大丈夫じゃなかったから、書かなかったのよ。繊細に丁寧に生きて物語を創るってことに、疲れちゃったの」 続けてテーブルに運ばれてきた冷奴のようにつるりと、彼女は言い切ってしまう。 「本当に、疲れただけ?」 問わずにはいられなかった。
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